ライムトニック・シャワー
甘苦い雨の中、ひどい倦怠感と掴めない距離感。そんな雰囲気のお話です。
(https://ncode.syosetu.com/n1334gi/)
↑こちらを読まないと登場人物の詳細がわからないという不親切仕様です。申し訳ありません。
ヒロイン(25):アパレル系のショップ副店長
ヒーロー(32):大手企業のエリート商社マン
ということがわかっていれば単品でお読みいただけると思います。
すれ違った女性達は傘を差しながらもブラウスから露出したデコルテを濡らしている。大きな雨粒がコンクリートを叩く、十九時を過ぎた頃だった。
今日は日曜日なのにこんな天気だったせいで、十六時過ぎからは買い物客ではなく雨宿り目当ての客が多かった。いや、こんな天気になったからこそ荷物を増やすことは控えたいんだろうけど。
降ったり止んだりしていた雨は今、ずっと降り続けている。これから強くなるという予報だった。少し早い誕生日プレゼントに店長とバイトちゃん達からもらった傘が今日から早速活躍している。折りたたみ傘は持ってきていたけど、せっかくだし。ライムグリーンと白のボーダー柄が可愛いのに、しなやかな骨を持つ丈夫な傘に、嫌いな雨でも少し気分が上がった。
駅まであと三分のところで、見知った人影を見つけた。営業が終わったレストランのひさしで雨宿りする男は、何の変哲もない半袖のシャツと細身のパンツなのに洗練されている。彼の私服を近くで見たのは、初めてだった。
彼とは三ヵ月前、最後にホテル解散して以来顔を合わせていなかった。そもそも彼から連絡がなければ私も会わない。月に三回から週に一回は会っていたのにここまで連絡がなかったのは、忙しくて時間が取れなかったのか、あるいは、
「あんな怒る?」
あの時、魔が差して、地雷とわかっていた質問をしたからだと思う。神経を逆撫でしてくる女と夜を過ごしたくないだろう。私もそう思うし。
だからといって、そんなに怒らなくてもいいだろうという気もする。どうせ私は夜だけの女であって、取るに足りない人間なんだよ? あんたにとっては。
それでも、雨の中一人佇む彼の姿に目を惹かれた。濡れた髪の色気に吸い寄せられて、お気に入りのショートブーツが水溜まりを踏む。近くで強い雨が傘を叩きながら、剥き出しのふくらはぎを遠慮なく濡らしていく。
「傘無いの?」
男は私を一瞥して、また空に視線を戻した。
「ああ」
「…そっか」
「良かったな、傘あって」
淡々と喋るハスキーなテノールは、聞き慣れたはずなのにどきどきする。彼が消えてしまう気がしてどきどきする。
「うん……まぁ、午後には降るって予報だったから……」
「……今日仕事か?」
「うん……」
パタパタパタ、サーーーーーッ、ピトンッピトッ
お互い声がなくなって、どこかで雨が流れる音がする。あれ? 私はこの男と、どうやって話してたっけ? 話が広がらない。ホテルでは、ある程度話すことが出来たはずなのに。
「え、ホントに傘無い――」
「だから無えっつってんだろさっき言ったよな?」
彼が呆れを全面に出すように眉を顰めた。
「うん、ごめん……」
流石にこれは私が悪い。
ドンッ
彼は閉めきられたドアに、乱雑に背中を預けた。目を閉じて重い溜息をつく彼は少し顔色が悪い。そういえばずっと前にもこんなことがあった。ホテルに入ったあと、いつものさくさくした動きが嘘みたいに、私がシャワーを浴びても男はスーツのままベッドの上でぐだぐだと寝返りを打っていた。あの時にあったものは、ぱらぱらと水がぶつかる軽い音と、ビジネスバッグから出て来た処方薬。
それから、ドタキャンされた日は天気が良くない日が多かった。
あの時は疲れか風邪かと思っていたけど、彼は気象病なんだと今になってわかった。でも、この男は何も言わないし私が心配する立場じゃないと思って黙っていることにした。
身体がだるいのか、彼はドアに寄り掛かったままのろのろと左腕を上げて、手首に嵌まっているスマートウォッチを見た。いつも会う時にスーツの袖から見えるロレックスとは違う。ベーシックな黒いベルトは、シンプルで無駄がない今の彼にしっくりきた。
「傘…入れてくれる人とか貸してくれる人は? いないの?」
「……俺が置いてった」
私の質問に、彼は目を閉じたまま話すこともだるそうな声で答えた。
「あ、そうなんだ」
その答えで、彼が今日何をしていたのかがわかった。よく見ると小麦色の頬に赤い手形がうっすら残っている。この男は、割り切った人間には平気で傷つけるようなことを言うし、面倒に感じたらすぐに切り捨てる。彼に怒りを残したのは、彼の特別になりたかった人か、もしくは高いプライドを彼の言動でへし折られた人か。
水溜まりを軽く蹴ってみると滴が数十センチ先に飛んでいく。
「じゃあ帰れないね」
私は水溜まりから目を離さずに言った。
「まあ……この時間なら帰れねえわけじゃねえけど。」
「タクシーは?」
「駅そこだろ」
彼の顎がくいっと、ここから二百メートルほどの距離にある駅を示した。
「ああそっか」
パタパタパタパタパタッ、ザーーーーーッ
雨が少し強くなってきた。スマートフォンで時計を見ると、彼に会ってから三十分過ぎていた。
「雨止まないね」
「……。」
「明日もっと強い雨だって。……嫌だよね」
「…ああ」
「やだなー……月曜なのに」
「……。」
「朝からやだなー」
「お前何なんだよいつまでいんだよ!」
痺れを切らした男の荒い言葉が飛んできた。
もうさすがに私も怖がっている場合じゃない。これ以上、彼に鬱陶しがられると困るのでもう本題を出すことにした。
「もうアレ? 帰りたい?」
「は?」
「え、だって仕事でしょ? 明日」
「ああ、まあな」
「わかった」
私は予め持って来ていたカフェオレ色の折りたたみ傘を彼に差し出した。
「折りたたみあるから貸すよ。茶色ならいいでしょ?」
「え……」と声を漏らした彼に、「あのね」と切り出す。
「私だって怖いんだよ。あんたは私が何かしようとすると『いらない』って顔するんだもん。そりゃ私だって、彼女でも親友でも家族でもないから、あんたに干渉できないしする資格もないけど、ちょっとの親切心も受け取ってもらえないのかって、ずっと思ってたから」
そうだ。あの時、ひどい倦怠感に呻く彼に「やめよう」と言った。何もしないでこのまま寝ない? と聞いた。別に恋人面したわけじゃなくて、単純に心配だっただけ。でも彼は、顔を顰めたまま、なけなしだったろう気力でベッドから起き上がってシャワーを浴びに行った。
思い知らされた気がした。やっぱり私は、彼にとっては割り切った関係で、特別な関係になることは全く無いんだと。
私はもう一度聞いてみることにした。
「で? どうする? 傘使う? それともタクシー呼ぶ?」
「……。」
大きい掌が、戸惑いながら傘を受け取った。一年半関係が続いて、彼から「ありがとう」と言われたのが傘を貸したときだと思うと笑いそうになった。
「じゃあ私帰るね」
「え? あ、帰んの?」
彼の言葉に、内心驚いた。今まで彼が先に帰るか、時間になったらすっぱり解散するかのどちらかで、「帰るのか?」なんて言われたことなかったから。
「え? 今日会う予定じゃなかったじゃん」
「ああ、うん……」
「うん。……じゃあね。観たい番組あるから」
ペトリコールすら洗い流す雨の中、ただ必死に前だけを見て、駅まで歩いた。
傘があってよかった。なかったら、自然に上がる口角を隠すことが出来なかった。
「帰んの、なんてさ」
引き留めたいわけではなかったんだろうけど、あの質問に、喜ばずにはいられなかった。
甘苦い雨が、ライン引きしたテリトリーに静かに侵食している。
※香月よう子さまより、ヒーロー視点(https://ncode.syosetu.com/n9329gk/)を頂きました!
本当にありがとうございます!
これからもシリーズをよろしくお願いします!