第111話 追憶:平和な時間
深々と頭を下げる俺達を見た、領主―――パトリック・エリオットは、苦笑いを浮かべながら告げた。
「まぁまぁ、お二人とも、そんなに緊張する必要はない。少なくとも今この部屋にいるのは、お二人と私と、そして、私の娘であるメアリーだけなのだから」
肩を竦めながら柔らかい口調で告げる彼の様子に、俺は少しだけ驚いた。
領主という立場の人間なのだから、当然のごとく、彼は貴族のはずなのだ。
しかし、そんな彼から、傲慢や横柄といった態度はひと欠片も見て取れない。
『随分と気さくな人だったんだな……旧エリオット領主は』
「ありがとうございます」
俺と同じように戸惑っている様子の母さんが、短く告げる。
どうやら、この世界の人にとっても、パトリックの態度は一般的ではないようで、それを証明するように、メアリーが話し始めた。
「はぁ……お父様。そんな風に領民に接しているから、栄誉農民と揶揄されてしまいますのよ?」
彼女の言葉には、呆れの他に嬉しさのようなものが込められているように聞こえる。
対するパトリックはというと、ヤレヤレとばかりに首を横に振りながら告げた。
「なんだメアリー? 栄誉なのだから、いいではないか。文字通り、その呼び名は私にとって誉と言って差し支えない。……まぁ、問題が無いとも言わないがねぇ」
言葉の最後辺りは自嘲を含んでいたのだろう。
苦笑いとは種類の異なる笑みを口元に浮かべたパトリックは、小さくため息を吐く。
そんな彼に向けて、母さんがゆっくりと口を開いた。
「あの……改めて、この度は私達親子をお助けいただき、本当にありがとうございました。このご恩はどうやってお返しすれば……」
「いやいや、良いのだよ。それにしても、息子さんの体調が戻って、本当に良かった」
『マジでいい人だな……この世界にも、こんな人がいると知れて、少し安心だ』
満面の笑みと共に放たれる、パトリックの言葉を聞き、俺は改めて感嘆する。
この世界だけでなく、どんな世界でも、彼のような人種は希少な気がしたのだ。
そんな彼が陥れられてしまったことを頭の片隅で憂いながら、俺は口を開こうとするパトリックの言葉に耳を傾ける。
「ところで、本題に入る前に一つだけ確認をしておきたいんだが……」
そこで言葉を区切った彼は、座っていた椅子から立ち上がり、俺達の近くに歩み寄ってくる。
途中で、彼は積み上げられていた書類の中から一枚の紙片を手に取った。
その紙片には何が書かれているのだろうか。
俺がそう考えた時、パトリックが紙片に目を通しながら、再び言葉を並べだす。
「セレナ殿、あなた方はゼネヒットから逃げて来た。これは間違いない事実かね?」
その言葉を聞いた俺や母さんは、思わず沈黙してしまう。
ゼネヒットから逃げて来たということを、彼にはすでに知られている。
その事実が、どんな意味を持っているのか。
考えようと思えば、様々な想像をすることができた。
例えば、このまま拘束されて、ゼネヒットに送り返されてしまうのではないか。とか。
嫌な考えに思考が取りつかれそうになった時、俺は母さんと視線を交わした。
母さんもまた、不安でいっぱいに違いない。
そう思った俺の考えを否定するように、母さんはゆっくり大きく頷いて見せると、意を決したように口を開いた。
「……はい」
「ふむ……」
再び訪れる沈黙。
やはり囚われてしまうんじゃないか。などと考えた俺は、突然耳に入って来た言葉に、肝を冷やしてしまう。
「なによ? ゼネヒットから逃げて来たのが、何か悪いわけ!?」
沈黙に耐え切れなかったのか、はたまた、質問そのものが気に食わなかったのだろう。
少し憮然とした表情のシエルは、パトリックの様子を伺うように、ジーッと彼を見つめている。
「ちょっ! シエル!」
そんな彼女を諫めるために、俺が声を上げた直後、今度はパトリックが声を上げて笑い出した。
何が面白いのか、ひとしきり腹を抱えて笑った彼は、再び満面の笑みを浮かべながらシエルに語り掛ける。
「ははは、いや、それ自体は別に悪くないさ。ただ……」
思わせぶりに言葉を区切った彼は、今度は俺と母さんに視線を向けながら、言葉を続けた。
「あの街の人間の中には、自ら問題を作り出す輩も多い。種類は様々だがね。言っている意味、分かるかな?」
「はい」
どうやら母さんは、彼の言っている言葉の意味をすんなりと理解したらしい。
対する俺は、そうでもなかったようだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 俺たち、何も問題なんて!」
「分かっている。私が言っているのは、問題に巻き込まれている人々の事ではなく、作り出す人々のことを言っているのさ」
「作り出す……」
「簡単に言うなら、騒ぎを起こしたり、犯罪を犯したり。まぁ、そんなところだよ」
そこで再び言葉を区切ったパトリックは、不意に真面目な表情を浮かべると、俺や母さんに向けて告げた。
「だから、一つだけ約束をしてほしい。このエリオット領内において、君達は絶対に問題を作り出さない、と。そうすれば、この土地で暮らしてもらっても構わない。なんなら、降りかかる問題を払いのけるくらいのことは、してやろう」
彼の言葉を聞いた俺と母さんは、互いの顔を見合った。
戸惑いとか、喜びとか、安堵とか。
母さんの表情を見るだけでも、いろんな感情が飛び交っているのが見て取れる。
だからこそ、俺達の応えは深く考えるまでもなく、決まり切っていたと思う。
「分かりました。約束します!」
「おれ……私も、約束します!」
そうして俺達は、このエリオット領で暮らし始めた。
母さんはエリオット家のメイドとして働き、俺はエリオット家に紹介してもらった農家で農作業を行った。
しばらくの間、平和な時間が流れてゆく。
その中で、俺はエリオット家の人々と多くの交流を重ねていった。
エリオット家の部屋で寝泊りしたり、冬季の農作業ができない時期にメアリーと一緒に魔法の特訓をしたり。
その特訓の中で、俺に魔法の才能があることが分かり、メアリーの護衛役を兼任したり。
それはもう、俺にとって大切な時間と言って良いだろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
ありきたりな表現になってしまうが、本当にその通りだと俺は思った。
気が付けば2年、3年と時が過ぎてゆき、メアリーの13歳の誕生日がやって来る。
彼女と俺の間には、5歳の年の差がある。つまり、この時の俺は8歳だ。
そして、メアリーの13歳の誕生日パーティーに俺も参加することになった。
もちろん、護衛としての任務付きである。
いつもよりも豪華な食事にありつけると、気持ちを昂らせているこの時の俺は、全く知らなかった。
もちろん、記憶の欠片をただ見ているだけの『俺』も、知る由が無い。
この誕生日パーティこそが、悲劇の始まりなのだということを。