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カーディガンと手袋だけで

作者:

雪解けの季節。生々しく命の匂いがする朝だった。


雪に覆われていた生が一斉に息吹をあげているのだ。


会社へは高校へ通っていたのと同じルートで通勤していて、駅を出てすぐのところに小さな公園がある。


僕はその公園の前で立ち止まった。


雪が積もりはじめた季節とそれが解ける頃、この公園の前を通る時にある光景を思う。




その光景に目を奪われたのは高校二年のある十二月の日のことだった。


放課後から友人の家で遊んでいて、つい帰るのが遅くなってしまった僕は、携帯電話でちくいち時間を確認しながら駅へと向かっていた。


電車は一時間に一本程度しか走らないため焦っていた。


雪は朝から途絶えることなくのしのしと降っていたが、すでに落ち着いていた。


二年生を終えようとしているその時期になっても、進路が定まっていなかった僕は、自分の将来に対する恐れがあった。漠然としているがその色は深く、確かな力で僕を圧し潰そうとしていた。


せかせかと急ぎ足で歩いていたが、乗る予定の電車にはもう間に合いそうになく、歩く速度を緩めることにした。


すると、張っていた僕の心は途端に穏やかさを取り戻した。冬の夜の清らかな空気に、心の成分が近づいたのだ。


その瞬間から恐れや不安の圧力がやわらいだ。それらがふわりと宙に舞いあがったかのようだった。


ああ、冬か。と感じたのは、匂いだった。


植物や土、路地に漂う食べ物の匂いなどを、冬が厚い雪で覆い隠してくれている。


僕は子供の頃から生物を思わせる有機的な匂いがなぜか苦手だった。


次の電車まで時間の余裕もあったため、いつもは通らない遠回りになる道を選びながらゆっくりと歩いた。


しかし駅近くの公園が見えてきた頃に時刻を確認してみると、さほど時間をやり過ごすことが出来なかったことが分かった。


夜の公園は人々に忘れ去られたようで、寂しそうに見えた。道路の街灯と自動販売機のもの悲しい輝きだけが公園内を照らしていた。


ふとベンチにあるひとつの人影に気付く。どうやら少し年上であろう女性のようだった。


雪の積もる寒さの中、彼女はカーディガンを羽織っているだけで、こんな時間に一人で何をしているのだろうと、僕は訝しげに彼女を見つめた。


普段であればそのまま立ち去っていたかもしれないが、この夜の僕は凪いでいる心に気掛かりを残しておきたくなくて、女性に声をかけることにした。


ずむずむと雪の足音をたてて近づいても女性の反応はなく、ただ地面を見つめているだけだった。


「大丈夫ですか」


そう声をかけると女性は驚いたようでびくりとしながら顔を上げた。


「え、あ、大丈夫です」


女性はすみませんと言いながら恥ずかしそうにカーディガンを羽織り直す仕草をした。


そこには、夜遅くにこんな格好で一人で居たら心配されて当然ですよね、というようなニュアンスが含まれていた。気に掛けるべき普通の女性だと察することができて、僕は少し安心した。


「家近くですか。ていうかあの、寒くないですか?」


「あ、はい。平気です」


女性はおどおどしながら言って、僕の服装へ視線を落とした。高校の制服でこんな時間に出歩いている自分も自分だと、その視線で気が付いた。


「あ、僕今から電車で帰るところで、たまたま通りかかって」


僕は少し慌てながら言った。


「ああ、そうなんですね。そちらも気を付けて」


「あ、はい。すみません。ありがとうございます」


それ以上言葉が見つからず、どうするべきか迷ったが「ちょっと待っててください」と女性に声をかけ、僕は自動販売機へ小走りで向かった。そしてあたたかいココアを買って彼女へ差し出した。


「わあ、ありがとう」


「じゃあ、気を付けてください」と立ち去ろうとすると、女性は「あっ」とやや大きな声をあげた。振り返ると、大きな声を出してしまったことを恥ずかしがるような表情で彼女は言った。


「今から帰るところですか?」


「まあ、そうですけど」


「そうだよね」


彼女は寂しそうな声で言った。


「でも電車に遅れちゃったんで、だいぶ時間持て余してるんです」


僕がそう言うと彼女はふふっと笑った。そして言葉を探しているような表情をした。


彼女の纏う空気は、この冬の夜の一部かのように穏やかだった。


「隣、いいですか」と僕もベンチに腰掛けると彼女は少し申し訳なさそうにしながら「ありがとう」と言った。


話を聞くと彼女は職場を抜け出し、駅前の店が閉まりだした頃からこの公園にいるらしかった。


「え、それ大変じゃないですか」


「大変だよ。泣き叫びながら職場荒らしちゃったし。クビかもしれない」


どうやら彼女はとんでもないことをしたあとのようだった。


「そんな薄着でずっと外に居たんですか」


「お店が開いてる時間は建物の中であったまりしてたよ」


僕はコートを貸した。そしてなぜか防寒具はそれしか持ってこなかったという手袋を彼女は貸してくれた。


彼女が君もなんか飲もうよと言ったので、二人で自動販売機へ向かい、今度は僕がコーンポタージュを買ってもらった。


ベンチに戻った僕たちはまるで旧知の仲のように他愛もない話をした。


思い返してみると、そうではないからこそお互い思いのままに話をできたのかもしれない。


彼女は弟や両親の話をしたり、可愛がっている野良猫の話をした。


僕が一年の頃、からかわれているクラスメイトを庇うと、助けたはずなのに「余計なことするな」と言われてしまい、その後もすれ違う度に睨まれ続けているという話をすると、「君、本当に優しい人だね」と彼女は笑った。


「そんなことないです。そっちこそ」と僕は言った。


彼女は、自分が話す時には遠くを見つめるような寂しい表情を度々していたのだが、僕の話は無邪気に笑いながら聞いてくれていた。


彼女が泣き叫びながら職場を荒らすような人にはとても見えなかった。


人一倍優しいからこそ人よりも多くの傷を負ってしまうのだろうか。


そんな彼女だからこそ手袋だけをはめて職場を飛び出さなければいけなくなるのだろうか、と思った。


なぜそんなことをしてしまったのか僕は聞かなかったし、彼女も話さなかった。


その夜のその場所には不思議な引力が働いていたかのようで、僕は電車の時刻のことなど忘れていた。


「君は就職するの?それとも進学?」


「まだ決めてないですけど、進学かなと」


「そっちの方がいいよ」


楽しいひとときは終わり。という合図かのように、彼女の目からきらめきが消えた。


「なんか学生時代に戻ったみたいで楽しかった」と言いながら彼女は立ち上がりコートを脱いだ。


「今日はありがとう」


僕は急な別れの展開に慌てふためき、すぐに呼び止めた。


「ちょっと」


「君も電車の時間とかあるでしょ?家族も心配してるよ」


携帯電話を開き時刻を確認すると、終電は一五分後に発車だった。


「あの、名前」


「あ、言ってなかったもんね」と、彼女はお辞儀をしながら名乗り、僕たちはメールアドレスを交換した。しかしもう一度会うことはしなかった。


あの夜、彼女と別れる間際、再びどっと雪が降り出した。職場で慟哭し、着の身着のまま冬の街へ飛び出した彼女は、僕には想像もつかないほど苦しんでいたのだと思う。


彼女が歩み去ろうとする公園の小さな敷地が、僕には茫漠と広がる雪原に見えた。夜の闇と降りしきる雪で、今どこに居るのかさえ知ることができない。


彼女にどんな背景があったのかは分からないが、果てしなく広がる暗い雪原の向こうへ、カーディガン一枚と手袋だけで立ち向かっていく姿は凛々しく美しかった。


恐れや苦しみ、悲しみや怒りを抱え込んだままそれでも生きるという命の強さが、僕の心に焼き付いたのだった。




春色を帯びはじめている公園を見つめながら深呼吸をした。


あの頃は苦手だった命の匂いを思い切り吸い込み、僕は再び歩き出した。


あの雪原の果てにあるのは、彼女の優しさが晴々とした空の下で、伸びやかに輝く世界のはずだ。


僕はそう期待していて、そのことを思うとつい笑みがこぼれるのであった。


この作品は2017年ゆきのまち幻想文学賞の落選作品を一部改稿したものです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすく、感受性次第で物語の幅が広がる書き方のセンスが良かったと思いました。 [気になる点] 幻想というよりリアルな物語かと思うので、山も谷もない物語と捉えられる危険性もあったかと思いま…
[良い点] 紡がれた言葉から、夜闇の中、雪に音を吸われ静寂に包まれた、若い頃住んでいた町を思い出しました。 冷たいけど暖かい、切ないけど優しい、そんな素敵な気分です。 ありがとうございました。
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