2話 魔術師は少女の物になる
「騙されたああああ!!!」
結局のところ、ミュールは田舎者であり、愚か者であり、大馬鹿者だった。よく考えなくても、このような美味い話があるわけがない。街で暮らす駆け出し商人見習いでさえ、鼻で笑ってその場を立ち去るレベルの話だ。
「うがああああ!!!」
ミュールは自分の部屋で本を目の前に頭を掻きむしりながら、生活費をどれだけ削れば最も安い魔術書である『魔術師パックの学徒の友本』を買えるのか計算していた。
銀貨98枚。下級魔術4種、中級魔術3種。学生が最低限必要な必修魔法だけ書かれた、貧乏学生のための魔術書だ。
だが、足りない。どうやっても足りない。
どこか学生でも借金のできるところを探すか、安物の剣を担いでダンジョンに潜り、グリフォンの一頭を奇跡的に仕留めてくるか、それくらいしか思いつかない。
「くっ……この偽魔術書……」
絆の構築が終わり、中身を読めるようになった人皮の魔術書をミュールは睨みつけた。
リーディングを受け付けない防護の魔法がかかっていても、本と絆を結べば、魔術師はその中に書いてある文章を、例えそれが筆者だけが知っているオリジナル言語であっても読むことができるようになる。ただし、この絆の構築は同時に1つの本としか維持することができず、絆が失われると1ヶ月の間魔法を使えなくなるという重い制約がある。
絆を結び終わり、人皮の魔術書、そのタイトルを死者の法。
魔術的な文字の防護に騙されたが、その中身に書いてあるのは『神々』についてだ。
つまりなんのことは無い、この魔法時代に『神々』なんていう妄想について書かれた暇人の戯言なのだ。ミュールはそんなことに魔法インクを使い、わざわざ人に読ませないよう魔法の防護までかけた著者のアルハズラットなる人物を恨んだ。
「なにが神々よ、祈るだけで何かが変わるなんて妄想、誰が信じるってのよ」
ミュールはこの本を売って僅かでも銀貨に変えようと思ったが、こんな気味が悪い装丁の、そして何の価値もない内容しか書かれていない本など大した価値はない。いっそ燃やしてしまえば、少しは気が晴れるかもしれない。
ミュールはスパークの魔法を唱え、小さな火の粉を本にぶつけた。
だが忌々しいことに、魔法の防護がかかっているのか本には焦げ跡1つ残らなかった。
あまりの暴挙に、ついにその本は沈黙を破って文句を言った。
「やれやれ、今の魔術師のレベルはここまで堕ちたのか」
「え?」
「全く、さっきから何をしているのだこの愚か者。この本を覆う魔法のオーラも見えんのか、お前ごときが知る魔法では、この本に何の影響も与えることもできんぞ」
「だ、誰? 誰か私の部屋にいるの?」
「見えているだろうが、お前の目はなんのためにある」
ようやく、ミュールは机の上の魔術書を見た。魔術書の表紙となっていた顔が目を開き、ミュールを呆れた様子で見ていた。
「ひやあああああああ!?!?!?!」
「落ち着け、ただのアンデッドだ」
「ゾンビ! どうしよう浄化しないと……魔術師ギルドに持っていけばいいのかな」
「ゾンビではない、リッチだ」
「リッチってあの最上級の魔術師がダンジョンで死んだ時に生まれるっていう」
「そういう理解なのか? 誰に教わった?」
「去年、図書館で読んだ魔術用語大全に書いてあったから」
「何? 魔術用語大全だと? 俺の生きていたときはちゃんと、“大地のマナを用いる儀式によって不死化した魔術師”と書いてあったはずだが」
「私が読んだのは“ダンジョンの魔力でモンスター化した魔術師”だって」
「100年の間に魔術大全のレベルすら落ちるとは」
「あなた何よ! アンデッドなら生命魔術師のところに持っていって焼いてもらうからね!」
「はっ、そんなことができるなら俺はこんな姿になっておらんよ」
ネクロノミコンはニヤニヤと笑っていた。
「俺の身体は今から460年ほど前に活躍したアルハズラッドという大魔術師が神々について、世界中の伝承、自身の幻視、各地での測定結果を元にした魔術書だ。神の知識に触れたため、本自体が力を持ってしまっていたのを、俺の人間だった頃の身体を使って封じているのだ」
「身体? その装丁のこと?」
「そうだ。モウゼのヤツが俺が黄泉還りの魔法を破り、かつこの危険な書物が人目に触れるのを封じるため、俺の死体の皮を使ってネクロノミコンを作ったのだ。俺の魔力はこの本を隠すのに使われ、このような姿と変わり果ててしまった」
「それは大変ね」
「……軽いなお前」
「普段なら驚くか同情するか何かするんだろうけど、私は今困っているの、緊急事態なのよ」
「全く、何をそんな、屠殺場に送られる豚のような顔をしているのだ」
「ぶ、豚って酷い! 大体、何が危険な書物よ、あんたみたいな役に立たない偽魔術書のせいで、私は魔術師になれないかもしれないのよ!」
「そこがよく分からん、なぜ魔術書がなければ魔術師になれないのだ? そこらの白紙のノートに自分の魔術を記録していけばいいではないか」
「はぁ? あなた本当に魔術師なの?」
「この俺が魔術師でなければ、他に魔術師などおらんよ」
「それで“なぜ魔術書がなければ魔術師になれないのだ?”って……魔術書がなければ魔法が使えないじゃない。魔術師なら誰だって知っていることでしょ?」
「なるほど、魔術師の堕落はここまで進んでいたのか」
「何わけのわからないことを」
「お前には理解できぬことだ。それよりも、魔術書が欲しいのか」
「そうよ、あなたみたいなインチキゾンビじゃないちゃんとした魔術書よ」
「だからソンビじゃないと……まぁいい、それならば協力してやらんでもない」
「え?」
ミュールはこの本が何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
協力? 一体どうやって? 自分じゃ身動き1つできないこの本に?
「お前の言う“ちゃんとした”魔術書を買えるのはまだ随分先になるのだろ? それまで俺が“ちゃんとした”魔術書の代わりをしてやろう」
「そんなのどうやって」
「俺は世界最強の魔術師だぞ、お前が魔法を望めば俺の中から魔法を引き出せるよう絆を構築していけばいい」
「そんなことできるの?」
「使い魔との絆と同じことだろう……そうか、今は使い魔と絆を結ぶ魔術師はおらんのか」
「使い魔って、80年くらい前にいた魔女が使っていたやつ?」
「いちいち世界から失われたモノをすりあわせていたら時間がいくらあっても足りんな。そうだな、とりあえず俺を手に持て」
「こう?」
「そうだ、そのまま何か魔法を使ってみろ」
「え、魔術書もないのにどうやって」
「願うだけでいい、術式構築も魔力操作も発動も俺がやる」
「???」
「いいから願え、そうだな、魔法を口に出すとイメージしやすいだろう」
「それじゃあ……さっき使った、スパーク」
「な、お前!?」
ミュールがそう言った瞬間、激しい閃光と共に、部屋の机が火に包まれた。
「うわあ!?」
「おい馬鹿、早く消火の魔法を願え!」
「ええっと! クウェンチング!」
魔法の光弾が炎に向けて飛び出し、火が掻き消えた。
「部屋の中で、火力調節無しで発火の魔法を使うとは、とんでもないやつだなお前」
「だ、だってスパークの魔法であんな火がでるなんて見たこともないもん」
「魔力によって魔法の威力が変わるのは基本……ふぅぅぅむ、そうか魔術書でマナ収集演算を行わせるから、魔法に与える魔力の個人差が生まれないのか」
ネクロノミコンは納得と呆れの混じった表情で唸っていた。
その様子を呆気にとられながら見ていたミュールは、ようやく事態を理解する。
「す、凄い! 今のってあなたがやったのネクロノミコン?」
「……そうだな」
「なに今の間」
「説明するのが面倒になった」
「ちょっと気になるじゃない、ちゃんと説明してよ」
「魔法とは大地のマナを自身の魔力で制御する技術であって、制御を行ったのが俺であっても制御魔力を供給したのが術者であるならば、魔法を発動したのが術者にあるのか道具にあるのかという論点において通常道具にあるとする議論は難しい。さらにこの場合、道具である俺に知性と個性があるという点が議論を難解なものとしている。この議論は魔術師と使い魔の関係性を考察するにあたり、多くの魔術師が議論を重ねてきたもので、この問題に対するハヌマ老のセンセーショナルな論文『主なる使い魔』は読むに値する。ハヌマ老は、魔術の制御を使い魔に一任するケースに置いては魔術師とはただの火打ち石であり、その火でパンを焼くのは使い魔である。ゆえに使い魔こそが魔術の主であり、魔術師はただ真に魔術師たる使い魔に付属する発火源に過ぎない。こうしたハヌマ老の論には賛否両論あれど、少なからず魔術師が同意するところではあり、なるほど確かにその意見には矛盾点や破綻している部分は見つからない。しかしながら俺個人の意見を言わせてもらうならば、火を起こしたのは火打ち石と叩いた人であり薪や木炭ではない、こう言わせてもらう」
「長い」
「お前が望んだから魔法が使えた」
「ありがと、私の魔法なのね」
よくわからないがそういうことなのだろう。ミュールは理解することを放棄した。
「それじゃあしばらくはあなた……ネクロノミコンを使えば魔術書がないことを誤魔化せるというわけね」
「そうだな、そのうち深淵にでも行って財宝でも探すといいだろう」
「深淵って、最初のダンジョンの?」
「いけないかね?」
「面白いインチキゾンビ本ね。深淵になんていけるわけないじゃない」
「魔法が使えるようになった割には嬉しそうには見えんな」
「それなりに嬉しいのは確かなんだけど、なんだか私が魔法を使ったようには思えなくて」
「それは魔法を知らぬせいだ、そのことを知るものは100年前でも数を減らしていたがな。魔法の本質とは魔法を使うことではなく、魔法を知ることに意味がある」
「実践こそ魔法だって、魔術師ギルド長のコーレシュ様の本には書いてあったけどな」
「嘆かわしい」
「はいはい、あなたがどれくらい凄い魔術師だったか知らないけれど、千の魔術のコーレシュって言ったら、魔術師の間じゃ知らない人なんていないくらいすごい人なんだから」
「ふん、コーレシュのやつがどれほどやるようになったのかはさておき、魔術師の思索に権威の意見などは不要だ、誰が言ったなど関係なく、その論の正確性はその論のみによって決まる。それを判断する知識を研鑽するのが魔術師として……」
「私ご飯食べてくるから」
そう言ってミュールは肩をすくめると、まだネクロノミコンが何か言う前に部屋を出ていってしまった。
「全く、嘆かわしい。馬鹿弟子やモウゼは一体何をやっていたのだ……」
深く溜息をつくと、ネクロノミコン……かつてバラムと言われた魔術師は焦げてすっかり前衛芸術のような色合いになってしまった机を見た。
「これほど膨大な魔力の持ち主にまともな魔術の教育も施していないとは。今や城ほどのミスリル銀ですら贖え無い才能だぞ」