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生死を分けるウドン

作者: pinoko

銘尾友朗さま主催『秋冬温まる話企画』参加作品です。


訪れてくださって、ありがとうございます。

少しでも、楽しんでいただけますように^^

「良かったー! あんたを殺さずにすんで。マジでほっとしたよ」


 ──は?


 予想外の台詞に、私は唖然とした。


 ──私は殺されるところだったのか。


 何ということだ。私は知らず、深刻な生命の危機に瀕していたらしい。全く気づかなかった。

 何と人の好い生き物だと、彼らのことを思っていたが、どうやら私の方が、よっぽど呑気な生き物だったようだ──。






 しばし、目を閉じただけのつもりだった。それなのに、何故こんなことになったのか。


 その時まず思ったのは、空気が変わった、ということだった。心地よい赤空の下、吹き渡る風を感じていたはずなのに、突如として空気の流れが途絶えたのだ。

 目を開くと、手狭な室内に、一人で立ち尽くしていた。白い壁。低い天井。見たこともない灯り。適度な間隔をおいて並べられている、木製の机と椅子。

 出入り口の扉と思われる構造物が、正面にある。闇雲に、この見知らぬ場所から飛び出したい衝動に駆られたが、残念ながら動かし方が分からなかった。見たこともない形状だ。取手がなく、二枚の板が少しずらして嵌め込まれている。

 上下にレールが敷いてあることに気付き、私はやっと得心した。もしや、横に滑らせて開くのか。

 慣れ親しんだものとは、明らかに異なる文化に根差した部屋だ、と思い、私は戦慄した。


 ──ここは何処だ?


 妙に細長い机──カウンターと呼ぶのだと、後日習った──の向こう側にも、何かの出入口。しかし扉がない代わりに、妙な物で仕切られている。天井近くにつっかえた棒から、並べて吊るされている、帯状の布だ。意味が分からない。

 その仕切り布の向こう側からは、カチャカチャと微かな物音がしている。何かがいるのだ。

 私は身構えた。安易に声を発してみる気にはならなかった。何が出てくるか分からない。想像を絶する出来事が、自分の身に起こったことを、薄々理解していた。


 ──ここは何処だ? 何故私はここにいる?


 異臭がする。強い臭いではないし、耐え難いとは言わないが、鼻について仕方がない。人間が好んで食べる、魚に類する臭いだ。私たちは、一生口にしないものだ。


 突如として、正面の扉が開いた。私の予想通り、横に滑らせる仕組みだったようだ。

 驚くほどに冷たい外気が流れ込んできて、私は身震いした。室内は常春の温度なのに、外は筆舌に尽くしがたい程、冷えていた。まるで冬のようだ。

 私は先程まで、初夏の墓地にいたはずではなかったか。

 扉を開いたのは、若い人間の娘に見えた。少なくとも外見は私と変わりない。頭が一つ、腕が二本、足も二本。顔には目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。明らかな異生物が出てくる可能性も考慮していただけに、かなりほっとした。

「拓也ー! 最後のお客さん帰ったよ……。ひゃあああああ! 何で?! 誰だれ誰?!」 

 甲高い悲鳴。私も驚いたが、この女性もかなり仰天したようだ。手に持っていた何かを取り落として固まっている。

 叫び声に呼応して、奥からバタバタと駆け出してくる気配。

「姉ちゃん! どうした?!」

「拓也! 暖簾外して戻ってきたら、いつの間にかこの男の人がいた! 絶対さっきまで誰も居なかったのに! 誰も出入りなんてしてないのにー!」

「はああああ?! 何を馬鹿な、って言いたいけど……。ちょっと洒落になんねえぞ。この人、すげえ変な格好してるし。まともに外歩いたら通報されるレベル」

 言葉が分かることは有り難いが、どうやら私の服装は、彼らには異様に見えるらしい。だが、それはお互い様である。私にも、彼らの風体は、かなり珍妙に見えるからだ。


 特に女性の方は、目のやり場に困る。


 私の文化では、成人女性は踝を見せることさえマナー違反だ。足元まで隠す長いドレスを着ているものだが、彼女は踝どころか膝まで丸見えだ。上着の形も、かなり見慣れない。上下ともに生地の厚さはかなりあるため、体の線は隠されているが、その丈の短さは衝撃的だった。


 私は女性から目を反らし、男性と視線を合わせた。どうやら姉弟らしいが、話をつけるべきはこちらの方だと、直感していた。

「……ここは何処だ?」

 喋った! と二人が同時に叫んだ。良かったニホンゴだ、とも聞こえたが、私はニホンゴとやらを喋ったつもりはない。一体どうなっているのか。

 弟が警戒心を露に答える。

「日本という国の、ほどほど都会にある、しがないうどん屋だよ。あんたこそ、どうやってここに入ったんだ?」

 これは困った。ニホン、という国など聞いた覚えがない。ウドン、という代物も未知だ。私は何処に来てしまったのだろう。

「それは、私の方こそ知りたいことだ。つい先程まで墓参りをしていたはずが、気がついたらここに居た」

 姉弟は顔を見合わせた。

「警察呼ぶか?」

「え、それは可哀想だよ。出ていってもらえば十分じゃない?」

 それもそうか、と頷く弟。

「とにかく、今日はもう閉店なんだ。出てってくれないか?」

 私の産毛が、ぶわっと逆立った。焦りのような、恐怖のような、何とも言い難い心地になったからだ。

 私もこの異臭がする部屋から出ていきたい。そして、自分の屋敷に帰りたい。

 しかし、どうやって?

 聞いたこともない国。見たこともない文化。

 私の故国は何処だ?

 私の屋敷は何処だ?

 私は焦燥感を圧し殺した。恐慌状態に陥っている場合ではない。

「私は、ハルトレッド・デリニリウムと言う。デリニリウム侯爵家に使いを出したい。謝礼は払う。馬車と従僕を貸してくれないか」

「馬車? 従僕??」

 明らかに困惑した様子の二人。その様子に、更に嫌な予感が募る。

 ここには、馬車はないのか。従僕もいないのか?

 二人はろくな宝飾品も身につけていないが、清潔だ。物言いといい立ち居振舞いといい、異文化とはいえ、ある程度の教養を身に付けている匂いがする。だから、そこそこの社会階層に属しているだろうと踏んだのだが、間違いだったか。


 ──それとも、教養を持つ者でも分からない程に、隔絶した社会へと、私は来てしまったのか。


 その閃きは、私の中に冷たい欠片となって飛び散った。


「自宅に連絡を取りたいなら、電話でいいだろ。あんた、スマホは?」


 デンワ? スマホ? とは何だ?


 私の表情から、疑問を読み取ったのだろう。弟はとてつもなく渋い顔になった。

「すっげー厄介事の気配がする……。警察に押し付けて、見なかったことにしたい」

 ケイサツというものが何かは分からないが、あまり良いものには聞こえなかった。

 これはまずい。私は方針転換した。屋敷への連絡手段がないのなら、せめて同胞を探すべきだろう。それを糸口にして、帰り道が見つかるかもしれない。

「それでは、吸血人は何処にいる?」

 その瞬間の二人の顔は見物だった。のほほんと私たちの会話を見守っていた姉は真っ青になり、弟は姉の手を引っ張って自分の後ろにかばった。

 そして格段に敵意の増した声音で問う。

「吸血人? 吸血鬼のことか?」

 私には、彼らの警戒の理由が分からなかった。

「吸血キ? というのが何かは分からないが……。吸血人は、人間の血を吸って生きるもののことだ。私の故郷では、私たち貴族は全て吸血人だ。ここでは違うのか? 君たちは人間だろう?」

 姉が驚きで目を真ん丸にした。両手で口元を覆い、私をまじまじと見つめてくる。そしてぽっと頬を染めたのはご愛敬だろう。私の顔は、かなり女性受けが良いのである。

 一方、弟はますます表情を固くする。

「あんた、人間の血を吸うのか」

 険のある口調に、努めて穏やかに返した。誤解を招くのは悪手だ。彼らに害を及ぼす気はないと、明言しておく必要がある。

「勿論のべつまくなし、人間を襲ったりはしない。私の故郷では、吸血人の食事係は、人間の人気職だ。殺すほど貪ったりはしないし、食事をする際は、きちんと報酬を支払う」

 弟の後ろから、ひょこっと姉が顔を出した。私の台詞に興味を覚えたのだろう。恐怖よりも好奇心が勝ったような表情をしている。

 女性を手なづけるのは得意だ。よく女性に囲まれる微笑みを浮かべてみると、姉もニコッと笑顔を返してきた。


 結構可愛いな。


 私の慣れ親しんだ顔立ちとは系統が違うが、悪くない。

 姉はワクワクしながら尋ねてきた。

「ねえねえ、具体的に、どうやって吸血するの? それから頻度は? どれくらい?」

「普通に首筋からだが……。食事は通常なら、3日に1度くらいか」

「へーっ。じゃあね、やっぱり太陽の光とか、十字架とか、ニンニクとかは嫌いだったりする? それと銀。嫌い?」

 無邪気なものだ。質問の意図は分からないが。

 顔立ちから年齢は読みづらいのだが、もしかしたら結構幼いのかもしれない。それか人柄か。


 人柄だろうな。


 弟の、あからさまに苦い顔を見て、私はそう結論づけた。弟というからには年下なのだろうが、明らかにこの男の方がしっかりしている。

 だが、つまり私からすれば、攻め落としやすいのは姉の方だということだ。愛想よく答えた。

「太陽の光は別に。昼間の散歩は好きだよ。ジュウジカ? は何のことか分からない。ニンニクは人間の食べ物だろう。好きも嫌いもない。銀は変色する粗悪品だ。侯爵家では採用しない。白金や金を選ぶ」

「うわわ、お金持ちだ! じゃあ……」

「姉ちゃん!」

 弟は、大声で姉の台詞を遮ると、はーっ、と溜め息をついた。勘弁してくれよ、と呟いている。

 立場は違えど、私も同感だ。苦労しているのだろうな、と心中で労っておく。

 それが油断を招いた。弟が無言で伸ばしてきた手を、避けそびれたのだ。

 まさかこんなに急に、直接的な行動に出られるとは思っていなかったこともある。

 トン、と鳩尾に軽い衝撃。それと同時に、一気に意識が刈り取られた。そんなに強く突かれたとも思えないのに、何故だ。

「拓也?!」

 意識を失う直前に、耳に響いたのは、焦って制止する姉の声。

 それが私と、拓也と美紗という二人の姉弟との出逢いであり、私の居候生活の始まりだった。





 私が意識を失っている間に、彼らは私をどうするかを相談したようだった。

 目覚めた私に、彼らは丁寧に説明してくれた。

 ここは恐らく、私の故郷とは異なる世界であること。

 私は何故か、突然世界を越えて、彼らの店舗兼住居に出現したこと。

 この異世界転移が何故起こったのかも分からないし、私を帰らせる方法も、全く想像もつかないことを。

「手荒な真似をして悪かったよ。あんた、故郷には簡単に帰れないと思うからさ、お詫びに居候させてやるよ」

 拓也、と名乗った弟は、アッサリとそう言う。気絶する前までの警戒が嘘のようだ。一体どういう心境の変化なのか。

「言っとくけど、妙なことは考えるなよ。あんたより、俺の方が強い。次は気絶じゃすまさないからな」


 なるほど。

 いざとなれば、いくらでも、私をどうにでもできると分かっているからこその余裕か。


 聞けば、美紗も同じことが出来るのだと言う。体を鍛えているようには見えないのだが、さすがに異世界だ。住民たちの強さが段違いであるらしい。

「父さんと母さんは長期の旅行に行ってるから、今は俺たち二人で店を回してるんだ。こっちの生活に慣れたら、手伝ってくれると助かる。それが宿代ってことで」

 あの異臭のする部屋で働くのは遠慮したいが、そんな贅沢も言えない。私は頷いた。


 私が、ここを異世界だと理解するのは早かった。

 とにかく目にするものが一つ一つ、私の知るものと隔絶しているのだ。そら恐ろしい程に高度な、素材も仕組みも使い方も分からない数々の道具に囲まれていると、納得するしかなかった。

 それに、もっと単純で誤魔化し難い理由もあった。空の色が違ったのである。私にとって、空色とは赤を意味しているが、こちらの世界では青を意味していたのだ。これには度肝を抜かれた。

 暖かな赤空に慣れている身には、この世界の空は、妙に冷たく寒々しく見えた。

「私たちは貴方のことをハルって呼ぶね。私たちのことも、美紗、拓也って呼んで。宜しくね、ハル」

 


 私の居候生活は、とにかく忙しない。

 彼らと暮らし始めて気がついたのだが、1日の長さが、どうやら故郷と違うようなのだ。向こうでは私は3日毎に食事をしていたのだが、こちらでは5日に1回食事をすれば済む。それくらい、こちらは1日の長さが短い。寝たと思ったら朝が来て、食事をし活動し食事をし活動し食事をし、入浴して寝る。と思ったらまた朝だ。本当に人間とは、何と忙しないのだろう。

 慣れるしかないのだが、活動のサイクルが短くて、何をするのにも急かされているように感じる。

 起きている時は何とかついていけるが、寝るとそうもいかない。おかげで私は、朝寝坊のハルという、嬉しくもない呼び名を得た。

 だが、忙しないのは正直助かった。

 静かな空白の時間を持つと、不安が頭をもたげるからだ。


 私は、いつか、故郷に帰れるのだろうか。


 私が消えた後の故郷は、今頃どうなっているのだろうか。


 ただ、幸いにも、と言っていいか分からないが、故郷にも、既に家族はいない。突然の馬車の事故で、両親も兄弟も、全員が旅立ったばかりだ。

 ああ、そう言えば墓参りの途中だった。突然私の姿が消えて、あの世の家族もさぞ驚いたことだろう。

 私はその想像に、クツクツと笑った。


 そして、心が震えるほど自分に失望した。


 私がいなくて困る相手が、屋敷の使用人たちくらいしか思い浮かばない。探してくれる相手も。

 勿論その時々に付き合う友人知人親戚はいるが、私が消えたからといって、彼らが、すぐにそれに気づくとは思えない。毎日欠かさず連絡を取り合うような付き合い方はしてきていないし、お互いに、お互いの生活がある。それを尊重してきた。


 私がいなくても、誰も困らない。

 私の行方不明を知ったからと言って、心を揺らし、平静を失う人も、誰もいない。きっと。


 この、寂しさと諦めが同時に沸き上がるような感覚には、覚えがあった。

 家族を亡くしてから、ずっと心に巣くっている想いだ。

 一人になった侯爵家の屋敷は火が消えたように寒々しく、あちこちに眠っている家族の思い出が物悲しかった。

 遺品の整理をしていれば次々に、様々な思い出が甦ってくるのに、それを語る相手はいないのだ。溢れるほどの思い出を抱えながら、一人黙々と屋敷を片付けるのは、思った以上に堪えた。

 だからだろう。あの時も墓参りをしながら、家族が欲しいと、埒もないことを考えたのだ。

 生活と想いを共にする相手が欲しいと。

 おはようと挨拶をし、些細なことで笑いあい、悲しい時には慰めあい、疲れたときには労りあう。たまには言い争いをしたっていい。そんな相手が。

 ある意味一人はとても楽だが、それでは私は満たされないことに、家族がいなくなって気づいてしまった。

 そうだ。あの時、家族の墓標の前で。心の底から、私は寂しかったのだ。


 だが、願ったのは、決してこのような珍事ではない。


 確かに今は日々慣れないことに奮闘し、おはようから、おやすみまで生活を共にする姉弟がいて、寂しいなどと口走る余裕もないが、ある意味、故郷にいた頃より、私はもっと一人だ。

 右も左も分からない世界で、一つ一つ、全てのことに困惑し。

 与えられる膨大な情報と格闘し。

 この世界の人間たちの常識は、私の常識ではなく。

 例えば匂い一つとっても、この世界の人間たちとは感じ方が違う。

 それは、何かに対する感情を、共有することさえ難しいということだ。


 ──私は一人だ。


 寒々しいほど冷たくて広い青空の下、家族もなく、吸血人の同胞もなく、たった一人。


 たった一人。





「ハルって、人間の食べ物は食べれないの?」

 ある日の美紗の問いかけ。客の切れ目に、美紗は住居部分に引き上げて、遅めの昼食を取っていた。

 ウドンとは、湯気のたっている汁に、白くて細長い麺が入っている食べ物だった。熱いらしく、ふー、ふー、と息を吹きかけている。

 私が異世界転移した直後に感じた異臭は、この汁から発している臭いだった。

「いや。一応食べることは出来る。ただ、摂取効率が悪いから。人間の食べ物だけで生命を維持しようとすると、多分人間と同じように、1日3食とらなければならなくなるだろうな」

「そんなの、全然問題ないじゃない! ハルも一緒に食べようよ。うどん、美味しいよ?」

 私は曖昧に微笑んで誤魔化した。


 ──この異臭も、彼らにとっては、『美味しそうな匂い』なのだろうな。


 しかし、例えどんなに美味しくても、人間の食べ物は、食べない。それが吸血人だ。

 吸血人に人間の食べ物を食べろと勧めることは、豚や鳥を食べる人間に、豚や鳥の餌も食べろと言うことと同じだ。いくら、美味しいよと保証されても、生理的な嫌悪感が拭えないのだ。

 だが、そんな本心を口にすれば、美紗は鼻白むだろう。わざわざ機嫌を損ねる必要もない。

 私の食事は、美紗が一手に担っているのだから。

「ミサ。今日は5日目だ。頼む」

 美紗と拓也には、彼ら以外の人間から食事をすることを禁じられている。

 彼らの世界では、吸血人──彼らは吸血鬼と呼ぶらしい──は想像上の生物だ、ということになっているらしい。私の存在が公になると大騒ぎになる、と彼らは言う。そうなったら、非常に困る、とも。

 私としても、人間世界に波紋を呼ぶことも、下手に敵意も持たれることも、ましてや研究対象にされたりすることも望ましくないため、大人しく彼らの言うことを聞くことにしている。

 そして、私にも拓也にも、男同士で首筋に顔を埋める性癖はない。想像するだけで背筋を悪寒が走るため、私の食事係は常に美紗だった。


「あ、はーい」

 美紗は顔を赤くしながら頷いた。美紗が赤くなるのは私のせいである。食事の度に、からかって遊んでいるのだ。

 恐らく文化の違いから来るものだと思うが、彼女は私の何気ない行動で、フルフルと震えたり顔を隠して恥じらったりするのである。ちょっと涙目になって抗議してくることもある。それが面白い。

 無邪気で、天真爛漫で。でもちゃんと大人らしいところもあって。

 悪いとは思うが、孤独感に苛まれている私にとって、美紗はちょうど良い遊び相手だった。


 美紗は私の食事のために、首もとが開いた服に着替えてきた。普段は首まで隠す服──タートルネック、と呼ぶらしい──を着ている。私の食事の痕は、私が血を舐めとる間に、ほぼ消えてしまうのだが、念には念を入れているようだ。

 私は美紗に右手を差し出した。食事はソファーに座って行うのだ。

「前から思ってたけど、一人で座れるよ」

 やはり顔を赤くして言う美紗に、私は首を振った。

「私がムズムズするんだ」

 椅子に座ろうとする女性の側にいると、反射的に手が出るのだから仕方ない。

「ありがとう」

 小さくお礼を言って私の手を取ると、美紗はソファーに腰かける。新鮮だ。エスコートを受けて、いちいちお礼を言う女性など、故郷にはいない。

 実は故郷で食事する際は、立っている人間の首筋にそのままかぶりついていたのだが、何故か美紗には、そんなことはしたくなかった。少しでも体の力を抜いて、私の牙を受けて欲しかった。私の牙を受けることで、苦痛など感じて欲しくなかった。

 並んでソファーに腰かけると、私は美紗の髪を全て左肩に払った。美紗の髪は、私と同じ黒だ。それを栗色に染めている。

 美紗が晒す右首筋に、私は軽くキスを落とした。ぴくん、と美紗が震える。首筋は人間の性感帯の1つだ。もちろんそれを、私は知っている。


 ──ミサには、恋人がいるのだろうか。


 居候を始めてから、それなりの期間がたつが、それらしい気配はない。

 まあ、仮にいたとしても、深い関係には至っていまい。これほどエスコート慣れしておらず、首筋への刺激にも弱いのだから。

 首筋に唇を寄せたまま、私は囁いた。

「何度やっても、慣れないんだな」

「……そこで、喋らないで」

 固い声音に笑いが漏れる。私は再び、場所を変えてキスを落とした。

「もうっ! 一思いにがぶっとやっちゃってよ」

「食事の作法なんだ。ミサたちが手を合わせて、いただきます、って言うのと同じ」

 嘘である。美紗の素直な反応が楽しいからやっているだけだ。

 首筋を攻められて受ける感覚は、人間でも吸血人でも同じなのかもしれない。ムズムズするような、ソワソワするような、独特のあの感覚。もしもそうなら、私の孤独感も、少しは慰められる。

「ミサ。感じる?」

 また別の場所に、三回目のキス。本気で嫌がられても困るし、毎回『作法』が変わると不自然なので、食前のキスは三回と決めている。

「ばかっ」

 それを合図に、美紗の首筋に牙をたてた。

 美紗の血は、とても芳しい香りがする。異世界の人間だからだろうか、故郷の人間とは全然違う、濃厚な血潮。くらくらする。


 ──溺れるな。


 吸血人同士で吸血をするのは、伴侶同士を除いて禁止されているのだが、もしかしたら、こんな風に美味しいからなのかもしれない、と思う。美紗の血を吸っていると、他の事がどうでもよくなるのだ。貪ってしまいたくなる。閉じ込めてしまいたくなる。私だけのものにしてしまいたくなる。

 もしも美紗が、故郷で私の食事係として現れたならば、即座に専属契約を結び、決して他の誰の目にも触れさせず、大切に囲い込んだことだろう。


 際限なく飲み干したくなる衝動を抑え、私は美紗の首筋から牙を抜いた。吸いすぎると、美紗の体に支障をきたす。それでなくとも、あまりの甘美さに、ついつい飲みすぎてしまうのだ。

 滲み出る血液を、丁寧に舐めとった。

「ふ……っ」

 美紗が背筋を震わせた。更にゆっくりと、舌を傷口に這わせる。血が止まるまで、何度も、何度も。声を抑えたり、落ちつかなげにモゾモゾする、美紗の反応を楽しみながら。

 私が顔を離すと、美紗はそのままコテン、と頭を預けてきた。

 私はそのまま彼女を抱き寄せる。こんなことをするのも、美紗にだけだ。吸血された後の人間は、しばしば体の力が抜けるようだが、今までは支えてやったことなどない。床に崩れ落ちるままに、打ち捨ててきた。

「ミサ。ありがとう」

 故郷の食事係には報酬を払うが、美紗の場合は、完全な彼女の好意だ。感謝の言葉くらいは、述べるべきだろう。

 私はこの世界へ、着の身着の儘で放り出されている。私のここでの生活は、美紗と拓也の善意だけに支えられているのだ。

「……美味しかった?」

 美紗が、私を見上げて尋ねた。

「とても」

 頷くと、美紗はふにゃっと笑う。黒曜石の瞳があどけなく溶ける様を見る度に、私はいつも、可愛いな、と思うのだ。

 頭の後ろに手を差し込み、美紗を更に胸の中に抱き込もうとした時、邪魔が入った。

「姉ちゃん!」

 拓也だ。室内に駆け込んでくると同時に、私から美紗を引き取ろうとする。抵抗するのもおかしいので、そのまま腕を放すと、拓也は美紗の肩に手を回した。

「吸われ過ぎたのか? ほら、寄っかかって」

 美紗は拓也の胸を押した。

「大丈夫……。ハルにくっついてると、気持ち良かっただけ。拓也、お邪魔虫」

 拓也は美紗の憎まれ口に頓着しない。

「へいへい。いいから、黙って」

 そして手を握ろうとする。逃げる美紗の指を追いかけて捕まえると、指を一本一本絡めて、ぎゅっと握った。

 私の心の中に、不快なさざ波がたった。


 ──その手の繋ぎ方は、恋人同士がするものだ。


 エスコートの形とは違うので、生憎私はしたことがないが。故郷でそうやって幸せそうに指を絡めていたのは、決まって若い人間の恋人たちだったのを覚えている。

 異世界のこちらでは、姉弟でやっても不自然ではない行為なのかもしれないが、私にとっては違和感ばかりの仕草だった。


 ──それとも彼らは恋人同士なのか? 姉弟同士で? まさか。


 美紗も、ぎゅっと捕まえられて諦めたのか、それ以上拓也の手を避けるそぶりはない。

 それどころか、安堵したように、ふぅ、と息をついたのが、確かに聞こえた。悔しいことに、少し青ざめていた頬が、僅かに色を取り戻していた。


 ──悔しい?


 私は自分の心の動きに動揺した。

 私は美紗に執着しているのか。この、とんでもなく甘美な血をもった、異世界の女性に。

 それは、単に血が美味しいからか?

 それとも、それ以上の気持ちがあるからか?


 拓也は私と目を合わせると、困ったように言った。

「もうちょっと、手加減してくれよ。飢えてるなら、人間の食べ物も食べて調節してくれ。あんたも、姉ちゃんを壊したい訳じゃないだろう?」

 その反応も意味不明だ。姉が吸血され過ぎて、フラフラしているのだ。恋人同士かどうかはともかく、指を絡めるくらい、心配しているのだ。もっと怒りや敵意を向けられる方が分かる。

 もし私が拓也の立場なら、こんな風に苦言を呈するだけで、済ませたりはしないだろう。


 ──やはり、人間の気持ちは分からない。


「すまない」

 答えながら、私は思った。


 ああ、本当に美紗を閉じ込めてしまいたい。と。


 私は、私の感覚で、物事を捉えるしかない。

 拓也がそれほど、美紗を想っていないのなら、この甘美な女性を、私だけで独占するのだ。それができれば、どれ程満足できることだろうか。





 私が店を手伝うようになると、店の客が増えた、と拓也に喜ばれた。言わずもがな、女性客が増えたのである。

 私が最初に厳命されたことは、店内でのエスコート行為は禁止、というものだった。

「いちいち椅子やら扉やら飲み物やらをエスコートする、うどん店員なんかいねーよ」

 と拓也は言う。本当にそれで良いのかと、私は一人でハラハラしたが、驚いたことに、確かに問題ないようなのだ。

 私の感覚で言うと放置しておくぐらいの状態で、こちらの世界では丁度良いらしい。気にしないどころか、あまり話しかけては来ないかわりに、チラチラ私を見る女性が日に日に増える現状に、私は溜め息をついた。


 ──本当に、こちらの世界は分からない。


 拓也と美紗のうどん屋は、労働者たちの建家が集まる一画──オフィス街、というらしい──にあるため、主戦場は昼食だ。

 労働者たちの昼食時間にあたる一時間は、まさに息をつく間もない。男性労働者たちは、同じ会社というわけでも無さそうなのに、何故か皆似たような服装をして、手早くうどんをかきこみ、席を立っていく。

 私のおかげで客が増えた、などと言うが、この店の集客の要は、明らかに美紗だった。

 贔屓目なしに見て、美紗は可愛い。

 朗らかな笑顔で、くるくるとよく動く。手早く注文を取り、料理を机に運び、常連らしき客と雑談を交わす。まさに看板娘だ。

 そして私は、美紗の笑顔が、ある状況でひときわ輝くことに気づいた。

 色づく頬。幸せそうに細められる瞳。

 正直見惚れてしまうくらい印象的な笑顔なのだが、私は、何故美紗がそんなに嬉しそうになるのかが分からなくて、首を捻った。

 美紗が幸せそうに笑うのは、必ず客に釣り銭を返すときだったからだ。


 ──意味が分からない。


 釣り銭を渡そうとして、客に微かに手が触れると、美紗は嬉しそうに笑う。何故だ?

 特定の相手に対して、というわけでもない。ある時は私たちの父親ほどの男性労働者だったり、またある時には若い女性だったり。無差別だ。

 しかもよくよく観察してみると、それは拓也も同じなのだった。釣り銭を返す時に、客に手が触れると、一層愛想が良くなるのである。

 最初は気になって仕方なかったが、途中からは私は、考えることを放棄した。これもまた、私には理解できない、異世界の風習なのだろう。

 ただ、美紗が他の男の手に触れて、嬉しそうにしているのは気に入らなかったので、私は早めに通貨について習おうと心に決めた。私が精算を手伝えるようになれば、美紗が他の男と、釣り銭のせいとはいえ、手を触れさせるところを見なくてすむ。そうしよう。




 一緒に暮らしてみると、拓也も美紗も、驚くほど善良で親切だった。私たちは幸い、相性も良いのだろう。生活の中で、特にぶつかり合うこともない。

 兄のような、とまでは行かないが、仲間意識、と言うのだろうか? 随分と気を許してくれているのが分かる。

 拓也は、自分の使い古しだが、と言いながら、帽子や靴を押し付けてくる。服は大きさが合わなかったので買うはめになったが、美紗が一緒に出かけて全部選んでくれた。

「ふふ、イケメンをトータルコーディネートできるって、滅茶苦茶楽しい! しかもエスコート完璧! お姫様気分」

 とホクホクしている。

 随分と出費も重ねたと思うが、いきなり現れた25才の男を臆することなく抱え込み、面倒を見てくれるその度量。二人とも私よりも年下とは思えない。

 異世界の人間が、皆こうなのだとしたら、人間とは何と人の好い生き物なのだろうか。

「別に善意ばかりじゃねーよ。俺らにも事情はあるの」

 と、拓也はニヤリと笑う。

「事情?」

「そう。俺らにとっても、ハルを放り出すのは都合が悪いんだ。でも、いつまでも今のままでいれるとは思うなよ。あんたはいいやつだから、ちょっとは待ってやる。早く覚悟を決めてくれよ」

 謎かけのような言葉に、私は頷いた。どんな事情か、何の覚悟かとは聞かなかった。どうせ私の異世界暮らしは、分からないことだらけだ。




 私の日本に関する知識は、少しずつ増えていった。まだ経験はないが、そろそろ一人で外を散歩するくらいなら出来るかもしれない。

 不思議な四角い喋る板──テレビと言うらしい──を見ては、私は分からないことを質問する。恐らく子どものような質問にも、美紗も拓也も、嫌な顔など見せない。出来るだけ分かりやすく、と心がけて答えてくれる。

 私が彼らを質問攻めにするのは、大抵が食事時だ。昼食は客の切れ目に店舗でささっと取ることが多いが、彼らの朝食と夕食の際には、必ず私も食卓を共にすることになっている。私は彼らのように食事はしないが、家族の団欒は大事よ、と言う美紗に、反抗する理由もない。


 ──私も家族の一員なのか?


 その疑問は、さすがに口にしたことはない。


 そんな私の、慣れないながらも穏やかな居候生活は、美紗が倒れることで、終わりを告げることになる。

 拓也の、「時間切れだ」という宣告によって。





 美紗が倒れた理由は貧血だった。

 昼食の大混雑を抜け、そろそろ拓也と美紗も昼食を取ろうか、という頃。美紗の体がグラリと傾ぎ、床に打ち付けられそうになったところを、私が受け止めたのだ。

「ハル。時間切れだ。後で話がある」

 ベッドに寝かせた美紗に付き添いながら、後ろ姿の拓也がそう言った。彼の指は、また美紗の指に絡められていた。

 私は、自分がその時何と返事をしたのか覚えていない。気がつけば家を脱け出し、一人で雑踏を歩いていた。

 真っ白に血の気の引いた美紗は、私に家族の死に顔を思い出させた。私は震えおののく心を押さえつけた。


 ──大丈夫だ。ミサは死んだりしない。


 今は、だが。


 何故なら、このまま私に吸血され続けていれば、どうなるか分からないからだ。

 故郷の食事係は、大抵吸血人一人につき、十人程度は雇うものだ。そして、体に過度の負担がかからないよう、交代で食事の順番を回していく。文字どおり体が資本なので、健康で美味しい血を供給できるように、給金はかなりいい。だからこその人気職なのである。

 本来は十人で回すものを、美紗が一人で担っていたのだ。それは、体に負担もかかるだろう。拓也の背中も強張っていた。今後はもう、美紗の血は飲めまい。


 我を忘れそうになるほど甘美な美紗の血を、もう味わえないのだという事実は、しかし意外なほどに私の心を揺らさなかった。

 はっきり言って、どうでも良かった。

 そんなことより、美紗の健康の方が大事だと、素直に思えた。


 ──これから、どうしようか。


 あの家も、恐らく出なければならないだろう。はっきりと、時間切れだと宣告されたのだから。

 拓也は、私が覚悟を決めるのを待ってやる、と言ってくれた。そして、その通りに、美紗が倒れるまで待ってくれたのだ。これ以上の恩情は望めないだろう。

 しかし私は未だに、彼の言葉の意味が掴めていない。拓也は私に、何の覚悟を促していたのだろう。やはりあの時、問い質しておくべきだっただろうか。


 木枯らしが私の体温を奪っていく。

 冷え冷えとした真冬の乾いた風が、突き刺すように私にぶち当たり、横に流れていった。上着を着てくるのを忘れたことに、今さら気づく。前を歩く労働者が、襟巻きをしっかりと巻き直した。

 裸の街路樹の足下から、枯れた落ち葉が舞い上がった。寒々しい青空を背景に翻り、人々の間を転がり抜けていく。

 林立する、故郷では建てることもできないほど巨大な、長方形の建造物。

 土も見えないほど、どこまでも灰色に押し固められた大地。

 故郷の馬車などとは比べ物にならない速度で、走り抜けていく乗り物──自動車。

 自動車と建造物との間の狭い通路を、人々が思い思いに歩んでいる。誰とも視線は合わない。皆俯き加減で、周囲には無関心だ。ひたすらに自分の目的地へと急いでいる。

 これ程多くの人間がいるのに、驚くほどに無味乾燥とした世界だ、と思った。


 外に出るのは初めてではないが、これまでの外出では気づかなかった。

 それは、恐らく隣に美紗や拓也がいたからだ。二人と賑やかに過ごすことで、この荒涼とした世界に、色がついて見えていたのだ。


 しかし初めて一人で、あてどなく彷徨ってみれば、何とこの世界の味気ないことか。季節は真冬、切るような寒さが私の体を凍らせる。既に指先の感覚はない。


 灰色の建物。

 灰色の大地。

 灰色の人々。


 夕闇が迫る空は、冷たい青から、茜色に変化しつつある。私にとっては、一番身近に思える空だ。故郷の赤空を思い出させる、懐かしい色だ。

 そんな、思い出深い色の空の下。

 視界には、これ程多くの人間がいるのに。無数の自動車が走り回り、建造物の中で動き回る人影も見え、喧騒に包まれているというのに。


 どうしてかつてない程に、孤独が胸に迫るのだろう。


 ──ミサから食事ができないのならば。私は彼らを狩らねばならない。


 食事係などという職は、こちらにはない。吸血人という存在も、彼らは知らない。その人間たちが、大人しく私に吸血されるかと言えば、もちろん答えは否だ。


 ──抵抗する人間を押さえつけ、無理矢理に、首筋から血を啜るのだ。


 私に、それができるのか。


 それは、食事係からの吸血が、人間流に言うと調理しやすく切り分けられた肉であるならば、生きた状態から調理しろと渡されるに等しい。

 下処理された肉しか扱ったことのない人間に、今から豚や鶏を殺してこいと言うようなものだ。首を切り皮を剥ぎ羽をむしり、血抜きをして、調理しやすいように解体するのだ。


 そして、吸血した後は、どうすればいい。

 五日毎に人間を捕まえて牙を突き立てるのだ。あっという間に騒ぎになるだろう。

 逆上した人間に追い回される日も、そう遠くはあるまい。


 ──私の居場所は、どこにもない。


 帰る場所もない。

 行く場所もない。

 家族も知人も友人も同胞も、誰もいない。

 例え何色だろうが、広くて冷たくて寒々しい空の下、たった一人。


 かといって、故郷に帰る方法もない。

 故郷で私を待っている人もいない。


 私がいなくても、誰も困らない。

 私が死んだからといって、心を揺らし、平静を失う人も、誰もいない。きっと。


 ──私は一人だ。


 しかし、寂寥とした思いに捕らわれていた私を、その時一つの呼び声が救い出した。

「ハル!」

 聞き慣れた、明るくて軽やかな声。慌てて振り返ると、雑踏に阻まれながら、走り寄ってくる一つの影。

「ミサ!」

 先ほど倒れたばかりだというのに、何という無茶を。

「走るな!」

 私も体を翻し、美紗を迎えに走った。息を切らせた美紗が、腕の中に飛び込んでくる。

 これは叱らねば、と思った私を、乱れた呼吸もそのままに、美紗は睨み付けた。額から汗が滲んでいる。どれだけ必死に走ってきたのだろう。

「ハルのバカっ!」

 開口一番の罵声に、私が言葉を失うと。

 美紗は、ふにゃっと表情を緩めた。


「気がついたら、いなくなってるから……っ。心配、した」


 ああ、その顔は、私が一番好きな美紗の表情だ。


「……心配、を?」


 問い返す私の声は、掠れていた。


「当たり前でしょう! ハル、私が倒れたこと、気にしたでしょう? どっか行っちゃうんじゃないかと思ったら、気が気じゃなかった」


「……探してくれたのか?」


「拓也も探してるよ。自分の世界に帰ったのかとも思ったけど、靴が無かったし。ハルが迷子になっちゃったら、下手したら本気で会えなくなっちゃう。あ、拓也に見つかったって連絡しなきゃ」

 美紗は握っていた小型機器──スマホというらしい──を耳に当てた。拓也に連絡を取るらしい。


 拓也も私を探してくれているのか。

 時間切れだ、と言ったにも関わらず。


 ──ああ、ミサ。タクヤ。


 私は、その時心の中に生まれた、小さくて温かい想いを、そっと握り締めた。


 ──君たちは今、私を救ってくれたよ。


 彼らは、気づいているだろうか。

 いや、きっと気づいてなどいないだろう。

 彼らにとっては些細な行動。

 居候の姿が見えなかったから、探した。ただそれだけ。

 しかしそれを、どれ程私が嬉しかったかなんて。


 私の心に、温かな想いがゆっくりと溢れ出す。


 ──私は一人だと思っていた。


 帰る場所も行く場所もないのだと。

 私がいなくても、誰も困らないと。

 例え私が死んでも、心を揺らしてくれる存在は誰もいないのだと。


 しかし、ちょっと姿を見ないだけで、私を心配して探してくれる存在が、この寄る辺ない異世界で、二つもあったのだ。

 そうやって心を傾けてもらっていたのに、私は傲慢にも、その事にずっと気づかずにいたのだ。


 その時私の中に、ある想いが落ちてきた。


 ──私は、甘えていたのかもしれない。


 彼らはいつも、私に手を差しのべてくれていたのに。

 見知らぬ世界に一人飛ばされてきた私を、思いやってくれていたのに。

 私は、異世界のことは分からない、人間と吸血人は分かりあえない、と嘆くばかりで。

 果たして自分から歩み寄ろうとしたことがあっただろうか?


「よし、オッケー。ハル、帰ろ」

 美紗が私を見上げて笑う。その笑顔を見て、私は心を決めた。

 もう遅いかもしれない。時間切れなのかもしれない。

 だが、私は、彼らとの縁を、これで終わりにしたくはない。


 ──ああ、タクヤ。本当だ。私には覚悟が足りなかった。


 この異世界で、本気で生きていく覚悟が。


 その覚悟を示すために。

 私には、やらねばならないことがある。




 家にたどり着くと、既に拓也は戻っていた。

「おかえり」

 当然のように、彼は言う。私はまだ、おかえりと迎えてもらえることを喜んだ。

 既に覚悟は決めたが、それでもこれを言うのは勇気が必要だった。

「タクヤ。頼みがあるんだ」

 私の思い詰めた声音に、拓也の眉が上がった。

「何?」

「ウドンを作って欲しい。食べたいんだ」

 私の隣で、美紗が零れそうに目を大きく見開いた。

 そして、その言葉を聞いた拓也は。

 私の本気の表情を確認すると、本当に嬉しそうに破顔した。


 ──ああ、やはり。拓也が促していた覚悟は、これか。


 まさに、拓也は私に猶予期間を与え、待っていたのだ。

 私が、異世界に馴染もうと、心から決意するのを。

 

 暫くして、私の目の前に置かれた大きな器には、なみなみと注がれた薄い茶色のスープ。その中に入っている、白い麺の量は少ない。何本か漂っているだけだ。

 湯気からは、嗅ぎ慣れた異臭がする。このスープのことを出汁と呼ぶのだと、つい最近習った。

「最初から、無理しなくていい。ゆっくりと、一口含んでみろよ」

 私にスプーンを渡しながら、拓也が言う。拓也や美紗は、物を食べる時に、細長い二本の棒を使うのだが、私には使いこなせそうにない道具なので、スプーンで助かった。横にはフォークも置いてある。麺はこれで食べろということらしい。

 恐る恐る、出汁をスプーンですくってみる。手がかじかんでいることもあり、震えてこぼしそうだった。

 心配そうな二人の眼差し。

 生まれて初めて口の中に入れた出汁は、血液よりも随分とサラサラしていた。


 ──温かい。


 ほんのりと生温い血液とは違う。それよりも高い温度の液体が、口の中で踊る。

 慎重に味わってみる。

 予想通り、魚の匂いがする。他には塩分を感じるが、それだけではない。異世界の調味料の、複雑な味付け。微かに昆布の匂いもする。細かく切った、緑色で小さな輪状の野菜から、独特の風味が溶け出している。


 ──ああ、あの異臭は、この味に繋がるのか。


 覚悟したほどには、嫌悪を感じなかった。


 私は出汁を飲み込んだ。温かい液体が、喉の奥から胃へと滑り落ちていくのが感じられた。


「……どう?」

 美紗が気遣わしげに尋ねてくる。

「大丈夫だ」

 答えて、もう一口。今度は口の中で味わわずに、すぐに飲み込む。


 ──温かい。


 更に、もう一口。


 ──温かい。


 それは不思議な感覚だった。

 冷えきった心と体の双方に、じんわりと染み入って癒すような温かさだ、と思った。

 人間たちがよく口にする、お腹の中から温まる、という言葉の意味は、こういうことだったのか。

 器に添えていた左手も、いつの間にかすっかり温まっている。


 ──私はもう、この匂いを異臭とは呼ばないだろう。


 私は、うどんの味を知った。人間の食べ物の味を知った。人間の食べ物の匂いを未知のものとして、嫌悪する時代は終わったのだ。


 私は唐突に理解した。


 ──私は、きっと二度と、故郷には帰れない。


 この異世界で、人間の食べ物を食べ、人間と同じように眠り、人間と同じように働き。人間に紛れながら生きていくのだ。

 たった一人の吸血人であることを隠して。


 ハル?! と焦った姉弟の声。私が片手で目元を押さえ、俯いてしまったからだ。

 堪えようとしても、堪えきれない。どうしようもなく、漏れる嗚咽。

「ど、どうした?! 泣くほど不味かったか?!」

 動揺が露な拓也の台詞に、私は顔を隠したまま笑った。笑いながら泣いた。泣きながら笑った。


 ──馬鹿だな。泣くほど不味いなんて、あるわけないだろう。


 私は二度と、同胞には会えないかもしれないけれど。

 願わくば、この愛すべき人間たちとは。

 これからも縁を持ち続けていられるだろうか。


「いや……。美味しいよ。タクヤ。ミサ。ありがとう」


 拓也が、バシッ! と私の肩を叩いた。

 美紗が、ぽんぽん、と優しく私の腕を叩いた。

 彼らの労りが、一層心に染みた。


 拓也と美紗は厨房に入っていった。どうやら今日はもう閉店にするらしい。カチャカチャ、と片付けを始める音がする。

 そうして私が泣き止んで、うどんを全て食べ終えるまで、彼らは優しい距離を保ったまま、待っていてくれたのだった。




「タクヤ。話をしよう。時間切れだって言っていただろう。私はどうすれば良い?」

 私たちは住居部分の居間に移動し、ソファーに腰かけていた。

 私の正面には拓也。その隣には美紗。

 私の問いかけに、拓也はポリポリ、と頬をかく。

「あー。もうそれはいいや。ハルは、これからは人間の食べ物も食べてくれるんだろ?」

 私は頷く。

「出来るだけ吸血せずに生きていけるように、努力するよ」

「じゃあ、もう大丈夫。ナシナシ。良かったー! あんたを殺さずにすんで。ほんと、どうなることかと思った。マジでほっとしたよ」


 ──は?


 予想外の台詞に唖然とする私を見て、拓也はニヤリと笑う。

 信じられない気持ちで美紗の顔も確認したが、彼女もやはり安堵したように、頬を緩めていた。

 私の聞き間違いだと思いたいところだが、残念ながら、そうではないようだ。


 ──私は殺されるところだったのか。


 何ということだ。私は知らず、深刻な生命の危機に瀕していたらしい。まったく気づかなかった。

 何と人の好い生き物だと、彼ら姉弟のことを思っていたが、どうやら私の方が、よっぽど呑気な生き物だったようだ。


 拓也は真面目な表情になった。美紗と顔を見合わせると、姿勢を正す。

「ハル。ごめんな、俺たち、嘘をついてた。ちょっと手、貸してくれるか?」

 嘘? と思いながら右手を差し出すと、拓也は私の手を握ってくる。しかも単に握るだけではない。一本一本指を絡めてくる。

 これは、何度も拓也と美紗がしているのを見た、例の恋人同士の繋ぎ方である。

 私は動揺した。咄嗟に振り払いそうになってしまったが、私は悪くない。

「タクヤ。私の故郷では、これは、恋人同士がする、手の繋ぎ方なんだ」

「安心しろ。こっちの世界でも、正真正銘、立派な恋人繋ぎだ。仕方ねーだろ、吸うのは触るだけでいいけど、送るのは、これが一番楽なんだから。倒れた姉ちゃんにはさせられないし、我慢しろ」

「吸う? 送る?」

 問い返したその時、右手に異変を感じて、私はぎょっとした。

 繋いだ手から、何かが流れ込んでくる。温かくて、活力の元となるもの。吸血する時に感じる満足感と満腹感。それらが拓也の手から押し寄せてくる。

 そして私は、次の拓也の台詞に凍りついた。


「ああ、受け取れるみたいだな。やっぱり、吸血鬼同士だからかな」


 ──何?


 今、吸血鬼同士、と聞こえた気がする。


「ねえねえ拓也。じゃあ、ハルも出来るようになるかな? 手からの食事」

「練習すれば、多分。首に噛みつくのはリスク高いからなー。良かった良かった」


 ──何だって?


「……こちらの世界には、吸血人は、いないのでは?」

 呆然と呟いた私に、美紗は申し訳なさそうな顔で、ペコッと頭を下げた。

「ごめんね。嘘なの」

 拓也は私の呆然とした様を面白がっている。

「こっちの吸血鬼は、ハルみたいに首に噛みついたりしない。手から生気を吸いとったり、受け渡したりするんだ。もちろん、人間から吸う時は、相手には気づかれないよう少しずつな。普段は人間と同じように、普通に食うし。基本的には、生気を吸うのはデザートかなー」


 その説明に、幾つかの出来事が頭をよぎった。

 釣り銭を渡す際に、客に手が触れると、喜んでいた拓也と美紗。

 私に吸血されて、フラフラする美紗に、指を絡めていた拓也。

 いや、そもそも初めて会ったときに、拓也に軽く触れられただけで、私の意識が刈り取られたのも全て──。


「……二人は、こちらの世界の。吸血人?」


 私が確認すると、拓也はまた、ニヤリと笑う。


「だから言ったろ。ハルを放り出す訳にはいかない事情があるって。吸血鬼の存在が表沙汰になって、大騒ぎになったら困るって。言っとくけど、本当に死活問題なんだからな。せっかく上手く隠れて生きてるのに、変に吸血鬼騒ぎなんか起こされて、テレビなんかで取り上げられたら困るんだ。多くはないけど、他にもいる仲間に迷惑をかけるわけにもいかねーし。だから、ハルが吸血行為だけで生きていこうとするなら、最後は死んでもらうしかないかと思ってハラハラしてた」


 拓也の説明を聞いているうちに、やっと私の頭が働き出す。


 ──タクヤとミサが、吸血人だって?


 ──しかも、他にも仲間がいるだって?


 何と言えばいいのか分からない。

 衝撃の告白が頭の中をぐるぐる回った。


 こちらの世界にも、吸血人はいたのだ。

 私の故郷のような大っぴらな勢力は持たないようだが、ひっそりと人間たちに紛れながら、生きていたのだ。

 呆然とするのを通り越すと、私は猛烈に恥ずかしくなってきた。

 あんなにも、私は一人だ、と、苦悩していたのは何だったのか。

 とんだ道化者だ。私はこの世界に来てからも、ずっと、美紗と拓也という同朋たちに守られていたのだ。


「まあ、もう秘密はないから。これで晴れて、ハルも俺たちの仲間だ。家族みたいなもんだ。これからずっと、よろしくな」

「もうハルは、居候なんかじゃないからね。安心して、リラックスして過ごしてね」


 ──私の願いは、叶ったのか。


 こちらの世界に転移する直前、家族の墓前で考えていた。

 家族が欲しいと。

 生活と想いを共にする相手が欲しいと。


 そして今、私の前には、美紗と拓也という二人の姉弟がいる。

 私を家族同然だと言ってくれる、異世界の大切な同朋たちが。


 ──まさか、この異世界転移は、私の願いが引き起こしたなんてことは……、ないよな?


 その答えは、誰にも分からない。


 そして私は、嬉しそうにニコニコしている美紗を見て、ふと気づいた。


 ──ミサも吸血人だったということは。


 道理で血が美味しいはずだ。元々人間の血とは別物だったのだ。

 そして、既に故郷の規則など関係ないのかもしれないが。

 やはり長年の価値観は、簡単には変えられない。私の中に、染み付いている、ある規則がある。

 私たち吸血人は、伴侶同士を除いて(・・・・・・・・)、吸血人同士の吸血は禁止されているのである。

 私はまじまじと美紗を見た。栗色の髪と、漆黒の瞳をした、可愛らしい異世界の吸血人の女性を。

 そうだ。何度も、何度も、思ったではないか。美紗を私のものにしてしまいたい、と。


 ──悪くない。


 悪くないどころか、それはかなり幸せな想像だった。


 その時、私の心中を読んだかのように、拓也は言った。

「まぁ、いつか、本当の家族になるかもしれねーし? 俺、ハルが兄ちゃんになるのは反対しねーよ? 吸血のたびにイチャイチャしてたもんなー。目のやり場に困ったわ」

 すると、美紗は真っ赤になった。拓也に反射的に何かを言い返そうとする。それを言わせるまいと、私は美紗の手をとった。故郷では、女性の足元に膝をつくのだが、今は略式でいいか。

「拓也に認めてもらえるなら安心だな。頑張るよ」

 求愛の証しに、美紗の手の甲に唇を寄せた。美紗が、ひゃあああああ、と素っ頓狂な声をあげる。

 私と拓也もそれが楽しくて、笑みをこぼした。


 ──私は、もう一人じゃない。


 私はそれが嬉しくて、ますます笑みを深めたのだった。


 これが、私の生死を分けた、私が初めてウドンを食べた時の物語である。

 この後私が、本格的に恥ずかしがり始めた美紗を落とすために、どれほど奮闘することになるかは、また別の話。

読んでくださって、ありがとうございました^^

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― 新着の感想 ―
[一言] 一本取られました。そう来たか、と。 これだけフレンドリーな吸血鬼が身近に暮らしている、なんて想像してみたり。楽しそうですね。 それにしても温まる企画ということで楽しみにしていたのですが、皆様…
2017/11/09 10:16 退会済み
管理
[良い点]  長さを感じず一気に読み通しました。  伏線がしっかり張られていて、その回収もちゃんとされております。  美紗と拓也の二人の姉弟が吸血鬼だったとは予想しなかった結末でした。  そして、うど…
[良い点] ウドンが生死を分ける?つい気になって見てみると、なんと異世界転移。タイトルから潰れかけのうどん屋と異世界人のハートフル奮闘記を想像していたので、おお!と思いました。 物騒な台詞から始まるの…
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