第144話 絶句
少し時を遡り、ウィーニッシュがアンナによってカッセル邸に連行された頃。
カナルトスの東に浮かぶ小舟の上に、マーニャ達は居た。
河の水をかき分けて、静かに進む船の上に腰を下ろしていたマーニャは、緊張で唇をかみしめながら、頭上の街を見上げる。
ゲイリーによれば、街の下に伸びている無数の柱のうち、幾つかに梯子が設置されているらしい。
私も梯子を探さなくちゃと思いつつ、マーニャはどうしても視線を街に上げてしまっていた。
今まさに、ウィーニッシュが街のどこかにいるのだ。そう考えるだけで、はやる気持ちが私の顎を持ち上げてしまう。
ウィーニッシュなら大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、何とか梯子探しに戻ろうとしたマーニャは、すぐ傍にいたゲイリーの声に驚き、身を縮めてしまう。
「止まれ!」
彼の短い指示を聞いたジェラールが、漕いでいたオールを水中から引き上げて、黙り込む。
そんなジェラールと私は、2人してゲイリーの視線の先に目をやった。
一本の柱の近くに、多くの人が集まっている。
その人々の身なりを見る限り、恐らく兵士なのだろう。
彼らは何やら水中に伸びているらしい氷のトンネルの周辺を警備しているらしかった。
何をしているのだろう。
そんな疑問を抱いた直後、マーニャは1つの発見をする。
彼らがいる柱には、ゲイリーの言っていた通り梯子が設置されていたのだ。
真っ直ぐ上に伸びているその梯子は、そのまま街まで繋がっている。
そのことに私が喜びの声を上げようとした直後、ゲイリーが告げた。
「ジェラール、船をもっと東の方に移動させろ。なるべく柱の陰に隠れるように」
「分かった」
短く応えるジェラールの声と、緊張感を纏ったゲイリーの声を聞いた私は、大きく深呼吸した。
多分、あの兵隊達にはなるべく見つからないようにした方が良いみたい。
なるべく息を押し殺し、身を低く保ったまま様子を伺った私たちは、何とか大きな柱の陰に姿を隠すことに成功した。
そうして、ひそひそ声で会話を始める。
「ゲイリーさん、あそこに梯子がありましたよね」
「あぁ。だが、あの様子だと、あそこは使えない。別の場所を探そう」
「別の場所を探すのは良いけどよ。なんでそんなに詳しいんだ?」
ジェラールの問いかけに、一瞬嫌な顔をしたゲイリーは、それでも小さな声で応えた。
「故郷の事なら、誰だってある程度は詳しいものだろう?」
「なるほどな」
納得して見せたジェラールは、止めていたオールを少しだけ動かしながら、再びゲイリーに問いかける。
「で? 今度はどのあたりを探すんだ?」
「一旦東に向かって、そのあと南に向かう。そうすれば、もう一か所梯子があったはずだ」
「よし、東からの南だな」
そうして東にゆっくりと漕ぎ出した船の上で、私は再び周囲に視線を投げた。
兵士達の姿を見たことで緊張が増したせいか、先ほどまでのように気が散ることもない。
僅かな変化も見逃すまいと息巻いていた私は、ふと、船の速度が少しずつ上がってゆくことに気が付いた。
心なしか、船の周りに僅かな水流のようなものができているような気がする。
そのことをゲイリーたちに伝えようとした私は、必死に柱を見上げて様子を探っている2人の様子を見て口を噤んだ。
『ゲイリーさんが魔法を使って、船の速度を上げてるのかも』
そんな風に自分を納得させ、私は再び梯子を探すことに専念する。
そうして、どれくらい進んだだろうか。
不意に、ジェラールが小さく呟く。
「なぁ、ゲイリー。俺が船を漕がなくても進むんだが……」
「は?」
その言葉を聞いたゲイリーは、疑問を滲ませた口調で呟くと、河の水面に目を向けた。
気のせいじゃなかったんだと思いつつ、私も河の様子を伺う。
やはり先ほど感じたように、河の水が何かに操られているように細かな流れを作り出していた。
とはいえ、激しい波を伴うような流れではなく、ひどく穏やかでゆったりとした流れだ。
そんな河の中を覗き見ていた私は、河の底の深淵に引きずり込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
と、その時。
頭上から何やら爆発音のようなものが響き渡ってきた。
距離的に離れているためか、籠ったようなその音に釣られるように、私たちは頭上を見上げる。
それが間違いだった。
突然、穏やかだった河の水面が激しく波打ちだし、煽られるように船が大きく揺れ出したのだ。
気が付けば、全身を包むような不快感と冷気に満たされた私は、歪む視界の中で状況を理解する。
船の縁から河の中を覗き込むよう体勢だった私は、反動で手を滑らせ、河の中に転落してしまったのだ。
眼前を通り過ぎてゆく無数の気泡と、必死に水を掻く自分の両手を見ながら、私はパニックを起こしてしまう。
頭から水中に落ちたため、上下左右が分からない。
否が応でも口から空気が漏れてゆくせいで、胸が苦しい。
必死に空気を求めて泳ごうとするが、全身が何か強い力に引きずり込まれてしまい、自由に身動きを取れなかった。
成せる事など何もない。
唯一、両手だけは動かせた私は、何かに捕まるために無我夢中で水を掻きわけた。
そして、右手の指先が何か硬いものに触れる。
そう感じた直後、私は右手で掴まったそれに強引に引っ張られ、ようやく水中から脱することに成功した。
少し飲み込んでしまった水を吐き出すため、激しくせき込んだ私は、そこでようやく、自分が何かにぶら下がっていることに気が付く。
右手で掴んでいるそれは、なにかごつごつとした突起物のようで、青く鈍色に光っていた。
同じような色の突起物が、いたるところに見えるその巨大な壁は、何なのだろう。
そう思った私は、ふと、足元に視線を落として絶句する。
遥か下に、カナルトスの街が見えるのだ。
「なに!? ここ、どこ!?」
焦りで叫んだ私は、状況を確認するために四方八方に目をやる。
そうして、自身の頭上を見上げた私は、再び絶句した。
そう、私は今、河の中から現れた巨大な龍の、首付近にしがみ付いている。
「これはたまげたなぁ」
今の今まで黙ったまま私の右肩にしがみ付いていたデセオが、小さく呟いたのだった。