3-22
カマキリの死体の横を通る時は、さすがに緊張した。何せ大きい。強そう。怖い。死んでるみたいだけど。グレイもアランも、よくあんなのに正面から斬りかかれるよなー。いや、2人に逃げ回られたら困るんだけど。
茨垣の所に辿り着くと、咲いている花を見上げてマリアベルは微笑んだ。「まさに薄紅色。にゅっふー」とか言って腕をまくりはじめる。登る気だろうかこの子。ハーヴェイは荷物を地面に転がして、短剣を鞘ごと外した。
「ここでっ」
マリアベルの手を取って、短剣を乗っける。
「大事な短剣だから、マリアベル持ってて」
「……にゅーん。ここでまさかの荷物持ち依頼。確かにあたしが言ったのです」
にゅいにゅい呟いてから「気を付けてねぇ」と茨垣から2、3歩離れて、ぺたっと地面に座り込んだ。膝の上に、大事そうにハーヴェイの短剣を乗せている。
「うん。気を付けるよ。それじゃちょっと、頑張ろうかな」
トゲトゲしてるなー、とか思いながら手を伸ばすと、グレイに呼ばれた。
「ハーヴェイ」
「どしたの、グレイ?」
「と、マリアベルとローゼリット」
振り返って見ると、グレイはマリアベルだけを見下ろしていた。分かりやすいなぁ。思わずハーヴェイは微笑んでしまう。
「なぁに?」
マリアベルは座ったままでグレイを見上げる。黒い三角帽子の広い鍔のせいで、どんな表情をしているのかよく見えない。甘い果物みたいにつやつやした唇が、笑みの形を作っていた。
「サリオンさん、この前のミノタウロスに殺されたんだって」
「うん」
マリアベルは静かに頷いた。ローゼリットは、えっ、と呟いてグレイとマリアベルの顔を見比べている。ハーヴェイも驚いたけど……何か、こう、マリアベルが落ち着いていて。落ち着き過ぎていて、驚き損ねた感じだ。
サリオンさん。
最近、マリアベルがサリオンさんから飴を貰ってないなとは思ったけど。でも、ハーヴェイに揃いの鎧兜を身に着けたミーミル衛兵達の見分けなんてつかない。マリアベルと話してないだけで、きっと無事で、また迷宮とか、ミーミルの街の何処かで仕事をしてるんだろうと思ってた。勝手に。グラッドの兄貴が無事だったから、当然のようにサリオンさんも無事だと思ってた。
アランは苦い顔だ。あぁ、2人はこれを隠してたんだ。酷いなぁ。いつ気付いたんだろ。誰から聞いたんだ。マリアベルも、ローゼリットも知らない間に。
「娘さんに、思い出の花を持って帰って、良いのかな」
「分からないなぁ」
マリアベルは即答した。分からないと言いながら、少しも迷う素振りは無い。ハーヴェイは花を見上げた。綺麗な花だ。サリオンさんがプロポーズに使おうかなって思ったのも、分かる。4階まで来て、こんなトゲトゲした木を登って、わざわざあの花を持って帰って売ろうなんて考える冒険者も少ないだろうし。ミーミルの街へはほとんど持ち帰られていない花だろう。
珍しくて、素敵な花だ。そんな特別な花を贈られたら。サリオンさんがプロポーズをしようと思うくらい親しい間柄なら、きっと喜んだだろう。実際、サリオンさんは結婚して、穴熊亭に依頼を持ち込むような娘さんも授かった。万々歳だ。
――迷宮で死んだりしなければ。
ローゼリットも眉を寄せて花を見上げている。何だか泣きそうに見えて、ハーヴェイは息が苦しくなる。あぁ、酷いなぁ。サリオンさんの死よりも、ローゼリットが泣きそうな方が辛いなんて。
あの花を持って帰って。どうすればいいんだろ。今日の朝に、隊長さんが言った通りだ。サリオンの娘と妻が幸せになるとは思えないのだが。その通りですね。ギルド“ゾディア”がミノタウロスを狩ってからまだそんなに日は経っていない。まだ思い出にはなっていないだろう。花を見たって奥さんは辛いだけなんじゃ、ないだろうか。
「分からないなぁ」
念押しするみたいにマリアベルは言った。途方に暮れるハーヴェイや、項垂れるグレイに叩き付けるみたいに。
ぱちっ、と何かが弾けた。小さいけど、確かに聞こえた。アランも目を細めて、何かを探すみたいに辺りを見回している。また、ぱちっ、と音がする。何かが光るのも、暗くなりつつある迷宮の中で見えた。ハーヴェイが瞬きすると、また光る。マリアベルの傍で、静電気が逃げる時みたいに、小さな小さな放電が起こっている。
え、何。どういう現象?
動転するハーヴェイの前で、マリアベルが杖を項垂れるグレイの額に突き付ける。ちょいっ、と赤い鉱石で突っついて、グレイの顔を上げさせた。マリアベルがどんな表情なのかは、ハーヴェイには見えない。真っ黒な帽子の下で、口元だけは相変わらず笑ってるみたいに見える。
「分からないな。ねぇ、どうして人が考えて、一生懸命考えて、手を伸ばしたのに、他人が間違ってるとか駄目だとか言って取り上げるの? 自分の事だよ。自分の家族の事だよ。そりゃあ、絶対に正しいかは分からないけど、絶対に幸せになれるかは分からないけど、でも、どうして立ち話で事情を聞いただけの他人が、人の欲しいものを取り上げたりするの?」
グレイは苦しそうに顔を歪めた。アランも、ばつが悪そうに下を向いている。
――あぁ、魔法使いの理論だ。
グレイやアランが勝てるわけがない。
マリアベルはきっと、今日までずっと、この魔法使いの理論で戦ってきたんだろう。可愛いマリアベル。ローゼリットと同じで、生活に苦労したことなんて一度も無いような顔をしている。ローゼリットほどじゃないだろうけど、きっとマリアベルだってかなり良い家のお嬢さんだ。
それなのに、迷宮に来た。
立ち話で事情を聞いただけの他人が、止めようと無神経に伸ばしてくる手を全て振り払って。
ひょこっとマリアベルは立ち上がった。
「ハーヴェイ」
「う、うん」
名前を呼ばれただけだったけど、ハーヴェイは棘だらけの枝に手を伸ばす。他にどうすればいいのか分からなかった。
髪や顔に枝が引っかかるけど、皮手袋をしてるし、登るのはそんなに難しくない。じゃっかん痛いけど。このトゲトゲ!
ガサガサとハーヴェイが木に登る音だけがする。誰も何も話さない。やだなぁ。こういうの。もやもやを振り払うみたいに、上に手を伸ばす。目標って大事だ。とりあえず採る。この花を持って帰って、銅貨を3枚貰おう。その後の事は、その後考えれば良いんじゃないかな。うん。
花を咲かせた枝を2、3本折る。見た目の華やかさに反して、割と薬草っぽい、爽やかな感じの香りがした。
ガサガサと音がする。耳元で枝とか葉が音を立てる。毛虫とかいないといいな。って言うか、花、落としちゃおうかな。
「マリアベルー」
片手で枝を掴んで、振り返る。
「降りにくいから先に花を――」