21話 魔術師と少女は深淵への馬車に乗る
深淵はウルの街から歩いて1日。
馬ならもう少し早く到着するが、魔術師達の多くは馬の扱いを学んでいない。
街道も整備されており、基本的に探索する魔術師達は四輪二頭引きの馬車と御者を1人借りて向かうことが多かった。
ガラガラと音を立てて揺れる馬車の中で、ミュールは何をするでもなく外を眺めていた。
ウルの周辺の農地を抜けると、乾季で乾いた荒野が見えてくる。
背の低い草木の影で、慈悲のない太陽から隠れる小動物。遠くの水場では疲れ果てた猛獣達が、けだるげに。遠くを走る馬車と眺めている。
「そろそろ、もうあと半月もしたら雨季になるね」
「そうだな、カビには気をつけてくれよ」
冗談かと思ったが、ネクロノミコンは真剣な様子だ。
たしかに皮装丁にカビは危険ではある。
ミュールはあとでカビ対策について勉強しようと心に決めた。
馬車の中を見渡すと、ラファエラは目をつぶり、うとうとと眠っている。
エステルはカバンの中にある道具の点検をしている。
ガジャンとポン・カーティスはそんなエステルの様子をじっと眺めている。
レーシーはなにかぶつぶつと呟いていたが、ミュールの視線に気がついたのか、大きな目をぎょろりとミュールの方に向けた。
ミュールは慌てて視線をそらす。
ミュールの仕草を見て、いつの間に起きていたのか、ラファエラが小さく笑った。
「今日は移動日だ、とくにやることもないし、ミュールも眠ったらどうだい?」
「今寝ると夜眠れなくなるじゃない」
「なるほど、たしかにそうかも知れないね。だったら私の本でも読むかい? この間のカフェではそんな暇が無かったからね」
「本って……」
ラファエラが差し出したのは、ラファエラの魔術書『薔薇物語』。
ガジャンとポンの視線がじっと、その本に注がれているのをミュールは感じた。
「……ありがとう、ちょっと読ませてもらうね」
迷ったが、いい機会かもしれないとミュールは本を受けとった。
ネクロノミコンの言葉が正しいのなら、この本は魔術書ではないはずだ。
なのに魔法を使えるラファエラという異常。
ラファエラのことを信用していないわけではないのだが、ラファエラについて、ミュールは殆ど何も知らないということに気がついたのだ。
ミュールは精神を集中し、リーディングの魔法をかける。
ネクロノミコンと絆を結んでから、初級魔法の魔力効率も大きく上昇し、リーディング程度ならいくらでも使用できる気がしていた。
魔法が走ると、読めなかった文字が翻訳され、意味のある文章として理解できる。
「これは、たしかに」
ネクロノミコンの言った通り、これは魔術書ではない。
別のページに魔法が記述してあるのかとも思い、ミュールはずっと読み進めたが、そういった記述は一つもなかった。
ただの詩集。それだけだ。
「だけど……」
魔法を使う必要があるにも関わらず、ミュールはその本を一気に読み進めていた。
薔薇の前で出会った女神に恋した青年が、女神に再会するために世界を旅し、女神が眠る太陽の無い妖精の国へとたどり着くという内容だ。面白い本だった。
「どうだった?」
「面白かったよ、でもこれ」
「私の魔術書は特別なんだ」
ラファエラはいつもの役者のような仕草でミュールの口に指を当て次の言葉を封じた。
あまりにキザったらしい行為に、ミュールは我慢できずに吹き出した。
「ラファエラー、いくらなんでもそれはないんじゃないかな」
「あれ? 何か変だったかい?」
ラファエラは本当にわからないというように首を傾げた。
それから日が落ち、深淵に到着するまで、ミュールとラファエラは半日の間中、ずっと喋っていたのだった。
☆☆
世界最古にして最大のダンジョン深淵。
その神秘に満ちた入り口には、許可なき者が侵入しないため、そして他の国から奪われないために城塞で覆われていた。
「許可証を」
入口を守るのもただの衛兵ではない。
左手に魔術書を備えた魔術師だ。
それも対魔術師戦に特化した、魔術師殺しと恐れられる特殊な魔術師。
異様な風体であるガジャン達3人の魔術師も、魔術師殺し達を前にしては萎縮しているようにすら見えた。
「これが許可証です」
だがエステルは、そんな彼らに物怖じすることもなく、自然に振る舞っている。
「確認した、宿泊施設はこのまま真っすぐ行って、井戸のある広場を左に曲がった区画になる。それ以外の城内の施設については、この地図を見て探してくれ。何か問題が起きたら、城門近くにある案内サービスに相談してみるといい。衛兵は犯罪行為以外の問題については不干渉なのでそのつもりで。では、良い探索を」
それだけ言い終わると。衛兵はエステル達へ中に入る用促した。
「では、みなさん。参りましょう」
こうして私達は深淵を囲う城塞へと、入っていったのだった。
☆☆
宿を取ると、部屋に荷物をおいてから、ミュール達はエステルの部屋に集まった。
今回はわざわざ全員分の個室を取っている。
深淵を探索するとなると、それなりに資金を持っているパーティーばかりで、個室で泊まる客の方が多いのだと、エステルは言っていた。
「ある程度はこの街で補給もできますけれど、物資潤沢というわけではありませんわ。食料、水以外は十分持ってきたつもりです」
「そうだな、明日はさっそく、朝食を食べたらすぐにダンジョンに向かうことにしよう」
ガジャンはエステルに同意すると、そう続けた。
「うむ、ワシもそう思う」
「……私も」
ポン・カーティスとレーシーもそれに続く。
これでパーティーの半数が同意したことになり、今日の打ち合わせはこれで終わりになった。
☆☆
部屋に戻ると、ミュールはネクロノミコンを広げた。
「ふぅ、明日から深淵ね」
「5層までの探索など、つまらんな」
「多分もっと奥までいけるわよ」
ミュールは一日中馬車に揺られて凝り固まった身体をほぐしながら言った。
「明日中に仕掛けてくると思う」
「俺も同意見だ。あいつらの視線、待つつもりもないのだろう」
「勝てるよね?」
「無論だ」
ネクロノミコンは躊躇なくそう言い切った。
それは励ましでも願望でもない、ただ事実を言っているだけ。
「私も同意見」
ネクロノミコンの口調を真似て、ミュールはそう言って笑みを浮かべる。
いつからだろうか。
ミュールはこの魔術書の言葉に強い信頼を置いていた。




