第139話 追憶:深淵の理由
街に向かって倒れ掛かるサーペントは、必死に身をよじって体勢を戻そうとしている。
挙句の果てには、周囲に浮かんでいた無数の水の塊で体を支えようとし始めたが、成すすべなく、カナルトスの街を踏みつぶしてしまった。
岩が崩れる豪快な音が周囲に鳴り響き、砕け散った瓦礫がセルパン川の深淵へと沈んで行ってしまう。
そんな様子を茫然と見つめていた俺とアンナは、一瞬、互いの顔を見合った後、再び眼下のサーペントに視線を移した。
「何が起きたの?」
「さぁ……」
『って、呆けてる場合じゃないわよ! 街の皆は無事!?』
突然すぎて呆けてしまっていた俺の頭を、シエルが頭の中から叩き起こしてくる。
「そうだ! みんな無事か!? 返事してくれ!」
言われてようやく状況を飲み込めた俺は、大声を張り上げながら、崩れてしまった街の方へと急降下する。
サーペントが倒れこんだ衝撃が強すぎたのだろう、メインブリッジのうち、2本が完全に寸断されていた。
もちろん、それら2本に支えられていた街も、半分以上が砕け散ってしまい、既に人が住めるような状態ではなくなっている。
「皆! 大丈夫か! 返事してくれ!」
崩れ去ってしまった街の上空を飛びながら声を掛け続けた俺は、河の水面を舐めるように見回す。
川底に沈んでいく大量の瓦礫とは対照的に、細かくなった船の残骸が水面に浮かんでいるのだ。
それらの残骸にしがみ付いている人影はないだろうか。
あるいは、水面に顔を覗かせている人影はないだろうか。
必死に目を走らせていた俺は、ふと、倒れこんでいるサーペントの姿を目にした。
まだ息はあるが、転倒時に頭を強打してしまったせいだろう、なんとも言えない虚ろな瞳を、宙に泳がせている。
そんなサーペントの背中に、俺は奇妙なものを見つけた。
硬くて青い鱗に覆われている筈のサーペントの体表に、薄い膜のような物が貼りついているのだ。
いや、貼りついているというのは違うかもしれない。
萎んでいる、と言った方が良いのだろうか。
まるで、穴が開いて割れてしまった風船のような、そんな物。
そこまで考えた俺は、今はそれどころじゃないと自分に言い聞かせて、皆の捜索を再開した。
どれほどの時間が経ったのか、しばらく声を張り上げながら街の周りを飛び回っていた俺は、聞き覚えのある声を耳にする。
「ウィーニッシュ! ここですわ!」
「メアリー! 無事だったのか!」
かろうじて残っている柱の傍、小さな陸地にメアリーがいた。
他にも、カーズやイワン、そしてクリュエルも揃っている。
そこに降り立った俺は、ホッと安堵のため息を吐くと、皆の顔を見回して告げる。
「無事でよかった……」
「無事、ねぇ……」
俺の言葉を聞いたイワンが、小さく呟きながら周囲を見渡す。
崩壊してしまったカナルトスやメインブリッジ、そして、細かな傷を負っているイワン達。
掛ける言葉を間違えたか、と考えた俺が、何とかフォローを入れようと頭をひねっていた時、メアリーが呟く。
「いいえ、まだ見つかっていない方が居ますわ」
「まだ見つかってない? ……あ! ゲイリー! と、マーニャ!」
言われて思い出すあたり、今の俺はあまり頭が回っていないようだ。
すぐにでも探しに行こう。
そう考えた矢先、河の中から何者かが這い上がって来た。
「ゲイリー!」
なぜかずぶ濡れのゲイリーが、誰かを背負った状態で姿を現したのだ。
そんな彼を見て、俺やメアリーが声を上げる。
相変わらず無口なまま俯いているゲイリーは、ぼたぼたと水を滴らせながら、深いため息を吐いた。
陸に上がれたことに安堵したのだろう。
「ゲイリー、無事だったか。流石だな。背中に背負ってるのは……」
「ゲイリー……ゲイリー!? お前、ゲイリーか!?」
疲れ切っている様子のゲイリーに声を掛けようとした俺の言葉を遮るように、イワンが叫ぶ。
そうして、ゲイリーに駆け寄ったイワンは、顔を確認するために彼の両頬に手を添えた。
半強制的に顔を上げさせられたゲイリーは、その虚ろな瞳でイワンを見つめ、小さく呟く。
「兄さん……」
「やっぱり! ゲイリーか! 大きくなったなぁ! 何年ぶりだ!? こんな時じゃなけりゃ、色々と話したいことがあったんだけど……」
ゲイリーの返事を聞いたイワンは、今までに見たことが無いほどに嬉しさを声に滲ませた。
しかし、兄の顔を見ても表情を一切変えないゲイリーの様子に気づいたイワンは、途中で言葉をすぼめる。
滲んでいた嬉しさは薄れ、代わりに動揺の混じった声で、イワンがゲイリーに問いかける。
「ゲイリー……どうしたんだ?」
「……」
彼の問いかけに沈黙で答えたゲイリーは、ゆっくりと俺に視線を送ると、目を閉じて小さく頭を下げてきた。
まるで、何かの謝罪でもするように。
「どうしたんだよ、ゲイリー」
彼の行動に疑問を抱いた俺が、そう尋ねると、ゲイリーはゆっくりと背中に背負っていた人物を足元に寝かせた。
その人物の姿を見て、俺達は全員息を呑む。
安っぽい外套に身を包んだその人物は、俺達が良く知る、一人の女性だった。
艶のある栗色の髪の毛を持った、かわいらしい女性。
言うまでもない。マーニャだ。
ゲイリーが彼女のことを助けてくれたのか、と一瞬考えた俺は、視界が涙で歪んでゆくことに気が付き、ようやく現実を直視する。
マーニャの左半身が無い。
まるで、何かに消し飛ばされてしまったかのように、腕も足も無くなってしまっている。
気が付けば、俺は膝からその場に崩れ落ち、泣き喚いていた。
いや、泣き喚いたのは『俺』か?
他の皆がどんな顔をしているのかも、何か声を掛けてきているのかも、何も分からない。
ただただ、悲しみと混乱と苦しみに任せて、泣きわめく。
もうすぐ陽が落ちてしまいそうなほどに周囲が暗くなった頃、泣きつかれた俺に、イワンが語り掛けてきた。
そっと添えられる彼の手に振り返った俺は、心配そうに俺を見つめる皆の姿を見る。
「ウィーニッシュ……落ち着いたか?」
「……」
まるで割れ物でも扱うかのように慎重なイワンに、俺は沈黙で答える。
そんな俺の肩をポンポンと叩いたイワンは、首に掛けていた水龍の鱗を外すと、俺の額に当てがって来る。
「カナルトスでは弔う時、こうやって悼む気持ちを鱗に込めて、その鱗を亡くなった人と一緒に、河の底に沈めるんだ。この娘もきちんと弔ってやろう」
まるで諭すように告げたイワン。
彼の言葉を鵜呑みにした俺は、イワンから鱗を受け取ると、自身の額にこすりつけた。
ゴツゴツとした硬い感触が、痛みとなって伝わってくる。
しばらくの間、額に鱗をこすり続けていた俺は、腕に疲労感を覚えてからようやく、手を止めた。
そして、マーニャの首に水龍の鱗を取り付けようと、彼女の首に俺が腕を回した直後。
聞き覚えのある音を、俺の耳が拾った。
それは、空気を切り裂くような、軽い音。
一瞬だけ鳴り響いたその音は、目にもとまらぬ速さで俺の手元を弾いてしまう。
「あっははははは! やったやった! 命中! さすがあたし!」
頭上から聞こえてくるケラケラという笑い声と、明るい声を聞きながら、俺は自分の手元を見つめる。
水龍の鱗が無い。
持っていたはずの、大切な鱗が無い。
どこに行った?
「あれぇ~? まだ気づいてないのぉ!? ウィーニッシュって、かなり頭が悪いんだね!」
「貴様!!」
頭上から聞こえてくる声に対して、メアリーが怒号を上げている。
そんな様子を見る気にもなれなかった俺は、ふと、近くの水面に目を向けた。
水面には、まるで何かが落ちた跡を示すように、丸い波紋が出来上がっている。
何が落ちた?
そうだ、鱗が落ちたんだ。
俺が持ってた水龍の鱗を、誰かが弾き飛ばしたんだ。
ダレが?
ナンデ?
視界の端で、両手の甲が煌々と輝き始める。
そんな光を見たのか、頭上の声がより一層楽しそうに告げた。
「え? なになにその光!? ねぇ、ウィーニッシュ! もっとよく見せてよ!」
その声を聞いたオレは、ようやく顔を上げて、頭上を飛び回っている少女を見上げる。
ケラケラと、笑っている少女。
両手に持っている鞭が、ビュンビュンと音を立てながら、周囲の空気を切り裂いているみたいだ。
そんな音と彼女の表情を見つめていたオレは、良く分からない感覚に襲われた。
プツン、と何かが切れてしまったような、そんな感覚。
切れたのは俺の心か、それとも精神か。
確実に言えるのは、そこで俺の意識が途切れたということだ。
直後、唐突に訪れた暗闇に『俺』は既視感を覚える。
『ここは……』
『また会いましたね。あ、ちなみに今のは5回目の記憶です』
以前と同じように姿の見えないミノーラが、シエルの声で語り掛けてくる。
『5回目の記憶……』
そう呟いた俺は、あまりに後味の悪い記憶を飲み込んでしまうように、黙り込んだ。
『大丈夫ですか?』
『……正直、分からない、です』
『キツイですよね』
『……』
俺の口数が少なくなったせいか、ミノーラも気まずそうな雰囲気を醸し出している。
しかし、彼女が完全に口を噤むことは無かった。
『辛いことだと思いますが、でも、ここで立ち止まっちゃいけませんよ』
『……ですよね。分かってます。でも……』
『でも?』
『……自信が無いです』
『どうしてですか?』
『だって、俺は今までに7回も失敗してるんですよね?』
『そうですね』
『しかも、今回は、俺にはどうしようもないですよ!? サーペントもマルグリッドも、俺じゃあ敵わないほどに強かったし……それに……』
そこで言葉を噤んだ俺は、続きを口にできなかった。
否、口にしたくなかった。
俺はマーニャを助けることができるのか。
そもそも、なぜ彼女があんなことになったのか、完璧には理解できていないのだ。
どうすればいい?
何から、彼女を守ってやればいい?
そんな俺の苦悶を理解しているのか、ミノーラが優しい口調で話を始める。
『ところでウィーニッシュ君。人はどうして暗闇で眠ると思いますか?』
『え? 暗闇で眠る理由? そんなの、何の関係が……』
『答えは、その方が安心して夢を見ることができるからですよ。真っ暗闇の中の方が、余計なものが目に入らないでしょう? だから、小さな光にも気づくことができるんです!』
『何を言って……』
『深淵には、理由があるって意味ですよ! 見えない理由。知らない理由。それはきっと、深くて濃い理由があるんです。だから、まずは見えるものから、知ってるものから、少しずつ視野を広げていきましょう! そうすれば、いずれウィーニッシュ君にも、暗闇を見通す目が備わりますよ』
一息に言い切ったミノーラは満足げに、ふぅ、と息を漏らした。
そんな彼女の言葉の意味を、俺が完璧に理解できるわけがない。
それから程なくして、俺は意識が徐々に薄れてゆくのを感じ、その感覚に身を委ねたのだった。