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「最近で、一番有名なのは『北の氷雪姫』って呼ばれる魔法使い。元、魔法使いかな。魔法使いでいることをやめちゃったから。ウルズよりうんと北にある、雪と氷の国。その国でとっても高名な貴族の、お姫様は魔法使いだったの。ヘーレちゃんは氷の国、死者の国の女王様だからウルズではあんまり好かれてないけど、その国ではとっても崇められているっていうね。外貨の7割を傭兵稼業で稼ぐって言われる国だから、戦士の男の人はいつも戦場にいるようなものだって。そうして、誰も彼もみーんな、いつかはヘーレちゃんの所にいくからねって」
不意に、マリアベルはグレイの知らない国の言葉で小さく歌を歌った。妙に発音が硬くて、単語を1つ1つ発声する感じ。勇ましいような、悲しいような、不思議な歌だった。ヘーレ、と聞こえたから、彼の国の、氷精霊を讃えるような歌だろうか。
「……どういう意味?」
マリアベルはちょっと恥ずかしそうに笑った。
「あんまり上手な発音じゃないけどね。勇士たちが歌う戯れ歌だって。民謡って言っても良いかもしれない。意味はねぇ……『悲しむな。兄弟よ。自分は一足先にヘーレの元へ行く。かの女王の元で、愛しい友も、敬意を払うに値する敵も、いけ好かないが信用できる指揮官殿も待っている。自分は戦場をそこにうつすだけなのだ。悲しむな。兄弟よ。いつかヘーレの国で、また共に戦おうではないか。悲しむな。長い長い冬は、決して終わらないのだ。悲しむな。我らの戦場が永遠たらんことを!』みたいな、感じかな」
それはどんな国だろうとグレイは考える。全然、分からない……。大変そうだなとは、思うけど。マリアベルの家に飾られていた、雪景色の風景画を思い出す。木々も、建物も雪に覆われて真っ白になっていた。夜なのに、月明かりで雪が青白く輝いていて、幾つか灯された家の明かりの橙色が弱々しく浮かび上がっていた。
「……厳しくて、寂しい、国かな?」
グレイの言葉を聞いて、マリアベルはにゅーんと唸って首を傾げた。
「そんなことはないと思うよ。人の気性は荒くて、傭兵稼業でうーんと稼いでるから豊かなはずだし。僧侶たちの総本山の教会の警備も、その国の傭兵さんがずっと務めてるんだよね。勇敢で、決して裏切らないって。冒険者みたいな、感じじゃないかな」
全然違った。マリアベルは慰めるみたいに言う。
「厳しいっていうのは、当たりだろうけどね。男の人は戦いばっかりで、何年かに1回しか帰って来ないし。だから、女の人が政治家にとっても多いよ。とにかく、そういう、ウルズとは全然違う国でのことだから、あたし達にはよく分からないかもしれないし、もしかしたらその国の人たちも、何が起こったのかよく分かっていなかったのかもしれない。貴族のお姫様、兼、魔法使いの女の子は、ある日、ある朝、領地の何もかもを凍らせてしまったの。ヘーレちゃんとの約束を、果たすために」
「凍らせた? 井戸とか?」
グレイが尋ねると、ふるふるとマリアベルは首を振った。
「井戸だけじゃなくて、街の何もかもを。建物も、人も、家畜も、ペットも、何もかもを。凍らせて、凍らせて、この地上にヘーレちゃんの国と同じ永遠の都を作り出した……たった2人、魔法使いの双子のお姫様と、魔法使いの恋人だった騎士見習いの男の子を除いて、何もかもを」
マリアベルは至極真面目な顔で話しているけど、規模が大きすぎてよく分からない。
「何もかも?」
「そう。大きな街だったから、人口は1万人近くいたはずだよぉ。でも、その魔法使いは凍らせた」
「それじゃ……街の人は、みんな死んじゃったのか?」
「ううん。ヘーレちゃんの氷は、純粋であればあるほど、永遠に近くなる。あたしが作る氷なんてほとんど地上の水を凍らせたものだけど、ほんとにヘーレちゃんに愛された、凄くすごく愛された魔法使いの造る氷は永遠をもたらしてくれる。不老不死だって、きっとヘーレちゃんに愛された魔法使いの誰かが、いつか叶えるだろうね……指の1本も、動かせないけど。『北の氷雪姫』の氷も、そういう氷だった。結局1年以上、街は凍ったままだったんだけど、魔法が解けた時には、誰も彼も何にも無かったみたいにベットから起き上って、朝ご飯を食べたって。人も、食べ物も、元のままだった。氷が融けた水なんて残らなくて、1年間凍り付いてたんだって他の街の人に言われてもはじめは誰も信じなかったって」
それはどんな気分だろう。普段の通り、寝て、起きたら1年が経っていた。だけど食べ物も腐っていないし、自分も年を取っていない。隣の街の親戚は、感極まった顔で言う――よく無事だったな! 1年もあの魔法使いに凍らされて! 言われた人間は、何が何だか分からない。からかっているのかと思うけど、相手は真剣だ。だけど、全然、これっぽっちも、自覚は無い――
「その魔法使いは、どうして魔法を解いたんだろう」
「解いたんじゃないよ。解けちゃったの。何故なら、彼女は魔法使いじゃなくなっちゃったから」
魔法使いが魔法使いじゃなくなる。その理由は1つしかない。らしい。
「……精霊との、約束を、破った?」
「そう――その日、凍り付いた街に2人は戻って来た。他の街から様子を見に来た人も、街の異変を調査しに来た王様の兵士たちも、何もかも魔法使いは凍らせていた。いい機会だからと攻め込んできた他国の兵士も、魔法使いを殺して英雄になろうとした勇士も、誰も彼も、街に近付いたら凍り付いてしまった。ずっとずっと、ヘーレちゃんの永遠の国はそこにあるはずだった。だけど、魔法使いの双子と、恋人は戻って来た。きっと2人はあちこちに報告をして、たくさんの魔法使いに知恵を借りただろうね。それでも街は凍り付いたままだった。2人が何を考えていたのかは分からないけど――」
マリアベルは緑の目を細めた。遠い異国の地の、凍り付いた街の前に立つ2人の子供の姿を思い浮かべるみたいに。
街を囲む高い城壁の周りで、軍馬に跨った騎士や、橇に乗った魔法使いや僧侶が凍り付いている。我が身に何が起こっているのか、さっぱり理解できていない表情のまま。まるでそういう置物みたいに。2人の子供はその置物の間を通り抜ける。どうしてだか、自分達は凍らない。
街に近付く。凍り付いていた筈の門を砕いて、もしくは特別な隠し通路を使って街に入る。領主のお姫様の片割れだ。何とかしたんだろう。
2人は不安だっただろうか。捨て鉢だったんだろうか。それとも、なにか確信があったんだろうか。死者の国そのもののように、人の生活の音がしない静かな静かな街を歩いて行く。魔法使いが待つ、お城まで。
「2人が何を考えていたのかは分からない。でも、ヘーレちゃんは魔法使いにこう囁いたと思う――さぁ、何をしているの。あの2人も凍らせてしまいなさい。何もかもと、約束したでしょう。あぁ、昔もあなたはあの2人を凍らせなかったわね? でも、今、約束を果たせば、あの時の事は手違いだったと思ってあげるから。可愛い子――とか、そういう風に」
「でも魔法使いは、2人を凍らせなかった」
「そう。そうして魔法使いは魔法使いじゃなくなって、魔法はすべて解けてしまった。何もかもが規格外過ぎて、その後、魔法使いをどう裁けばいいのか、そもそも罪だったのかすら誰にも分からなかった。敬愛すべき氷精霊が望んだことを、為しただけなんだから」
それきりマリアベルは黙り込む。グレイも何とも言い難くて黙っていた。しばらくしてから思い出したように、ガラン、とマリアベルが鈴を鳴らす。3人は起きない。良かった。……っていうか、生きてるよな?
そっとアランに近付いて確認する。浅く呼吸はしてる。ほっとした。
「……その魔法使いは、つーか、元魔法使いは、今でも北の国で、お姫様やってるのかな?」
マリアベルの隣にまた座って、小さく問いかける。ううん、とマリアベルは答えた。
「街の人より、国の偉い人より、魔法使いギルドがその魔法使いを裁くようにすっごく強く働きかけたの。魔法使い以外の人間に迷惑をかけたのは事実だって。魔法使いはね、歴史上、悪いことをした人も良いことをした人も多いから、魔法使いが、魔法使いを律さなきゃいけないっていう理念があるの。もしかしたら、そんなに崇高なものじゃなくて、ただの自衛の手段なのかもしれないけどねぇ」
にゅあ、と小さく欠伸をしてマリアベルは続けた。
「魔法使いの刑罰は国外追放。罪に対して罰が重いのか軽いのか、分からないままに刑は履行されたはずだよぉ。10年くらい、前の話かなぁ」
精霊からの寵愛を失い、故郷を失い――その魔法使いは後悔しただろうか。魔法使いであったことを。あるいは、双子と恋人を氷にしなかったことを。
「まぁ、昔の話だからねぇ。今では、魔法使いじゃない人生を楽しんでると良いねぇ」
祈るように嘯いて、マリアベルは立ち上がった。グレイが何か言う前に、アランがむくっと起き上る。ハーヴェイも起き上ったけど、眩暈がしたみたいだ。頭に右手を当てて、目を瞑っている。アランが普段通りの目つきの悪さで辺りを見回して、マリアベルに言った。
「……悪い。随分寝てた。行くか」
ちょっと前から起きてたみたいだった。話が区切りの良い所まで、休んでたんだろう。マリアベルは黒い三角帽子を被り直して、口元だけで笑う。
「悪くは、ないよぉ」
ハーヴェイがランプを点ける。ローゼリットが眠そうに目を擦って起き上った。ガラン、とマリアベルが獣避けの鈴を鳴らす。
「でもそうだね。そろそろ、行こうか」