第116話 追憶:未来の展望
階段の一段目付近に蹴り飛ばされてしまったマリーと、その数段上のあたりで慄いているメアリーを見比べた俺は、何も考えずに叫び出していた。
「メアリー! 逃げろ! 逃げるんだぁ!」
言いながら、俺は視界の両端に微かな光を感じる。
きっと、背中に拘束された俺の両手が光り出したのだろう。
それだけ理解してしまえば、理由は必要なかった。
全力で両腕に力を込めた俺は、手足が痛むのも構わず、ロープを引きちぎり、がむしゃらにスタニスラスに向けてとびかかる。
俺を掴んでいたゴリラ型のバディ―――エルバは、当然俺の動きを妨害してくる。
その巨体から繰り出された、腕を振り下ろす攻撃を、俺は横跳びで避けた。
なんとか直撃は避けたものの、先ほどスタニスラスに刺された傷は浅くない。
その痛みを歯を食いしばって耐え忍んだ俺は、いまだに茫然としているヘルムートに向けて叫ぶ。
「動け! ヘルムート! 動け! じゃないと、守れないぞ! このままじゃあ、メアリーとマリーが殺されちまう!」
「で、でも……」
未だに捕まったままの彼には、その状況を改善する術がないのだろう。
そんなことは俺も理解しているが、しかし、状況がその理解を押しつぶしてしまった。
階段の一段目に足を掛けたスタニスラスが、俺の方を振り向き、ニヤついたのだ。
そうして、少し身を屈めたかと思うと、足元のマリーの首根っこを掴み上げる。
「お前、元気あるじゃないか。それじゃあ、少しだけゲームをしようかねぇ」
顔面血まみれになったマリーを掲げた彼は、そのまま階段を上り始めた。
その先には、腰を抜かしてしまったメアリーが、恐怖に身を震わせている。
「エルバを倒してみろ。そうすれば、お前たちに僅かなチャンスをあげよう」
そう言って、手にしていた剣を鞘に納めたスタニスラスは、空いた手でメアリーの首根っこを掴んだ。
首を掴まれたまま、身体を持ち上げられたことで、呼吸が苦しくなったのだろう。
半ば放心状態になりつつあったメアリーが、顔を歪めて苦しみ始める。
「メアリー!」
悲痛な叫び声を上げるヘルムート。
彼の表情には、数えきれないほどの感情が込められていた。
怒り、悲しみ、不安、恐怖……。
その中で、最も俺の印象に残った感情は、諦念。
まるで、全てを諦めてしまったかのように、目をつむろうとするヘルムートの姿を見て、俺の中で何かが切れる。
階段を上っていくスタニスラスのことなど忘れて、エルバに向き合った俺は、無言のままに、飛び掛かった。
傍から見れば、無謀な突進に見えただろう。
成人男性を遥かに凌ぐほどの巨体を持っているエルバに、こぶしを握り締めて飛び掛かっていく俺。
力の差は明確で、実際、俺はエルバに手も足も出なかった。
俺の繰り出す蹴りや拳は、エルバの体表を覆う剛毛にいなされてしまう。
それらの攻撃に、俺が失敗するたびに、エルバは俺の全身にその重たい拳を打ち付けたのだ。
片手だというのに、信じられないほどの対応力を見せるエルバ。
そんな強敵を相手に、ズタボロに殴られていった俺だったが、数十秒後、目当てのものをつかみ取ることに成功する。
左手で掴んだそれは、ヘルムートの右肩。
エルバの拳を受けて、後ろに吹っ飛びそうになっていた俺は、それでも、ヘルムートを放さなかった。
霞む視界の中で、涙を流すヘルムートの顔を、煌々と光り続ける俺の左拳を見た俺は、今一度力を振り絞り、エルバから彼を引きはがす。
勢いで、俺の背後に転がって行ったヘルムート。
そんな彼のことに構っている暇もなく、俺は再びエルバに向かっていった。
体中の骨や筋肉が、既に限界を超えてしまっている。
この状態でも、戦い続ける自分の姿を眺めて、『俺』は思わず心の中で呟いてしまった。
『どうなってるんだよ……』
常識的に考えて、この時の俺は、もうすでに動けるような身体ではない。
にもかかわらず、吹き飛ばされては立ち上がり、立ち上がっては飛び掛かっていくを繰り返す俺の姿は、まさに、鬼と呼ぶにふさわしいかもしれない。
『簡単に死ぬことは許さん』
否が応でも、あの時に閻魔大王が言った言葉を思い出してしまう。
文字通り、死闘を繰り広げた俺とエルバの戦いは、屋敷全体に炎が回るまで続いた。
そうして、ようやく勝利を手にしたのは、全身ズタボロになった状態の俺。
床に突っ伏して動かなくなったエルバを一瞥した俺は、ゆっくりと振り返り、歩き出す。
壁や柱が焼け落ち、ボロボロになりつつある階段を、ゆっくりと昇りだした俺。
そんな俺の耳に、甲高い悲鳴が飛び込んできた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「メ……アリー」
小さく呟くだけでも、喉や顎に激痛が走る。
それでも身体を酷使した俺は、二階に上がり、唯一扉が開け放たれている部屋に向かった。
そして、部屋の中の惨状を目の当たりにする。
扉の付近には、シエルやシェイが力なく倒れており、扉の正面にある窓付近に、流血したマリーが横たわっている。
部屋の右奥の方には、こちらに足を向けて横たわっているヘルムートと、脇にうずくまっているメアリーがいる。
二人の傍には、左手に剣を持っているスタニスラスが、俺の方を覗き見ながら立ち尽くしていた。
彼は右手に、何やら丸いものを持っていて、俺の姿を確認したや否や、それを俺に向けて掲げてくる。
部屋に充満する煙と、霞む視界で、初めはそれが何か分からなかった俺だったが、揺れる炎に照らされた金髪に気が付き、悟ってしまう。
「お前、まさか本当にエルバを倒したのか? はぁ……面倒くせぇなぁ。まぁいいや、それじゃあ褒美に、一つ選ばせてやるよ。お前かこいつ。どっちが生き残りたい?」
スタニスラスが並べ立てる言葉を聞いた俺は、全身が沸騰してしまうような熱を感じた直後、意識を失ったのだった。
ブラックアウトした視界の中で、『俺』は困惑する。
『……終わったのか?』
それは、何気ない独り言。
当然、返事などある訳ないと、考えていた俺に向かって、何者かが返答してくる。
『そうですよ。今のは、4回目のあなたの記憶ですね』
『なっ!?』
突然の返答に驚愕した俺は、辺りを見渡してみる。
が、完全に真っ黒なその景色の中に、何者かの姿を確認することはできなかった。
『あ、今のウィーニッシュさんには私の姿は見えないと思います』
『その口調、ミノーラか?』
『そうですよ! 覚えててくれたんですね。嬉しいです』
声自体はシエルのものだが、その口調は完全に、閻魔大王との会話に割り込んできたミノーラそのものだった。
あんな強烈な出来事を忘れるわけがない。
と言いたいところだが、絶対にそうだとは言い切れないのがもどかしいところだ。
『早速私の提案を実行してくれたみたいで良かったです。そのおかげで、こうしてお話が出来ました。まぁ、あまり時間は無いんですが』
『ミノーラ! いや、ミノーラ様! 教えて下さい! 俺は、これからどうすれば!?』
『その質問は難しいですね。う~ん……私も正直、完全には分かっていませんから。未来の事なんて、誰にも分からないんですよ?』
『え? でも、ミノーラ様は神様なんじゃ?』
『まぁ、そうなんですけど。あなたの未来を決めるのはあくまでもあなたって話です。だから、一つだけ覚えておいてください。あなたがこの世界を……未来を展望するためには、より大きな羽が必要になります』
『羽?』
『そうです。そして、ウィーニッシュさんは既に、小さなそれを少しだけ持ってるはずです』
『既に持ってる? それはどういう……?』
もっと詳しい説明を聞こうと問いかけた俺は、しかし、それ以上ミノーラの言葉を聞くことはできなかった。
ゆっくりと沈む意識と一緒に、身体まで闇の中に沈んでしまいそうな感覚。
そんな感覚に身を任せた俺は、直後、頬をジリジリと焼くような痛みで、目を覚ましたのだった。