3-01
グレイがふと目を覚ますと、マリアベルが寝ていた。どうも熟睡しているようで、「にゅすー……にゅすー……」とけったいな寝息を立てている。でもまぁ、幸せそうだから、いいか、とか寝ぼけた頭でグレイは考えた。
辺りは明るくなりつつある。マリアベルは、いつも通り真っ黒の魔法使いのローブを着ている。ただ、最近ローブを新調して、襟元に赤いリボンを結んでいるようになった。裾や袖にも、白と桃色の布で飾りが付いている。ローブの中に着ている服も、ローブの飾りに合わせたような色で、何と言うか、ぱっと見、随分可愛らしくなった。
冒険者的にどうなんだとグレイは思わなくもないが、グレイ達のパーティの盗賊、ハーヴェイは絶賛していたし、僧侶のローゼリットも可愛い可愛いと喜んでいたし、そもそもこのローブをマリアベルに勧めたのは、グレイたちよりも遙かに格上の冒険者なので、グレイには文句なんて口に出せるわけがない。まぁ、別にグレイだって不満なわけではないのだが。何となく。
明るくなりつつある迷宮の中で、マリアベルのふわふわの金髪と、白い貌が輝いているように見えた。ふわふわの髪が一筋、顔に掛かっていて、マリアベルがにゅすー、と息をするたびに揺れてくすぐったそうだ。深く考えずに、グレイは手を伸ばして髪を整えてやる。
その辺りでようやく、グレイの頭が起き出して、つうか何でこいつこんな近くで寝てんのとか、そもそも俺、今、何した? とか、マリアベルの髪、ふわふわでさらさらなんだけどとか、一気に色々考えて訳が分からなくなる。訳が分からないのに、何となく嫌な予感がして視線を動かすと、見張りで起きていた戦士のアランが、どうも一連のグレイの動きを見ていたらしく、薄暗い中でもはっきり分かるくらいにやにやしている。
「ち、がっ……」
何を否定したいのかグレイにも良く分からないが、とにかく跳ね起きて喚きそうになると、後ろから口を覆われた。全く気配が無かったのだが、ハーヴェイがグレイの口元を手で押さえて、アランと同じようににやにやしながら小声で「まぁまぁ、マリアベルもローゼリットも、まだ寝てるからー」とか言った。いやもうほんと、こいついつ近付いて来たんだってくらい、気配が無いし、音も無い。弓だの短剣だの荷物だの持ってるはずなのに。悪用すんなよ、とか思う。
「んぅ……?」
眠りが浅い性質なのか、グレイと同じくそろそろ起きそうな感じだったのか、目元を擦りながらローゼリットが起き上った。掛け値なしの美少女は、寝起きも可愛らしい。寝癖なんて全然付いてないけど、長い髪を手櫛で整えて、小さく欠伸をしてからここが外だって事に気付いたらしい。何故か口元を抑えられてるグレイと、何故か口元を抑えているハーヴェイを見て、ちょっと恥ずかしそうな顔をして笑った。
「おはようございます。どうかしました?」
「たぶんねぇ、説明しようも無い、しょーもないことだよぉ」
説明しようも無いっていうか、口元を抑えられてるから話せないグレイの代わりみたいに、グレイのすぐそばで起き上ったマリアベルが答えた。ついさっきまで熟睡してた筈なのに、驚きの勘の良さだ。精霊が囁きでもしたんだろか。とりあえずグレイは同意の為に頷く。
「つーかお前ら、いい加減離れろよ」
ようやく真っ当な事をアランが言って、ハーヴェイが「あー、ごめんごめん」とグレイから手を離した。呑気に笑ってるっぽいけど、こいつローゼリットに見惚れてたんだろうなぁとか思う。マリアベルに視線をやると、だろうねぇ、と言わんばかりに聡明な魔法使いは肩を竦めた。だよな。とかグレイも納得する。別にグレイも見惚れてたとかそういうわけじゃないけど、とにかくローゼリットは美人だなぁって言うか「にゅりゃー」変な掛け声とともに、マリアベルに杖で頭を小突かれた。
「……何?」
全然痛くは無いけど、驚いたから尋ねる。マリアベルは2回まばたきをしてから笑った。
「にゅーん? 果てしない使命感に駆られて何となく?」
「何だそれ……」
分かるような、分からないような。見透かされているような、言い掛かりのような。グレイが強く出られないのは、じゃっかん後ろめたいからに違いない。
「ついでにハーヴェイもー」「えー、何で僕までー」
ぽこん、と木の杖でマリアベルはハーヴェイまで小突いてから「そしてっ、ごはーん!」と歌うように言って自分の荷物を持ち上げた。自由だ。
マリアベルに言われたからではないけど、5人で簡単に食事をする。ローゼリットは朝の祈りを捧げてから、グレイとハーヴェイは特に信仰心は無いけど、携帯食もうまいなー、とか、美味しいねー、とか言い合って何かしらに感謝する。
アランは何故か貴重な朝食の一部をマリアベルに譲渡していた。褒めているっぽい。にゅーふふー、と細くてちまっこい癖に良く食べるマリアベルは嬉しそうだ。
まだ1泊、つまり2日続けてしか迷宮に入って無いにしたって、拾った品物を持ち帰ることを考えると持ち込む荷物はそれなりに厳選される。そんな中で、半分でも朝食のパンを分けて貰ったマリアベルはご機嫌だ。
「何アラン、餌付け?」
「正当な報酬だ」
からかうようにハーヴェイが尋ねると、至極真面目な顔をしてアランが答えた。「にゅぅん、そうだねぇ」マリアベルも同意の声を上げる。ローゼリットは何だかよく分かっていない顔だ。まぁ、だいたいいつも通り、ではある。
食事が終わると、ローゼリットが全員に見えるように地図を広げた。
盤上遊戯の盤のように、恐ろしいくらい単調な地形をしていた3階を何とか攻略し、先日4階に到達したばかりだ。4階はかなり緑の色が濃い。地形はというと、特に分かりやすい特徴は今のところ見当たらない。
迷宮は女神の箱庭のようだ。大樹の中であるというのに、地面があり木が育ち下草が生え、道や壁を形造っている。迷宮の中でも朝があり、昼があって夕方と夜があるのは、すべての冒険者が体感済みだ。
夜行性の動物の方が、緑の大樹の中では凶暴なのが常だから、冒険者は夜になると街に帰ったり、息を潜めるように眠っていたりする。逆に、夜行性の動物の方が希少な素材となっていたりするから、昼夜を逆転させて低層階で暴れている冒険者も、いるらしいが。
グレイ達の基本的な命題は――というか、マリアベルの目的は“迷宮を踏破する”だから、とにかく上層階を目指す。そんなわけで、最近やっと日帰りばっかりじゃなくて、2日続けて迷宮の探索を行うようになってきた。
女神の慈悲か、もしくはお遊びの一環なのか、4階ではところどころ湧水を見つけた。飲み水にしてまったく問題ない位に澄んだ水で、初めはマリアベルの魔法で沸かしてから飲んだけど、何か大丈夫そうだねって話になってその後はわりと普通に直接飲んでる。
ローゼリットの地図では、湧水の場所も丁寧に書き込まれていた。一箇所を指差して、アランが言う。
「この先は、けっこう広い道が続いてたよな」
「そうですね。随分長そうでしたから、前回は手前で引き返してしまいましたけれど。それから、まだ行っていないのはこちらの」
ローゼリットはつつっ、とアランが指差してるのとは別の場所を示した。
「小道ですね。随分狭かったので、少しだけハーヴェイに確認してもらって、こちらも引き返してしまいました。今回はどちらを目指しましょうか?」
アランとローゼリットがそんな事を言いだしたのは、4階は階段を上がって来てからちょっとした小部屋への分かれ道とかはあったにせよ、わりと1本道だった。で、グレイ達が休んだところから左右に別れる。左は、まだ行ったことが無い広い道へ、右は、随分狭かった小道へ続いて行く。
昨日の夜には決められなくって、っていうか、けっこう疲れて来たし、今決めなくても良くない? みたいな話になって休むことにした。
結局はどっちにも行くことになるんだろうから、どっちでも良いっちゃいいんだけど。でも何となく、こう、話し合ってみんなで決めるのは、何度やったってわくわくする。いや、わくわくっていうとお気楽な感じでちょっと違うか。
とにかく、まだ見ぬ何かを恐れて、期待して、選ぶのは、何時だって不思議な興奮と決意が付いて来た。迷宮の生き物と戦っている時より、新しい階段を見つけて新しい階層へ踏む込む時より、こうして5人で車座になって地図を覗き込んでる時がグレイは一番、あぁ、冒険者だなぁと思う。
「なんかねぇ」マリアベルは右手を丸めて、ちょいちょい、っと動かした。猫とかが何かを引っ掻くみたいな仕草だ。「こっちの広ーい道の、手前の木にね。うーん。何だろ。なんかねぇ、引っ掻いた跡みたいなのがあったんだよね」
「引っ掻いた跡?」
ハーヴェイが尋ねると、マリアベルはこくんと頷いた。
「そう。あたしの身長よりも高い所にね、がりがりがりって3本くらい」
ここが迷宮だって事は分かってたけど、でも『引っ掻いた跡』と言われて、飼い猫が家の柱を引っ掻いた跡を想像していたグレイは自分の顔が引きつるのが分かった。アランも、マジか……とか言いたそうな顔で眉間を揉んでいる。
「えぇと……」ローゼリットは困ったように首を傾げた。「そうすると、マリアベルより大きい何かが、木に印を……?」
「たぶんねぇ」
困ったよね、みたいな顔をしてマリアベルは続けた。
「あたしの身長よりも高い所を引っ掻けるんだから、きっともっと大きいよねぇ。爪っぽかったけど、でも、削ったみたいな感じでもあったかなぁ。何だろね、あれ」
「……つーか、見つけた時言ってくれよ」
「にゅぅん。そういえば、そうだね。うっかり」
疲れたように言うアランに、マリアベルはあっさりと答える。あ、はは、とちょっと引きつった声を上げてハーヴェイが笑った。
「えーと、じゃあ、右の、小道の方に行こうか……」
「だな」
「そだねぇ」
グレイとマリアベルで頷き合うと、「まぁ、そうなるよな」「その方が良さそうですね」とアランもローゼリットも同意した。にゅふふ、っと変な笑い声を上げてマリアベルが魔法使いの杖を掲げる。
「それじゃ、行こうか」