3-02
結果として、その日は何かよく分からない大物に遭遇することは無かった。だけど、マリアベルに言われて時々目線を上にあげてみると、確かに太い道の始まりとか終わりとか、つまり、道幅が変わる境目とか、交差点みたいになっている所の木の幹には、何か印みたいにふっとい爪痕が残されているのをいくつか見つけてしまった。
「なんだろーな、あれ」
「何だろうねぇ?」
グレイが呟くように言うと、ぽてぽてと歩きながらマリアベルが応えた。
「食べ物とか、水場の目印とか――もしくは、なぁんにも意味が無いのかもしれないしねぇ。迷宮の動物が、爪が伸びすぎて困ったから削ってるとか、そういうのかも。そもそも、迷宮の動物が付けた傷だって言い切れるわけでもないしね。逆に冒険者が目印にしてるのかも。こっちを右ですよー、とか、左ですよー、みたいな」
「あんな高い所に?」
ちょうど歩いていると、また見つけた。太い道と細い道が直角に交わってるところに生えている、蔦がたくさん絡んだ太い木。その木の、だいたいグレイの身長の頭1つ上くらいの高さの所に、また3本傷が刻まれている。
「にゅぅん。そうだねぇ。だけど、その方が目立つし? あれくらいの高さなら、トラヴィスさんとかならちょっと背伸びすれば届くだろうし、そんなに大変じゃないと思うよ」
「んー、ま、それもそうか」
そんなことを話していると、3階に繋がる階段に着く。いつも先頭を歩いてくれるハーヴェイが、うん……? みたいな顔をして振り返った。
「……アラン、ちょっと先降りててくれる?」
「ん? あぁ、分かった」
こういう時――ってどういう時か説明し辛いけど、とにかくちょっと説明しがたいけど何かを頼みたい時、アランはあんまり聞き返したりしない。専門家に敬意を払ってる、っていうと大袈裟だけど、でも、ハーヴェイとかマリアベルが変な事を言い出しても、ちょっと怪訝な顔をしながらすぐに頷いてくれる。
今日もそうで、あっさりと階段を下りて行こうとする。ついでに、不思議そうな顔をして足を止めたローゼリットの腕を軽く引いた。
「ほら、行くぞロゼ」
「あ、はい」
振り返って見える範囲には、何にもいない。それを確認してから、ローゼリットも階段の中に入って行った。
俺達は? と思いながらグレイがマリアベルを見下ろすと、マリアベルは小さな声で何かを呟いていた。何かって言うか、当然、呪文だろう。魔法使いが魔法を使うための、言葉たち。グレイ達が普段話すウルズ語とは違う場所の、時代の、精霊たちに願いを聞き届けてもらうための言語。
「マリアベル……?」
グレイが尋ねると、マリアベルが階段とは逆、4階の道の先に向かってすっと杖を掲げた。ハーヴェイはグレイとマリアベルの2人に背中を向けたまま、遠くを見ている。でも、グレイが見る限り、太くも細くも無い道が真っ直ぐに伸びているだけだ。
「アランとローゼリット、呼び戻した方が良いか?」
ハーヴェイにも聞こえるように言うと、マリアベルが杖を下ろして首を振った。
「うーにゅ……」
「あ、ごめん。そういうわけじゃ、ないんだけど」
振り返ったハーヴェイの顔は、妙に気抜けするような、ほわっとした表情だった。まだ歩き慣れていない階層に居る割には、妙に楽しそうな顔だ。
「ごめんごめん。僕がこんなことしたら、『警戒』で何か見つけたみたいだよね。ミノタウロスみたいな大物とか」
「うん、そう思った……けど、どした?」
「どうって?」
ハーヴェイは不思議そうだ。マリアベルはハーヴェイの顔を穴が空きそうなくらいまじまじと見つめた。
「ハーヴェイ、何か楽しそうだよ?」
「ほんと?」
マリアベルに言われて初めて気付いたみたいに、ハーヴェイは自分の顔に手を当てた。そのままごしごしと両手で頬を擦ってみせる。
「うーん、何だろ。何だったかな。よく分かんないけど、そっか、楽しそうかー……うーん。まぁとにかく、アランとローゼリットも心配するだろうし、降りよっか」
「そうだねぇ」
屈託なく笑って、マリアベルはとことこと階段を降りて行く。その次はハーヴェイ。殿がグレイだ。
グレイは申し訳なく思いつつも、アランとかマリアベルみたいには寛大になれないから、ハーヴェイに尋ねていた。
「で、どしたの?」
「うーん。何かこう……遠くで何かが、変わった感じがしたんだよね。危ない事じゃなくて。嫌な感じもしなかったな」
階段の段数を意識しないようにするためか、ハーヴェイが薄暗い足元を見ないで答えて来る。
「変わった?」
「そう」
「遠くで?」
「うん。4階とかじゃなくて、もっとずっと上の階の事だと思う……けど、そんなに上の階の事なんて分かったことも無いしなー。気のせいかも」
「気のせいじゃなくて、ほんとに変わったのかもよ」
マリアベルが笑み交じりの声で言って来た。マリアベルは流石に足元を見て歩いているし、ハーヴェイを挟んでいるから、グレイにはどんな表情をしているのか全然分からない。ただ、声だけでマリアベルが楽しくて楽しくて仕方が無いような顔をしているのは、簡単に想像できた。
「本当の本当に、“ゾディア”が14階の何かを変えて、15階に着いたのかも」