51話 少女は二度目の魔術書を買う
屋敷出たミュールとエステルは、二人並んで雨の小道を歩いている。
「大変なことになっちゃったなぁ」
深淵へ向かうためには、ネクロノミコンの言うとおりにするのが一番だとは理解していても、自分が王族の影武者をすることになるとは思わなかった。
いつでもカンニングができるとはいえ、挨拶すらままならない自分が、貴族の世界でやっていけるとは思えない。
ミュールはそう思いながら、がっくりと肩を落とした。
「ねぇ、エステル」
「…………」
「エステル?」
「えっ、あ、ごめんなさい、なんですの?」
「どうしたのぼーっとして」
エステルは少し目を泳がせてから、小さく首を横に振った。
「1人で悩んでいても仕方ありませんわね。実は……王子から前に会ったって言われたんですけれど、ちっとも記憶にありませんの」
「ええっ?」
「大体私、賢者の塔の中でずっと暮らしてきましたし、そんなに交友関係広くないはずですわ。王子にお会いする機会なんてなかったはずなのですが」
「もしかして王子の勘違いとか?」
「そうだと良いのですが。もし私とどこかで出会っていて、それを私が忘れているのは少々失礼ですわね……最初は婚約をお断りして付き合いも終わりかと思っていたら、一緒に深淵に向かうことになってしまったので。曖昧なまま済ますことができなくなってしまって悩んでいましたの」
エステルはついでに婚約をお断りすることも伝えようと思っていたのだが、それどころではなかったためなにも言っていない。
こういうのは時間が経てば経つほど、断りにくくなるとエステルは思っていた。
「でも、深淵探索が終わるまではお互いに忙しいのは分かっているし、大丈夫なんじゃない?」
「まぁかもしれませんわね。でも、どこでお会いしたかは思い出さないと」
「それなら、私の影が聞いてみようか? 今王子達と一緒にいるし」
エステルはしばらく悩んだ後、難しい顔をしながら答える。
「お願いしてもいいですの? どうしても思い出せそうにありませんわ」
「分かった」
ミュールは頷く。
年相応にこういう色恋沙汰には興味があるわけで、いろいろ頭を悩ませる現状のちょっとした清涼剤。ミュールはそう思っていた。
☆☆
アカド王子とランカースは、サクス校にミュールの影を編入させるための打ち合わせを行っている。
もちろん、ミュールの影、シャドウが口を挟む余地などなく、椅子に座ったまま話の成り行きを見ている。
「では、アンバー伯爵の線からねじこむということで」
「ええ、念のため、叔母のベルンティン公爵にも話を通しましょう。叔母が動くと、私からの圧力だと明白になってしまいますが」
「サクス校が難色を示した場合の保険ですね。なにせ時間がない。バックアップは必要でしょう」
「分かりました、すぐに書状を書きましょう」
話がまとまったようで、二人はすぐに作業にとりかかった。
(エステルのことを聞く暇なんてないよ)
さすがのシャドウも、この空気の中、エステルのことを聞けるほど神経は図太くない。
とはいえ、ここで待ちぼうけしていても暇である。
「あの、私はなにをしましょう」
「そうですね、ミュール君は今は特にやって欲しいことはありませんが……」
「それなら魔術書を買いに行ってもいいですか?」
「魔術書?」
「本体にはネクロノミコンがあるんですけど、こっちの私はなにも持っていないんです。このままじゃ魔法が使えなくて」
「分かりました、ですが王子の顔では目立ちますね。変装してもらいますがいいですか?」
「はいもちろん。サクス校にも変装していくんでしょうし」
リハーサルといったところか。
ランカースは書類を書く手を止めた。
「では、化粧室へ」
「え、ランカースさんがやるんですか?」
「あなたのことはトップシークレット。知っている人は最低限にしておきたい。お任せあれ、私はこういうのも得意ですから」
自信は本当のように見える。
さすが副ギルド長。いろいろ得意なことは多そうだ。
☆☆
以前は質屋で中古の魔術書を探したシャドウだったが、今回はちゃんとした魔法屋を訪れた。
ランカースの変装の技術は本物で、シャドウは外国の魔術師のような姿になっていた。
ずらりと本棚に並んだ分厚い背表紙。
天井には火事を防ぐためか、火を使わない高価な魔法の照明が照らしている。
窓もないため部屋は薄暗いと、普通の人は感じるだろう。だが魔法を使い出すようになって魔力の気配が分かるようになったシャドウには、魔術書達がキラキラと輝いているように見えた。
どの魔術書を選ぶか。
本体ほどの魔力はないにしても、シャドウは現代魔術師としてはいまだ一流クラスの魔力を持っているはずだ。
だが、魔術書と絆をつなぎ、その中にある魔術を1日でいくつ使用可能にできるかは単純な魔力量だけでは決まらない。
「相性が重要よね」
シャドウは小さく呟いた。
自分の声を聞いたシャドウは、そういえば今は男の口調に慣れないといけないことを思い出す。
「面倒だ……な」
思わず笑みがこぼれた。
メチャクチャな状況だが、だからこそ滑稽で笑えると、そう思ったのだ。
「これでいいか」
手にした魔術書は、価格が銀貨4100枚、その名を『無名死者のささやき』。上級14種、中級101種、下級104種の分厚い魔術書だ。
「上級魔法の数が少ないが、市販の魔術書ならこんなところか」
間に合わせにしては高価過ぎるが、どうせ事が終わったら売るのだ。
出費はほとんど取り返せる。
もっとも、お金はランカースが出してくれることになっているので、心配はないのだが。
「なにより、魔力がネクロノミコンに似ている気がするし」
この本なら相性が良い気がする。
そうシャドウは感じていた。
シャドウは知る由もないのだが、この本はネクロノミコンの弟子である、ヴォルナイという魔術師が残した魔術書が底本となっている。ヴォルナイはコーレシュに殺されたのだが、その息子が遺品として魔術書を受け継ぎ、晩年に何冊か魔術書の写本を残したのだ。
それがこの『無名死者のささやき』。
無名死者とはヴォルナイや、他のネクロノミコンの弟子たちのことに他ならず、ヴォルナイの息子が託した密かな想いである。
シャドウの感覚は正しかった。
絆を結ぶとこの本に記された魔法のほとんどを、シャドウはすぐに使えるようになる。
まるで魔術書がシャドウと出会うのを待ち望んでいたかのように。




