40話 ミュール
「ミュール!」
ネクロノミコンに名前を呼ばれ、ミュールは我に返った。
眼の前に“ある“少女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「ね……さ……」
少女が何か言葉を発した。ざらざらとした不安になる声だ。
「ひっ」
ミュールは名状しがたい恐怖を感じ、少女のいる前ではなく、横へと逃げるように飛んだ。
高温のタールをぶち抜き、転がるようにしてミュールはタールの外へと脱出する。
身体についたタールを超高温で燃やし尽くし、ミュールはよろよろと立ち上がる。
「あいつ……今、なんて……」
「落ち着けミュール! 今はこの状況を切り抜けることに集中しろ!」
「で、でも、あいつ……」
「ミュール君! 無事だったか!」
怯えるミュールの元へ、ハオンもかけよってきた。
「い、一体何が起こってるんだ、あれは私の魔法なのか!?」
ミュールは呆然としていて答えない。
仕方がないのでネクロノミコンがかわりに返答する。
「ディテクト・マジックで自分の魔術書を見てみろ」
「なにを……ひっ!?」
ハオンは魔術書を投げ捨てた。
びっしりとうごめくマナの文字を見たのだろう。
「こ、これは君がやったのか!?」
「そんなわけないだろう。図書館からマナが流れ込んでいる。それが原因だ」
「馬鹿な、そんな話聞いたことが……」
「俺も聞いたことが無い。おい、ミュール! いい加減目を覚ませ!」
「ネクロノミコン……あいつ……」
「気にするな。お前はお前だ」
その時、タールの表面がまた泡だった。
タール一面に、巨大な顔が浮かび上がる。
最初はやはり何もない顔。
そこに目ができた、鼻が浮き出た、口が開いた。
「あ、あれは」
ハオンは驚いてミュールの顔を見た。
「君の……」
その顔は、まったく同じものだ。
ミュールの顔をしたタールの少女は、ミュールの顔で哄笑する。
「あははははははははははははははははははははははは」
「止めて!!!」
少女はミュールを、その巨大な目で見つめ、その巨大な口で、彼女を呼ぶ。
「ねえさん」
ミュールはネクロノミコンに触れ、右手ををかざした。
「よせミュール! マナは魔力そのものだ! 魔力で立ち向かおうとするな!!」
だがミュールは蒼白な顔で怯え、魔法の名を叫ぶ。
「ファイアーボール!!!!!」
ミュールはすでにネクロノミコンを使いこなしていた。
一度使った魔法であれば、ミュールだけの意思で制御できていた。
ネクロノミコンが止めようとするのも虚しく、ミュールはネクロノミコンを用いてマナを制御し、膨大な魔力と共に破壊の魔法を発動する。
ファニートレントたちを全滅させた白い閃光、爆発……だが爆発がその衝撃を周囲に広げることなく、まるで水が穴に流れ落ちるように、飲み込まれていった。
「そんな……」
ミュールの魔力を浴びて、歓喜するようにタールはうごめく。
ぶくぶくと音を立てて形を変え、やがてそれは巨大な人型へと姿を変えた。
それはミュールだった。
天井につくほど巨大ではあったが、ミュールと全く同じ姿をしていた。
「あ……う……」
ようやくミュールも気がついた。
自分がなんであったのかに。
ずっと感じていた奇妙な感覚に。
なぜミュールだけが、これほどの魔力を持っていたか、ようやくその答えが見つかったのだ。
☆☆
リナール村。
ミュールの生まれ故郷であるこの村は、特産物もない小さな開拓地だ。
現在、万が一ではあるが、賢者の塔がミュールの知り合いを拉致する可能性を考え、何人かの冒険者が村の警備を行っていた。
「ほぉ、あのミュールがそんなすごい魔術師になりましたか」
同じくミュールの家族を守るため、魔法の罠を設置しにきたエステルは、作業を終えるとミュールの両親と、村の教会の神父と食事をしながら話をしていた。
「ミュールさんは、賢者の塔の魔術師を除けば、おそらくウル最強の魔術師といっていいはずですわ」
「村にいたときは、おとなしい子でしたね。私の家に来てからは明るくなりましたが」
そうミュールの父親である男が言った。
「私の家に来てから?」
「おや、ご存じなかったのですか。ミュールは元々教会の孤児院にいたんですよ。私の家に来てからも、ちょくちょく遊びに行っていたようですね」
「ではお二人はミュールの実の親では……」
「ええ。ほら、私達の瞳、ブラウンでしょ? 私の家系にも、妻の家系にも黄金色の瞳をしたものはいません」
そう言って二人は自分たちのブラウンの瞳を指差した。
「この村は開拓地ですから、人口を増やせねばなりません。育てきれない子供を教会で預かって、村の共有財産として育てているんです」
「それでミュールも?」
「ミュールは外から来たんだ」
自分が喋るのがふさわしいと思ったのだろう。
神父が言葉を引き継いだ。
「雨上がりの日だった。空に大きな虹がかかっていたのを憶えている」
「外からというのはどういう意味ですの?」
「言葉通りだよ。あの日、赤ん坊だったミュールは、栗色の髪をした女性に抱かれてこの村に来たんだ」
「女性?」
「名前は言わなかったな。多分訳ありなのだろうと思ったよ。だが、今の時代では珍しく、祈りの言葉を一字一句正確に暗唱できていたのは印象に残っている」
「それは確かに、今時珍しい方ですわね」
マナが失われ、信仰呪文が力を失ってから、神への信仰は急速に求心力を失った。
今や教会の無い村も多く、リナール村も孤児院の運営や村の出生管理などといった仕事に対して、村から資金が提供されているようなものだ。
教会に祈りに来る者はほとんどいない。
「それで、その方はどうしたのですの?」
「ミュールを私に預け、養育費としてミスリル銀製の盃を私に預け、すぐに立ち去ってしまいました。それっきり一度も私は見かけていません」
ミュールは孤児だった。
親の顔もわからない。
(ならばやはり、ミュールさんは医療魔術師による虐殺から逃れた生き残りですの?)
リナール村の周辺も、特別マナにあふれているといった兆候は無い。
確実にとは言えないが、ミュールが生まれた場所はマナに溢れていたはずだ。
だが防疫の記録を調べてみても、ミュールの生まれ年である14年前、この周囲で医療魔術師が活動した形跡はない。
わざわざ遠くから、このごく普通の村に殺戮の生き残りを預けにくる何かがあるとは、エステルには信じられなかった。
☆☆
ミュールの魔力は賢者の塔の魔術師すら凌駕する。
ダンジョン解放時のマナの偏りがあったとしても、これほどの魔力が宿ることはまずありえない。
ならば賢者の塔で生まれたのか?
それも可能性が低い。
賢者の塔での出生はすべて管理されている。
仮に賢者の塔から造反者がでた赤子を連れ出したとしたら、必ず追手が差し向けられる。
ミュールの存在について、賢者の塔がまったく察知できていなかったことから考えれば、それもありえない。
ではどこで生まれたのか?
この世界でいまだマナが豊富に残る場所があるのか?
ある。
賢者の塔以上のマナに溢れた場所が一つだけ。
それは……
☆☆
「私は深淵で生まれたのね」
ミュールの声を聞き、ミュールの顔をした少女は嬉しそうに口元を歪めた。
「ねえさん」
少女は腕を伸ばす。
「いっしょに帰ろう」
巨大な手でミュールを掴もうとするかのように。
ミュールは逃げようとするが、足が震えて倒れた。
「助けて……」
「バアルの雷槌よ、我が声に応え敵を討て!」
その時、辺り一面を覆うほどの激しい雷撃の群れがタールの少女を焼いた。
声にならない悲鳴をあげ、タールの少女はミュールに似た顔を崩し、グズグズと泡立つタールへと戻る。
「下がれマナの化物よ、魔術三系の王の名にかけて、その手でミュールに触れることはこの俺が許さん」
大きな男の背中がミュールの前に立っている。
「これだけマナが豊富であれば……5分くらいはいけるか」
ミュールは初めて見るその背中を知っている、いつも聞くその声を知っている。ミュールの目から涙が溢れた。
「ネクロノミコン……!」
「ふん、この姿のときはバラムと呼べ」
かつて、世界最強の魔術師だと謳われた魔術三系の王バラム。
その全盛期の姿で、ネクロノミコンはマナの少女の前に立ちはだかっていた。




