3-12
無いよりはって事で、ハーヴェイから短剣を借りて歩き出す。赤黒いダチョウの血の跡を追って、ゆっくりと歩く。理想は、ダチョウの死骸だけどっかに落ちててカマキリはいないってのがベストだ。2階の指輪みたいに。
カマキリの姿は、とっくに見当たらない。だけど血と、多分地面にまで達した鎌が削った地面の跡があるから追うのはそんなに難しくない。
「だいたいね、4階にあのカマキリ、何匹かいるんじゃないかなって思うの」
しばらく歩いてから、不意にマリアベルが口を開いた。
「どうして?」
ローゼリットが尋ねると、マリアベルは近くの木を指差す。一際太い木の幹に、3本線が走っていた。『引っ掻いた跡』とはマリアベルの弁だったが、つまり正解だったのだろう。
「あれ、あのカマキリの縄張りとかを示してるんじゃないかな。どれも3本だけど、傷のつけ方が何パターンかあるよね。3本並んでたり、交差してたり、縦だったり」
当然の様にマリアベルは言ったけど、グレイはそこまで覚えていない。アランも懐疑的だ。
「偶然じゃねぇの?」
「かもしれない」マリアベルはこだわりなく答える。「むしろそうだと嬉しいんだけど」
少し先が十字路になっていたから、その10歩くらい手前でハーヴェイ以外は足を止める。盗賊の役割だとはいえ、何だか普段以上に申し訳なる。
「あー、あのさハーヴェイ、俺が偵察、行こうか?」
「あはは、でも僕、盗賊だから」
からりと笑って、ハーヴェイは足音1つ立てずに歩いて行く。鼻血野郎の癖に格好いいじゃないか。
「……そりゃ、ほんとにただのアホなら、俺が怒るぞ」
アランが低い声で言うと、にゅふふっ、とマリアベルが笑った。ローゼリットは心配そうにハーヴェイの背中を見つめている。
血の跡は、十字路の右に続いている。左右を確認してから、ハーヴェイが振り返って手招きした。
「大丈夫。何にもいないよ」
ほっとして、ハーヴェイに続く。ローゼリットが地図を取り出して、マリアベルが覗き込んだ。
「全然歩いた事ないとこに、来たねぇ」
「えぇ、4階も広いですね」
随分歩いて、ダチョウの血なんてもう無くなってしまいそうだ。かなり薄くなってきた血の跡ばかり眺めていたけど、帰れるんだろうか。ローゼリットの地図があるから大丈夫か。
「俺が追いたいって言っておいてアレだけど、血の跡が完全に見えなくなっても見つからなかったら、諦めて帰ろう」
「……そうだね、追えなくなったら仕方ない、かな。でもまだ暫くは大丈夫だよ」
ハーヴェイは笑って道の先を指差す。カマキリは見えない。でも、血の跡は細く続いている。アランは言うか言わないかちょっと迷ってから、口を開いた。
「つうかグレイの剣、かなり良い剣だよな。同程度の剣を買い直すなら、けっこうな出費になるんじゃないか」
「あー、うん、それは、そうなんだけど……」
ぽり、と頬を掻く。アランは気付いてたのか。ローゼリットとかハーヴェイは、そうなの? みたいな顔をしている。
「あの剣、俺に剣を教えてくれた人から借りた剣で。年代物なんだよ」
「剣を教えてくれた人って……つまり、師匠?」
ハーヴェイが振り返って尋ねて来る。グレイは首を振った。
「いや、『剣を教えてくれた人』」
「先生?」
「って呼ぶと怒られた。師匠も同様」
「何でまた……」
呆れたように言ったのは、アランだ。
「メルヴィンさんねぇ」
事情を知っているマリアベルが口を挟む。
「もうお年だから、弟子は取らないって仰ったの。生徒も、取らないって。グレイに剣を教えるのは、ただの年寄りの道楽だから『師匠』とか『先生』とか呼ぶなーって」
「頑固爺さんって感じだなぁ」
ハーヴェイが仕方なさそうに笑う。マリアベルはチェシャ猫みたいに笑った。
「頑固じゃなきゃ、剣の道は究められないんだって」
「あ、じゃあ僕には無理だ……」
「にゅふふ」
肯定も否定もしないで、マリアベルは歩く。えー、否定してくれないの、とかハーヴェイは言い、普段なら何か突っ込みそうなアランは思案顔で前を見ていた。何だろ。
グレイもアランに倣うけど、前方には特に何もいない。横の茂みから、動物が飛び出してくるような音もしない。つまり何もない。
「アラン、どした?」
「どうって?」
「いや、何か遠くを見てたから」
「あぁ」アランはこめかみの辺りを揉んだ。「いや、メルヴィンなんてよくある名前だよな」
「うん、珍しくは、ないよな」
「だよな」
「うん。何で?」
「あー、知ってる人で、老人で、元聖騎士で、メルヴィンって人に心当たりがあったから」
「へぇ。偶然だな」グレイはマリアベルを振り返った。「メルヴィンさんも、元聖騎士だって言ってたよな」
「そうだよー。昔は王都で、偉い騎士様だったって聞いたけどね。よく分かんないけど」
マリアベルはほにゃほにゃ笑うけど、その横でローゼリットは目を丸くした。「もしかして……」と言い掛けて、すぐに口を噤んだ。
横手の茂みから何か音がする。呑気に喋ってる場合じゃない。グレイは短剣を引き抜いて、マリアベルは呪文の詠唱を始める。ローゼリットは手の甲をちらっと見て、『加護』の効果がまだ続いていることを確認したみたいだった。
音は近付いて来る。木というより、下草を揺らしているみたいだ。
がさっ! と一際大きい音がして、アランとグレイの間に紫色の線が走る。蛇? にしては太い気がするけど。しかし大概迷宮では何でもかんでも大きく育っている。迷宮サイズの蛇なんだろう。
足元を這う系って斬りにくいな、と思った。けど、迷宮の生き物にしては珍しく、そいつは冒険者には目もくれず道を横切って反対側の茂みに消えて行った。
攪乱のような行動かと思ったけど、蛇が下草を揺らす音はどんどん遠ざかって行く。
しばらく武器を構えたまま立ち尽くす。
「……えと」
困ったように最初に武器を下ろしたのはハーヴェイだった。
「なんか、急いでたみたいだね」
「ヘビさん、行っちゃったねぇ。でも、やっつけなくて済んだんなら、お互い良い事だよね」
「そうだねー。良かったね。にしても、何であんな急いでたのかな」
ハーヴェイは蛇が飛び出して来た茂みの奥を覗き込む。
「……っ!」
で、仰け反る様に茂みから離れた。
「い……っ、い、い、た。いらっしゃった!」
何で丁寧なんだとか突っ込んでる場合じゃない。
「えっ、カマキリ?」
マリアベルは分かっているみたいなのに、分かってないみたいに呑気に尋ねる。ハーヴェイががくがく頷いても、顎に手を当てて、ダチョウの血の跡を目で追った。
「真っ直ぐ続いてるのに」
「さっきのとは別のヤツなんじゃねーの?」
「にゅーん。どうだろうなぁ。そうかも」
いや、何で2人ともそんなに落ち着いてるんだって文句を言いたくなる位、アランもマリアベルも落ち着いている。
「んー。どうしようかなぁ。ローゼリット、地図見せてくれる?」
マリアベルが言うと、青い顔をしてローゼリットが鞄に手を伸ばした。地図を取り出す手が、小刻みに震えている。マリアベルはちょっと帽子の鍔を持ち上げた。
「大丈夫、だよぉ」
ローゼリットがきょとんとして「……何が、ですか?」と首を傾げる。
「にゅふふ、色々」
実に魔法使いっぽい事を言って、4階の地図を確認する。
「にゅ。ぐるぐるしてると思ったら、やっぱりぐるぐるしてるんだねぇ」