第134話 追憶:マルグリッド
前方にジャック、その上空にアンナ、視界の左端には宙に浮いた謎の少女。
そんな3人と対峙した俺は、小さく呟いた。
「これはかなりヤバいな」
今にも飛び掛かって来そうなジャックに大きく注意を割きながら、他の二人にも意識を分散させなければいけない状況は、あまり好ましくない。
なんとか状況を打開したいが、助けてくれるような人も見当たらなかった。
一応、宙に浮く少女の足元に、大勢の人々が集まって入るが、恐らく、彼らではジャック達の相手はできないだろう。
現に、彼らが放つ石などの投擲物は、宙に浮いた少女の持っている2本の鞭によって、簡単に弾かれてしまっているのだ。
足元の人々に全く意識を向けていない少女は、小さな動作のみで鞭を操りながらも、興味深そうに俺のことを凝視してくる。
そんな少女の視線を視界の端でとらえていると、頭の中でシエルが捲し立ててきた。
『ニッシュ、早く皆と合流しないと! とりあえず、あそこで寝てるカーズを連れて逃げるわよ!』
現状、俺の背後に位置している建物の屋根の上に、カーズが横たわっているはずだ。
彼が誰に倒されてしまったのか、想像に難くない。
俺がじりじりと背後に足を進めるにつれて、ジャックの目が徐々に鋭くなってゆく。
そんな彼の目を睨みつけながら、俺は頭の中のシエルに聞こえるよう、小さく返答した。
「にしても、他の皆がどこにいるか分からないだろ」
そう告げた俺の言葉を聞いて、シエルはうーんと唸る。
『皆もさっきの火柱を見て、集まってくれたらいいんだけど……』
「ってことは、耐久戦ってことだな」
改めて周囲を見渡した俺は、意を決して声を張り上げた。
「皆! 俺の後ろの建物に隠れててくれ!」
現状、このまま戦闘が始まってしまえば、桃色の髪の足元にいる人々が盛大に巻き込まれてしまう。
それはあまり望ましくない。
そんな俺の考えを汲んでくれたのか、彼らはぞろぞろと動き出す。
こんな状況になるまで彼らが逃げ出さない理由がはっきりとしないが、まぁ、それは後で考えよう。
「させません!」
「俺達が大人しく見てると思ったのか?」
当然ながら、俺の声を聞いて意図を把握したのは彼らだけではなかった。
ジャックとアンナにとって、少女の足元にいた人々は拘束するべき人間なのだろう。
速やかに動き出した二人に遅れることなく、俺も行動を開始する。
直後、ずっと黙ったまま俺のことを凝視していた少女が、声を掛けてきた。
「ねぇ、君がウィーニッシュでしょぉ? 猫耳とリスの尻尾、それに、あたしと同い年くらいの男子……絶対そうだよね! やっと見つけたぁ! それじゃあ、すぐに殺しちゃうからね、そこを動かないでね!」
楽しそうに告げる少女を、あえて無視した俺は、眼前に迫るジャックの巨大な拳を、スライディングで躱す。
鼻先をジャックの拳が掠めてゆくのを感じた直後、ポイントジップを駆使して体を跳ね上げた俺は、ジャックの首に飛び掛かる。
背後から彼の首を絞める形で組み付いた俺は、間髪入れずに、ジップラインを描いた。
それらのラインに沿うように、ジャックの両足が無理やり前に突き出される。
当然ながら、尻餅をつくことになったジャックは、両手で俺を引きはがそうしている。
彼の抵抗に耐えながら両足を踏ん張った俺は、ジャックのでかい図体を右にゆっくりと動かし始めた。
そうして、ジャックを抱えたまま右回りに回転を始めた俺は、ある程度回転が強まったところで、彼の拘束を解き、遠くへと放り投げる。
飛んで行くジャックの姿を見届けずに、すぐさま跳び上がった俺は、跳んでいるアンナに向かってジップラインを伸ばした。
彼女は先に隠れようとしている人々を拘束することにしたらしい。
氷魔法を巧みに駆使して、走っている人々を拘束し始めていた。
もう少しでアンナの背後に届く。
そんなところで、彼女は俺の方を振り向き、腰の剣を構えたのだ。
「なっ!?」
「油断したわね!」
振り向きざまに空を切る剣の切っ先が、俺の横腹に向けて飛び込んでくる。
そんな斬撃を、ジップラインを駆使して無理やり身をよじった俺は、何とか避けて見せた。
とはいえ、体勢を崩してしまった俺が、もう一度彼女の剣戟を避けることはできないだろう。
なんとか反撃しなければ。
そう考えた直後、俺はニヤリと微笑むアンナの顔を見る。
それに気が付いた時には、俺の腹に一本のピンク色の鞭が巻き付いていた。
腹を圧迫する鞭が、そのまま俺を地面にまで引き戻す。
為すすべなく地面に打ち付けられた俺は、背中から全身に響く痛みに、思わず声を漏らしてしまった。
「ぐはっ!」
肺の空気と、胃の内容物が、同時にせり上がってくる。
なんとか空気だけを吐き出した俺は、しかし、もう一度空高くへと舞い上げられた。
未だにギッチリと絡みついている鞭によって、引き上げられたのだ。
視界の端に、桃色の少女がケラケラと笑っているのが映る。
すぐにでも鞭を引きちぎって逃げ出したいところだが、鞭は思ったよりも耐久性があるらしく、素手で切れるようなものではなかった。
若干の浮遊感を覚え、もう一度地面に叩きつけられてしまうと身構えた直後。
俺は聞き覚えのある声を耳にする。
「ウィーニッシュ!」
「大丈夫ですか!? 止めなさい!」
『クリュエル! メアリー! イワン! 皆が来てくれたわ!』
頭の中でシエルが告げたことで、俺は3人が助けに現れたことに気が付いた。
そのうちの一人、イワンが俺を捕まえている鞭を、青い刀身のカットラスで断ち切ってしまう。
拘束から解き放たれた俺は、落下する身体をジップラインで立て直し、何とか着地する。
ゴロゴロと転がるような着地の後、立ち上がろうとした俺は、腰に激痛を感じ、その場にうずくまった。
『ニッシュ! もう少し踏ん張りなさい! ここからが正念場よ!』
「あぁ……でも、少しだけ休みたいな、ちょっと、腰が痛くなってきた」
『何言ってんのよ! そんな場合じゃないでしょ!? 特に、あの女の子、異常なほどに強いわ!』
シエルに鼓舞されて顔を上げた俺は、イワンと戦闘を始めた少女に目を向ける。
少女の持っている鞭は、まるで変幻自在とでもいうように、イワンに対して無数の攻撃を繰り出していた。
しかし、少女自身がそれほど激しく攻撃をしているような素振りは、あまり見せていない。
まるで、魔法で鞭を操っているような、そんな様子。
そこまで見た俺は、少女の方に小さな妖精らしき姿を目にして、呟く。
「だな、何か薬でも使ってそうだな……」
少女だけでなく、立て直してきたジャックやアンナも、メアリーやクリュエルとの戦闘に入っていた。
各々の持っている魔法や武器を活かした、全力の戦闘。
それらを一通り見た俺が、ゆっくりと立ち上がった時。
イワンの攻撃に苛立ちを覚えた様子の少女が、怒りの声を上げる。
「もう、邪魔! ウィーニッシュ以外はどうでも良いの! どっか行ってよ!」
そんな彼女の言葉に応えたのは、俺でもイワンでもなかった。
「マルグリッド!」
突然聞こえて来たその声の方を見上げた俺は、屋根の上に立っている男の存在を目にする。
「ふぇ? なんでおじさんがあたしの名前を知ってるの?」
マルグリッドと呼ばれた少女は、屋根の上に立つ男、カーズを見て、首をかしげて見せた。
しかし、俺の意識はマルグリッドではなくカーズに向いてしまっている。
なぜなら、彼の顔に生々しい傷が刻まれていたのだ。
「……やっぱりか」
あふれ出す血液のことなど意に介さないとでも言うように、カーズはそう呟いた。
その姿を見て、『俺』は思う。
『マルグリッド……カーズの知り合いなのか?』
どんな事情があるのかは分からない。
そして、当人であるマルグリッドにとってはどうでも良いことだったのだろう。
彼女はカーズに対する興味など一瞬で失せたかのように、もう一度声を張り上げた。
「もう、なんかさっきから邪魔ばっかりされるぅ! 面倒くさいぃ! 邪魔すんな!」
途端、どこからともなく地響きのような振動が伝わって来たかと思うと、街全体が盛大に揺れ始めた。
「な、何の揺れだ? この音は!?」
胃の底、いや、街の底の方から響いてくる低くて重たい振動に、俺は混乱する。
空を飛んでいた者にも、その振動は伝わったらしく、マルグリッドでさえ、身体を硬直させていた。
そんな振動がゆっくりと静まり返ろうとした直後、どこか遠くの方からザーザーという変な音が聞こえてくる。
音のする方に、俺が目を向けたその時、メアリーが驚きを吐き出すように告げた。
「あれは何なの!?」
俺の心境と完全に一致する彼女の声は、かすかに振るえていた。
それもそのはずだ。
もう少しで雲に触れてしまいそうなほど巨大な一匹の龍が、カナルトスの街を見下ろしていたのだ。
突然現れたその化け物に、俺を含めた殆ど全ての人間が黙り込んだ。
ただ一人、アンナを除いて。
彼女は愕然とその龍を見上げながらも、確かに告げたのだった。
「サーペント!? そ、そんな!? どうしてこんなところに?」