第161話 灼熱エリア
甲高く鳴り響いたその笛の音は、どうやらケルベロスの背後から聞こえて来るようだった。
誰かがケルベロスの注意を引こうとしてくれているのか?
などと考えた俺は、未だにその場から動こうとしないケルベロスを見上げて、落胆のため息を吐こうとしたのだが……。
思ってもみなかった変化を目の当たりにして、俺は思わず声を漏らしてしまった。
「あれ?」
ついさっきまで唸り声をあげていたはずの3つの首が、皆一様に半目になって、睡魔と戦い始めているのだ。
よほど強烈な睡魔に抗うことができなかったのか、ついに意識を失ってしまったケルベロスは、その場に伏せて眠り始めてしまう。
危うく、ケルベロスの頭の下敷きになってしまいそうだった俺は、ギリギリのタイミングで現れたクレモンによって、助け出された。
俺の両肩を掴んだまま、ケルベロスから遠ざかるように引きずってくれたのだ。
「重たいであるな……」
「悪い、クレモン……助かった」
「礼ならあの男に言うべきですぞ」
そう言ったクレモンは、豪快にいびきをかいて寝ているケルベロスの背後を、そのくちばしで示した。
彼の言う通りに、そちらへと目を向けた俺は、怪訝な表情でケルベロスを見上げながらこちらに歩み寄って来る男に声を掛ける。
「その笛、アーゼンだったのか。ありがとう、おかげで命拾いしたよ」
「あ? まぁな。それより、このデカブツ、なんで寝たんだ? この笛の音で支配下に置けると思ったのによ」
ケルベロスが眠ってしまったことに疑問を抱いたのか、そんなことを呟いたアーゼンは、軽々と俺を担ぎ上げると、アンナの居る横穴へと走り出した。
走る振動で全身に痛みが走るが、歯を食いしばって我慢する。
「みんな無事?」
横穴に入ると、心配そうな表情のアンナが声を掛けて来る。
そんな彼女に何も答えなかったアーゼンは、少し乱暴に俺を地面に降ろした。
「ちょっと、けが人をそんな乱暴に扱う!? はぁ、あんた大丈夫? 魔法を使えないんだから、無茶するんじゃないわよ」
そう言ったアンナは、腰に下げていた小さな袋から、何やら小瓶を取り出すと、躊躇することなくその中身を俺の口に注いだ。
途端、仄かな温もりが全身に染み渡って行き、深く根付いていた痛みを一瞬にして消し去ってしまった。
「なんだ、これ……痛みが」
「フェニックスの涙よ。回復薬。支給品だから、気にしないで良いわ」
「これが……」
フェニックスの涙。
その名を聞いた俺は、即座にアルマとヴィヴィのことを思い出した。
同時に、小さな罪悪感を抱く。
間違いなく、この薬が作られる過程で、アルマとヴィヴィはひどい仕打ちを受けているに違いない。
そうして出来上がった薬を、享受してしまったことに対する罪悪感だ。
とはいえ、その効き目は絶大で、バーバリウスがあの2人を確保したがるのにも頷ける。
「おい、治療が済んだんなら、早く進むぞ」
深く考え込みそうになっていた俺は、アーゼンのその言葉を聞いて我に返った。
そうして、周囲の様子を見渡した俺は、彼の言葉の意味を理解する。
俺とアンナとアーゼンの他に、カーブルストンの住民と思われる人々が、狭い横穴の中に座り込んでいる。
俺を含み、全部で20人くらいだろうか。
多くの人々は、度重なる異変に心が着いてこれず、疲弊しているようだ。
俺達のいるこの横穴は、ケルベロスが入って来れる程大きな穴ではない。
とはいえ、ここはダンジョン内なのだ。
ケルベロス以外の魔物がいつ現れてもおかしくはない。
ただでさえカーブルストンの住民を守りながらダンジョン内を進むのは、単純に時間がかかる。
となれば、より安全な場所を探すことが最優先と言えるだろう。
取り敢えずその場に立ち上がって、身体の調子を確かめた俺は、ふと、違和感を覚えたので、傍にいたアンナに問いかける。
「なぁ、アンナ。この横穴、微妙に暑くないか?」
「今更気づいたの? まぁ、意識がはっきりしてなかったから、仕方ないわね。多分、この先に灼熱エリアがあるんだと思うわ」
「灼熱エリア……? 物騒な名前のエリアだな」
「まぁ、見れば分かるわよ」
溜息と共に短く言い切ったアンナは、肩にクレモンを乗せたまま穴の先へと歩き始めた。
そんな彼女の後に続くように、俺も歩き始める。
「ニッシュ、大丈夫? もう、身体は痛まない?」
「ん? あぁ、大丈夫だぞ。今度アルマとヴィヴィに会ったら、ちゃんとお礼を言わないとな。それより、どうしたシエル? なんか、しおらしいぞ?」
「そ、そんなことないわよ! 気のせいよ気のせい!」
「そっか」
俺の頭の上で声を荒げるシエルに、俺は短く応えながら、笑みを浮かべた。
多分だけど、シエルは俺と同じように、それ以上深く考える事は避けたいと考えている気がする。
考えてしまえば、さっきのことを思い出してしまうから。
バディの捕食。
命の危機があったとはいえ、シエルが俺に対して、それを望んできたこと。
この事実を深く考えるには、もう少し時間が必要だと俺は思った。
少なくとも、今はそんなことを考えたまま切り抜けれるような状況じゃない。
「分かってはいたけど、暑いわね……」
しばらく歩いたのち、ようやく細い横穴の終着点にたどり着いたアンナは、そう呟いた。
そんな彼女の隣に立って、広大な空間の入り口に辿り着いた俺は、眼下に広がる赤い光景を目の当たりにして、ため息を吐く。
「灼熱ね、なるほど」
やけに広いそのエリアは、ゴツゴツとした岩石とドロドロに溶けた溶岩しか存在していなかった。
至る所から噴き出す溶岩が、エリア全体の空気と岩石を、赤く焼いている。
以前、俺達が居を構えているダンジョンで見た、溶岩エリアとは比べ物にならないほど、熱が満ちている気がした。
「こんなのが地下にあれば、そりゃ上が砂漠化するわけだぜ。くそ。で、こっからどうするんだ?」
悪態を吐くアーゼンは、先頭に立っているアンナに向けて問いかけた。
問いかけられたアンナは、顔中汗だらけになりながらアーゼンの方を振り向くと、手にしていた本を掲げて告げる。
「まぁ、手段が無いわけじゃないわ。少なくとも、この本によればね。さっきの私たちの努力も、無駄じゃなかったわけよ」
そう得意げに告げたアンナは、そっと俺に目配せをして、ウインクしてきたのだった。