3-17
言葉に詰まったマリゴールドの代わりに、マリゴールドの胸に抱きしめられたままでマリアベルが首を振った。
「そんなことないよぉ。マリーちゃん良い匂いだよ。フローラルだよ」
「ほらご覧なさい!」
「気ぃ使って言ってるんだよ! マリアベルいい子だから!」
「あー、いい加減に」とうとう見ていられなくなったのか、げしっ、とリーダーの聖騎士がハーティアの頭を蹴っ飛ばした。カロンの首輪も掴んで、ハーティアの上から退かす。「せいっ」続けてマリゴールドの頭もはたいて、マリアベルを引っぺがした。喧嘩両成敗らしい。
ふぅっ、と溜息を吐いて、アレンはマリアベルに向き直る。
「まったく、毎度すまんな」
「いいえー。マリーちゃん良い匂いですよぉ。ご存知でしょうけど」
「いや知らんが」
「ご存知でしょうけど」
謎のチェシャ猫スマイルでマリアベルがアレンに念押しする。くっ……と変な音がしたと思ったら、アルゼイドが口元を押さえて笑っていた。いや、顔は無表情なんだけど。何だろ。ローズマリーも、ひっひっひっ……と肩を震わせて笑っている。根負けしたように、アレンは頷いた。
「……まぁな」
「わーやだね。大人はみんな汚いね」
黒いローブに草とか土とかくっつけたままでハーティアが茶化す。確かにハーティアも汚いっちゃ汚い。
「さてマリアベル」
ハーティアは、マリアベルに手を伸ばしかけて、止めた。心配になったらしい。
「訴える?」
「訴えないよぉ」
「それならば」
いつぞやのように、マリアベルをひょいっと持ち上げて、じぃっと見つめる。辺りは黄昏の仄明るさで、黒い三角帽子と黒いローブの姿の2人は、迷宮の中にぽっかりと開いた落とし穴みたいに黒かった。
「マリアベル」
「うん」
「15階、行って来たよ」
「うん」
「竜を、斃して」
「……よかったねぇ」
そこでようやく、マリアベルはほにゃっと笑った。「……竜?」「15階?」居合わせたミーミル衛兵達がざわめく。だって凄いことだ。長らく迷宮の地図は14階から更新されなかった。彼らのいう事が本当ならば。いや、彼らは話してみると色々アレかもしれないけど、とにかくまごうことなき“ゾディア”だ。15階まで行ったというのは、事実だろう。きっと荷物の中には、今までミーミルに存在しなかった色々なものが詰まっているだろう。そうしてそれは、ミーミルに繁栄と、新しい風をもたらすだろう。
「え、ほんとですか?」
ハーヴェイが興奮気味にアルゼイドを見上げた。
「うむ。勝って、行った。見て、帰って来た」
かつての英雄みたいな返答になってる。
「凄い……!」
ローゼリットも頬を上気させている。何か話しかけようとしたのか、ローゼリットが右手を伸ばすと、ローズマリーはひょいっと膝を突いてごく自然な動作でローゼリットの手の甲にキスをした。「光栄です、姫君」この人ほんとにイケメンだな。直後に「やめい」とか聖騎士のアレンに襟首をつかまれてたけど。リーダーほんとに忙しい。
「災難だったな。必要なら、あのカサノヴァを斬っても構わんぞ」
「カサ……? いや、無理そうなんで止めときます」
「希望はあるわけだな」
グレイの回答を聞いて、アルゼイドは愉快そうに紺色の瞳を細めた。
「精進すると良い」
「えーと」
「迷宮を踏破するのだろう」
極々自然に言われて、あぁこの人いい人だなぁとしみじみ思う。無表情で声がやけに平坦だけど。でも、マリアベルの言ったことを覚えていて、信じていてくれる人だ。
「……そうでした。努力します」
「ふむ」
「別にローズマリーさんは斬りませんが」
「何だ期待させて」
「……仲、悪いんですか?」
多分、冗談なんだろうけど、アルゼイドは無表情を極めているからよく分からない。アルゼイドは首を振った。
「不慮の事故で死ねばいいと願う程度には仲が良い」
「えぇ……?」
大丈夫なんだろうかそれ。っていうか首を振られた意味が分からない。
「考えるな。感じろ」
「昔の偉大な人の言葉ですか」
「うむ。博識だな。戦士の割に」
「割にってじゃっかん引っかかりますが、ありがとうございます」
「言うべき事を言うべき時に言う事は重要だ」
怒らせたのだろうか――と一瞬ひやりとするけど、アルゼイドの瞳がやけに真剣で、グレイは言葉を失う。
「迷宮の探索は、女神と人の戦いではない。人と人の戦いなのだから」
「あぁ、あまり真剣に受け取らない方が良いですよ」ローズマリーが気楽に笑う。「アルゼイドの言う事はいい加減ですから。明日になったら忘れて違う事を言っていますよ」
「何という侮辱」アルゼイドが平坦な声で呻いた。
「過去に実例が38件も」やはりローズマリーも平然としている。
「だそうだ少年」
「だそうだって言われましても……」
どうしようか。“ゾディア”には真人間1人しかいないっぽい。
唯一の真人間は、ハーティアに「いい加減下ろせ。他所の魔法使いを持ち上げるな」とか言ってるけど、ハーティアは「ふははははー」とか変な笑い声を上げながらマリアベルをぐるんぐるん振り回している。マリアベルもちいさな子供みたいに喜んでいるから、何とも言い難い。あ、帽子が飛んだ。
「おっと、帽子が」
ハーティアも気付いて、マリアベルを地面に下ろした。黒い三角帽子を拾って――帽子をのせる前に、マリアベルのきらきらした金髪の上に手を乗せた。
「本当の、本物の、魔法使い。可愛い、小さな、マリアベル。お土産だよ」
何かをマリアベルの頭に乗せて、その上から帽子を被せた。「にゅうん?」マリアベルは上を向こうとして、頭の何かが落っこちそうになったのかやめた。
「なぁに?」
「後で見てご覧。ではね、マリアベル。どうか元気で」
「ハーティアも……」
マリアベルはハーティアの瞳を上目遣いに見上げて、黙り込む。黄昏色の世界の中で、ハーティアの瞳が赤と黄色に輝いていた。白髪の魔法使いがまばたきをすると、一転して瞳が鮮やかな青一色に変わる。
「どうしたんだい、マリアベル?」
マリアベルはふるふるっと首を振った。
「にゅ。何でもなしですのよ――どうか元気で。さようなら、ハーティア」
「……ふぅむ」
ハーティアは何かに気付いたみたいに思慮深げな顔になった。それだけで、白髪の、不思議な瞳を持つ魔法使いは偉大な冒険者に見える。見えるというか、実際その通りなんだけど。少し強い風が吹いて、マリアベルの長い金髪が獣のしっぽみたいに揺れた。
まぁ、仕方ないかなぁという風に彼は微笑む。瞳の色が、また、不思議な3色に染まる。
「さようなら、マリアベル。15階に女神はいなかった。君はもっと上を目指すんだよ」
「……うん。頑張るねぇ」
マリアベルが手を振ると、ハーティアはもう振り返らずに階段まで歩いて行ってしまう。魔法使いはこういう生き物なのか。
戦士のローズマリーは「帰り掛けにまたカマキリを狩って行きますか」とか軽く言い、「何故、ダチョウとヘビを主食にする彼等をわざわざ追いかけて殺すのか野蛮人め」とか銃撃手のアルゼイドが平坦な声で返す。
「キマイラは逃げますし。あれは賢し過ぎていけませんね」
「だから何故狩るのだ野蛮人め」
「今日あと2回、私の事を野蛮人と呼んだらノーザンライトボムですからね」
「やめろ」
「ならば黙れ」
仲良いな、この人達。グレイ達が目を細めていると、こちらの様子を見たローズマリーは少し恥ずかしそうに笑って「では、また」と手を振って来た。大人だけど、ちょっと可愛い。まぁ、ミノタウロスの腕斬り飛ばして、竜? も狩って、ついでにあのカマキリも狩るとか言ってるお姉さんだけど。
「お前ら勝手に行くな。自由にも程があるだろ」
聖騎士のアレンが声を掛けるけど「4階ですし」「4階だ」と2人とも聞く耳を持たない感じだ。狼のカロンさえ、ローズマリーの後を追って歩いて行ってしまう。
「……お疲れ様です」
「あぁ、すまんな。毎度絡んで。ええと……」
「グレイです」
そういえば、マリアベル以外まともに名乗っていないかもしれない。グレイが名乗ると、アレンは頷いた。
「グレイ。魔法使いがいるパーティは大概苦労をするが、得るものも苦労に見合うことだろう」
「ありがとうございます」
アレンはそのままじっとグレイを見つめて来る。何だろ。顔の上半分を覆う兜のせいで目はあんまり見えないけど、でも凄い目力を感じる。アレンは口元で笑った。
「うちの勧誘も、“カサブランカ”の勧誘も断ったなら、何処かのギルドに入るつもりはないんだろうな。それならさっさと、ギルド名を決めて名乗ってしまえ。迷宮を踏破する予定のギルドの名前だ。適当に決めるなよ」
うちは何だか知らんがギルド名を決める為に4回メンバー全員参加の殴り合いが勃発したからな、と本当にグレイ達には理解できない感じの事を言って、アレンも階段に向かう。いつの間にか、アレンの背中にくっついていたマリゴールドも、小さく手を振って来る。そのまま行ってしまうかと思ったら、すすっ、と音も無くマリアベルの所までやって来た。
「マリアベル」
氷のような長い銀髪が、宝石みたいな青い瞳が、雪のように輝く白い肌が、綺麗で、綺麗すぎるお姉さんだ。白と青の僧服の裾を摘まんで少し屈んで、マリアベルと視線の高さを合わせている。マリアベルはくすぐったそうに笑った。
「なぁに?」
「止めても、変わってしまっても、違う生き物になっても。それでも生きて行けるし、愛してくれる人はいるのよ」
マリアベルは笑ったままで――でも、少しだけ笑みの質を変えた。すこぅし含むところがある、チェシャ猫の笑み。
「……そうかもねぇ」
マリゴールドは何かを懐かしむように、マリアベルの髪に触れた。
「そうよ。そうなのよ――またね、可愛い魔法使い」
そうしてマリゴールドも階段に向かって行く。マリアベルが言ったからじゃないけど、ふわっと甘くて華やかで、異国に咲く花のような、どこか大人っぽい香りがした。