第146話 安堵と喜び
龍の体表が河の水で濡れているせいか、しっかり握ったとしても非常に滑りやすい。
そのせいで私は何度か手を滑らせ、そのまま落下しそうになった。
おまけに、登れば上るほど荒れてゆく横殴りの風が、私の身体を宙に放り出そうとしてくる。
簡単に言って、過酷な道のりだった。
指先や太ももなど、全身が軋むように痛むのを感じながらも、私はなんとか袋のある付近にたどり着く。
それでも、これで全て終わったわけじゃない。
むしろ、本題はここからだ。
「あと少し……デセオ、準備は良い?」
「うん、大丈夫だよ。それより、マーニャは大丈夫? 結構無理して登ってたみたいだけど」
「これくらい、大丈夫よ」
心配してくれるデセオを安心させるために、そして、自分を鼓舞するために。
私は短く告げると、深呼吸して袋の元に向かった。
龍が街を覗き込んでくれているおかげで、私が今いる後頭部付近は普通に立つことができる。
それでも一応、体勢を低くしたまま進んだ私は、周囲の様子を観察した。
今までに登って来た、鱗のゴツゴツとした体表とは打って変わって、見るからに柔らかい皮で出来た袋が4つ、膨張と収縮を繰り返している。
よく見れば、袋の表面に細い血管のようなものも見えるので、これらは間違いなく、この龍の身体の一部のようだ。
「4つもある……全部割れるかな?」
「1つ割った時点で気づかれそうだよねぇ……急いでやれば大丈夫かも? 一応、振り落とされたりしないように、どこか掴まりやすい場所を探そうよ」
「そうね」
デセオの提案を受けた私は、改めて周囲を見渡してみる。
比較的袋に近い場所で、掴まりやすそうな突起がある場所。
そんな場所を3か所ほど見つけた私は、一番近場にあった突起を握りしめ、大きく深呼吸する。
そうして、右手の掌にしがみ付いたデセオと目配せをすると、私は躊躇することなく、デセオの背中を膨張しきった袋に向けて振り下ろした。
針だらけのデセオの背中が袋を突き破った瞬間、パンッという乾いた音が辺りに響き渡る。
音があまりにも大きいため、耳に若干の痛みを覚えながらも、私は歯を食いしばって耐えた。
私が空けた穴を起点として、袋には大きな裂け目が出来上がり、その裂け目から猛烈な風が吹き出している。
その風に吹き飛ばされないように、しっかりと突起にしがみ付いた私は、続いて近場にあるもう一つの袋にデセオの背中を振り下ろした。
1つ目と同じように破裂した袋から、猛烈な勢いの風が吹き出してくる。
直後、耳をつんざくような豪快な咆哮が、カナルトスの空をかき乱した。
龍が痛みでも感じたのか、急に頭を振り回しながら咆哮を始めたのである。
「きゃあぁぁぁ!!」
「マーニャ! しっかり掴まって!」
どこかでデセオがそう叫んでいるのは聞こえたが、彼の姿を確認している余裕はない。
吹き飛ばされないように突起にしがみ付く私。
だけど、そんな私の努力は、一瞬にして無に帰すのだった。
瞬間的に、左手に激痛が走ったのだ。
何事かと、突起を握りしめているはずの左手を見た私は、事態を理解し悶絶する。
「っっっ!!!」
左手の甲が抉れ、真っ赤な肉が露出しているのだ。
痛みのあまり、声にならない絶叫を上げた私は、徐々に左手から力が抜けてゆくのを感じた。
何が起きたのか分からない。
ただ分かるのは、何らかの攻撃によって、私は左手に傷を負ったということ。
そして、左手の支えを失ったこの状況では、身体を支え切れず、落下してしまうということ。
それだけでも絶望的な状況だというのに、私はさらに絶望的な光景を目の当たりにする。
袋を割られたことで体勢を崩してしまった龍が、カナルトスの街に向かって倒れこもうとしているのだ。
風を切る轟音と街から響いてくる無数の悲鳴を耳にしながら、私は絶望する。
助けになるどころか、邪魔してしまった。
そう思ってしまった瞬間、右手から力が抜け、私の身体は宙に放り出されてしまう。
「マーニャ!」
近くでデセオが叫ぶの聞こえる。
視界の端では、無数の水の塊が私を取り囲もうとしているのも見える。
きっと、私の左手に攻撃したのは、この水の塊に違いない。
今となってはどうでも良いことを考えた私は、水の塊たちが細かな振動を始めたことに気が付いた。
今にも何か攻撃を仕掛けてきそうだと、本能的に感じた私は、ゆっくりと目を閉じる。
どちらにしても、このまま頭から落下してしまえば助からない。
弾に撃ち抜かれて死ぬのも、河の水面に落ちて死ぬのも、大差ないだろう。
そう思った次の瞬間、聞き覚えのある声が、私の脳を貫いた。
「諦めてんじゃねぇぞ! 嬢ちゃん!」
どこからともなく聞こえて来た声に、思わず目を開けた直後、私は屈強な男によって抱きしめられた。
頭や体を固定するように抱きしめられている私は、周囲の様子を確認したくてもできない。
そんな状況に驚く余裕もなく、ただ息を殺して固まっていた私は、無数に響く乾いた音を耳にした。
この音は、浮き水から発せられる弾丸の音だ。
それらは、私を抱きしめている男に向けて放たれているようだった。
時折、低い呻きを上げる彼は、それでも私を庇ったまま自由落下を続ける。
どれほどの時間が経ったのか、浮き水による一斉砲火が止んだのを見計らったように、男を抱きしめる力を緩める。
直後、ものすごい衝撃とともに、私は強烈な重力を感じた。
何事かと周囲を見て、私は落下が止まっていることに気が付く。
端的に言えば、助けられたということになるのだろう。
激しくなり続ける鼓動と荒い呼吸のまま、私は助けてくれた男、ジェラールの顔を見上げる。
しかし、彼の姿はいつもの物ではなかった。
オールバックの白髪はいつも通りだが、それに加えて、いくつかの特徴が増えているのだ。
1つは、顔や首元に見える鱗のような物。
そして、私の身体を固定するように巻き付いている、太くて長い尻尾。
おまけに、ジェラールは右手と右足を使って、カナルトスの下のメインブリッジ側面に貼りついているのだ。
その姿はまさにトカゲ。
そんな彼は、上空の様子を見た後、固まっている私の姿を見下ろして、告げた。
「嬢ちゃん、無事か? ったく、ヴァンデンス隊長はこうなること分かってて俺を寄こしたのか? 俺は空中戦は苦手だってのに」
そう告げるジェラールの身体には、いくつものかすり傷ができている。
「ジェラールさん……大丈夫ですか?」
「ん? あぁ、俺のことは気にすんな。鱗があるから、見た目ほど痛くねぇぞ。それより、ほら見てみろ」
促されるように河の方に目を向けた私は、思わず目を見開いてしまった。
カナルトスの街に向かって倒れこんでいたはずの龍が、なぜか河の上に背中から倒れこんでいる。
そうなった理由は、一目瞭然だった。
龍の全身に巻き付くように、無数の氷柱が出来上がっているのだ。
それらの氷柱が、水面に龍を拘束してしまっている。
間違いない、倒れこみそうになった龍を、ウィーニッシュ達が拘束してしまったのだろう。
「良かった……」
私がそう呟いた時、頭上から私を呼ぶ声が響いてきた。
「マーニャ!」
その声を聞き、咄嗟に空を見上げた私は、こちらに飛び込んでくるウィーニッシュの姿を見る。
安堵と喜びの籠った表情。
彼の表情を見て喜びを覚えた私は、直後、彼と強い抱擁を交わしたのだった。