8話 少女は冒険者を救う
ダンジョンを漂うように歩く炎の女王となったミュールは、ネクロノミコンが言っていたことが事実だったと頷くしか無かった。
眼の前にいるのは獰猛なグリフォン。
学生には手の余る相手だ。だが、ミュールが腕を振るうだけでドラゴンのブレスのような炎が生み出され、グリフォンすら造作もなく倒すことができた。
死体を運ぶのも、炎が腕となって馬ほどもあるグリフォンを軽々と運ぶことができた。
ネクロノミコンがないのでポータルの魔法は使えないが、ネクロノミコンと合流するくらいまではこのままでも大丈夫だろう。
変身する魔法は現代でもいくつかある。
だが、それらは動物かモンスターの身体の一部を再現するのにとどまっている。
魔術師が最強なのだから、それより弱い動物になぜ変身する必要があるのか、というのが魔術師達の見解だが、それがやらないのかできないなのか、ちゃんと考えている魔術師がどれほどいるだろうか。
ミュールの常識が音を立てて崩れていった。
だが、ミュールがこれまでネクロノミコンの言葉に真剣に取り合わなかったのも、理由がないわけでもない。
ネクロノミコンの言うことが真実ならば、たった100年でそのことごとくが失われてしまったのはどういうわけか。書籍にすら残っていないなんてことがありえるのか。
だからこそ、ネクロノミコンが失われた魔法を秘めていることは認めつつも、そのあまりに常識から離れた言葉をまともに取り合うことをしなかった。なにせ相手は本だ、書かれてあることが真実とは限らない。
ミュールは認めざるを得なかった。そして理解し始めていた。
だが何を認め、何を理解したのか、それを言葉にすることは、まだミュールにはできなかった。
☆☆
悲鳴が聞こえたのは地下7階でのことだった。
まとまらない思考に嫌気がさし、無心で探索を続けているうちに6階をあらかためぐり終わり、地下7階へと足を進めたのだが、そこで女性の悲鳴がミュールの耳に聞こえたのだ。
ミュールはすぐに声のした方へ走った。すぐに戦いの怒声とモンスターの唸り声が聞こえてくる。
角から飛び出せば、そこにはハイエナの頭部に鹿の蹄を持った異形の怪物グレータークロッタに率いられるブラッドハイエナの群れが、3人組のパーティーを襲っていた。
モンスターの数は13体。
前衛に立つ鎧を着た男は、分厚いブロードソードを両手に持って振り回し、腕にくくりつけてある小さな金属製の盾で器用に攻撃を防いでいる。だが、後衛の魔術師達からの援護がない。どうやらすでに魔力を使い果たしたのか、逃げることもできず悲鳴を上げている。
どうやらたまたま低層でモンスターに会わず、調子に乗って思ったより深くまで来てしまい、運悪くモンスターの群れに遭遇してしまったようだ。
魔術師が一日に使える魔法が限られている以上、ダンジョンに奥に到達するには上層のモンスターをやりすごすか、ダンジョン内で一晩明かさなければならない。必然的に奥に行けば行くほど狩りを行うパーティーの数は減り、発生したモンスターは倒されること無く増えていくことになる。
それでも大抵の場合、実力の低い魔術師は上層に魔力を使い果たすために、彼女らのような事故はまれだ。
「……ッ!!」
冒険者の剣がブラッドハイエナのうち一体を切り裂いた。だが、ブラッドハイエナは焦ること無く、敵を囲み、フェイントを織り交ぜながら飛びかかることを繰り返している。無力化してしまっている二人を守りながら戦う冒険者にとって、この状況は絶望的と言えるだろう。
「あなただけでも……」
灰色のローブを身にまとい、腰に細身の剣を携えた魔術師の少女が冒険者に弱々しく声をかけた。が、冒険者は考慮する素振りすら見せず、愚直に攻防一体の構えでモンスターを迎え撃った。
恥じ入るように俯く魔術師。もう一人の魔術師は魔術書を片手に残った魔力を必死にかき集めようとしているが、魔法が発動する気配はない。
勝利を確信しているグレータークロッタは、ふと炎の匂いに鼻を鳴らした。
同時に強烈なマナを感じ、モンスターの脳裏に警鐘が激しく打ち鳴らされる。
何かは分からないが、恐ろしいものが近づいてくる。
だが、モンスターに逃走はない。彼らは、かくあるべし、それが存在意義なのだ。
グレータークロッタは相手を視認することすらなく、マナの源目掛けて蹄を踊らせ、飛びかかる。
だがそこにあったのは炎の権化だ。
噛み付いた口の中に炎が広がり、すぐさま全身が業火に包まれた。
黒焦げになったグレータークロッタを投げ捨てると、ミュールはブラッドハイエナの群れに飛び込んだ。
そして相手をただ、殴りつける。それだけでブラッドハイエナは燃え上がる。
飛びかかってくるブラッドハイエナすべてを焼き尽くすのに、大して時間はかからなかった。
☆☆
さて、どうしたものか。ミュールは衝動的に飛び出したものの、その後どうするかを考えていなかった。
戦いが終わり、私の方を見ている冒険者達の目は、安堵と不安の入り混じったものだ。
そりゃそうだ。今の私の外見は人間の形をしているが、髪や皮膚は炎のように揺らめき、口から吐く息はもう炎そのものだ。
そんな存在が「私は人間だ」とか言っても、嘘つけ! となるに決まっている。
ミュールは困り果てて……。
「じゃ、そういうことで」
逃げ出した。
「あ、ちょっと待て!」
冒険者が何か叫んだが、気にしてはいられない。
ミュールは全速力でもと来た道を駆け戻っていった。
あ、この身体、走ろうと思うとすごく早く走れるんだ。
今更そんなことに気が付きながら、ミュールはこうしてネクロノミコンの元へと戻ったのだった。
☆☆
ミュールが戻ると、とっくにミノタウロスとの会談を終えていたネクロノミコンは、ミュールの帰りを待っていたようだ。
随分と待たせてしまったようだが、ネクロノミコンは特に怒っている様子はない。
少しだけ、ミュールはそのネクロノミコンの態度に自分でも原因が分からない腹ただしさを感じた。
「それで、何を話してたの?」
「お前には関係のないことだ」
「あ、そう!」
ネクロノミコンは普段は講釈好きのくせに、ミノタウロスに関してはどうも口が重い。
「あなたは私の魔術書なんだから……」
「話すべき機会が来たと思えば伝える。だが、まだその時ではない」
「その時って何よ」
「その時はその時だ」
ネクロノミコンにはネクロノミコンの考えがあり、主人である私に隠し事もする。つまり確固たる人格がある。ミュールはようやくそれを実感していた。
であれば、今まで考えないようにしてきた問題に向き合わなければならないのだろう。
ネクロノミコンはなぜ、ただの学生である私に協力してくれたのか。ネクロノミコンの話から推察するに、どうやら私は人並み外れた魔力があるらしい。
でもだからといって、人並み外れた魔力に仕えるのがネクロノミコンの目的ではないだろう。彼は誰かに奉仕するために生まれた道具ではないのだから。
ダンジョンから引き上げる準備をしながら、ミュールはネクロノミコンの背表紙に、そっと指で触れた。




