07
緑の大樹の迷宮内部には、独自の生態系があり、生態系外の生き物――つまり、冒険者――は襲われることが多々あるという。しかし、衛兵たちと歩いている間は結局1度もそういった動物に遭遇することはなかった。
その為に、油断していたことは否めない。ついでに、この迷宮の雰囲気に圧倒されていたことも事実だ。
が。
「……うん?」
最初に声を上げたのはハーヴェイだった。茂みの裏から、木々の陰から、何か音がする。
「他の冒険者か?」
グレイが呑気に言うが、ローゼリットが錫杖を構え直して鋭く言う。
「――違います!」
言い終わるが早いか、彼らの足元を何かが駆け抜けた。黄色っぽい毛皮。大きさは兎ほどだろうか。慌ててグレイとアランも長剣を抜くが、振り下ろそうにも、小さくて、すばしっこい。固い毛皮での体当たりや、噛みついては離れる、を繰り返してくる。こちらの攻撃など、とても当たる気がしない。「にゅあっ」とマリアベルが変な悲鳴を上げた。
「やぁっ!」
マリアベルの足に噛みついていたネズミもどきに、ローゼリットが錫杖を振り下ろす。僧侶の特技、『粉砕』だろう。掠ったようだが、ネズミもどきは元気に走り去って行った。
「もぅっ、いったいなー!」
顔をしかめて、マリアベルがハーヴェイに噛みつこうとしているネズミもどきに杖を向ける。
普段の話し声とは違う、ちょっと固くて、透き通るような声でマリアベルは呪文を唱えた。
「Goldenes Urteil wird gegeben!」
「わぁっ、それ無理じゃない!?」
マリアベルが杖を掲げて叫ぶと、悲鳴交じりにハーヴェイが跳んで逃げる。ちょうどハーヴェイが立っていた辺りに、小規模とはいえ、落雷が落ちて下草が焦げた。雷精霊トルフェナの恩寵による『雷撃』。肝心のネズミもどきにはかすりもしない。むしろハーヴェイがかすった。
魔法は得てして強力だが、発動までの時間が最大の欠点だ。発動までに、呪文の詠唱、発動位置の指定、効果の発動と、3ステップが必要となる。今回のように、足元を走り回る動物に魔法を当てるなら、辺り一面薙ぎ払うような効果の魔法が必要になるだろう。高位魔法になると、相手を指定すると自動で追尾するような魔法もあるそうだが、マリアベルにはまだ荷が重い。
「えぇい、来んなって!!」
他に手も思いつかず、グレイが長剣を振り回す。初めは2、3匹であったはずなのに、いつの間にか5、6匹に増えている。こいつら、肉食か? と自分で考えておいてグレイはぞっとした。
頑丈な長靴を履いている前衛のアランとグレイはさておき、後衛のマリアベルやローゼリットは噛みつかれるたびかなり痛そうだ。ハーヴェイはひょいひょいと弾んで避けているが、肝心の短剣による攻撃は当たっていない。
「ロゼ!」
何を思ったか、アランはローゼリットを呼ぶと、体勢を低くして、向かってくるネズミもどきに腕を差し出した。金属で補強している長靴には、ネズミもどきは噛みつく度、すぐに逃げていくが、皮の籠手となると話は別だ。げっ歯類特有の鋭い牙がアランの腕に食い込む。
「動かないでくださいね――やぁっ!」
動きを止めたネズミもどきに、ローゼリットが狙い澄ました一撃を振り下ろした。「ギッ!」とネズミもどきが声を上げて、アランの腕から離れる。そのまま、よたよたとローゼリットに牙を向いたネズミもどきに、駆け寄ったグレイが長剣を振り下ろした。横から剣を叩きつけるような形になり、斬った、というより打ったような感触だ。ローゼリットは慌てて下がって錫杖を構え直すが、数歩分転がったネズミもどきは動かない。
「よしっ! 次行く、ぞ……?」
歓声を上げてアランが立ち上がるが、動物らしく、1匹やられるのを見ると、残りのネズミもどきは一斉に逃げて行った。
「……マジか。俺、噛みつかれて終わりかよ」
半ば呆然とアランが呟く。まぁまぁ、とハーヴェイがとりなすように言った。
「僕なんて何の役にも立ってないよ」
「そだよー。あたしなんて、ハーヴェイに魔法当てかけて終わりだよ。ハーヴェイ、ごめんね?」
「大丈夫大丈夫。当てかけて、っていうか、ちょっとビリっとしたけど」
実に気の抜けるようなマリアベルとハーヴェイの会話である。グレイが辺りを見回すと、ネズミもどきが再び襲ってくる様子は無い。ついでに、2人組のミーミル衛兵も見当たらない。ローゼリットは、死んだネズミもどきに向かい、錫杖を額に当ててわずかに何かを呟いた。それからアランに向き直る。
「アラン、腕、見せてください」
ローゼリットに言われて、アランが大人しく籠手を外して腕を差し出すと、ネズミもどきに噛みつかれた部分から血が滲んでいた。治療が必要だと判断したのだろう、ローゼリットは錫杖を持っていない手を軽く握って額に当ててから、祈るように唱えた。
「我らが父よ、慈悲のひとかけらをお与えください」
僧侶の魔法、『癒しの手』だ。ローゼリットが唱え終わると、わずかに錫杖の先が光る。光を向けられると、あっという間に怪我が治っていった。
「「おぉー」」
グレイとマリアベルが感嘆の声を漏らす。ローゼリットはちょっと恥ずかしそうに肩をすくめてから、2人に向けてきっぱりと言った。
「この程度の怪我でしたら問題なく治せますけど、あまり重症になると私の手に余りますから、気をつけてくださいね。それと……」
一瞬言いよどんでから、ローゼリットはわずかに低い声で続けた。
「死体を治すことは、どんな高位の僧侶にも出来ません。気を付けてください――本当に」
僧侶として修業を積むためには、自分の宗派の教会に入り、師から魔法や特技を伝授することになる。その方式は、戦士も盗賊も変わらない。戦士は戦士ギルドに、盗賊は盗賊ギルドに所属し、それぞれの師匠から特技を伝授することになる。
職業ギルドは、特技の秘匿の為に排他的であることがほとんどだが、僧侶たちの駐在する教会は別だ。僧侶の性質上、街の病院を兼ねることが多い。そこで修業を積む上では、新しい魔法を身に付け、実際に訪れた病人や怪我人に使用し――そして、上手くいかないことも、多い。
「「……はいっ」」
やはり声を揃えて、背筋を伸ばしてグレイとマリアベルは答えた。
その答えに満足したようにローゼリットは頷く。
話はそれで終わりという感じになって、マリアベルとローゼリットの足の怪我も治すと、一行は辺りを見回した。木、むしろ森。木の中のはずなのに。そして出口は?
「確かにこれは、なんつーか、迷宮だよなぁ……」
歩き出して、先が思いやられる感じでアランは呟いた。確かに、ミーミル衛兵が一定の確認を行いたくなるのも分かる。
「それにしても、何でいきなりあのネズミ出てきたのかなぁ。行きは何ともなかったのに」
ハーヴェイが呑気な口調で言う。たぶんねぇ、とやはり呑気な口調でマリアベルが言った。
「グラッドさんとサリオンさんが持ってた鈴じゃないかなぁ。そういえば、迷宮の獣避けの鈴があるって、聞いたような気がする」
「つうか、2人ともいつの間にかいないよな。帰ったのか?」
ちょうど、三叉路のような場所に着き、左右を見回しながらグレイが言った。誰かが何かを答える前に――先頭を歩いていたグレイとアランは、慌てて数歩戻り、小道に隠れる形になる。
「……見た?」
「……見た」
グレイとアランはわずかに青ざめた顔を見合わせて頷き合う。
マリアベル達はきょとんとしている。グレイ達が止める間もなく、なになに、とか言いながらハーヴェイが小道の先を覗き込み――やはり、顔を青くした。
「……なんか、すっごいのがいるんだけど。すっごいデカい、青虫みたいな」
「すっごいデカい、青虫」
マリアベルは繰り返して、ものすごく嫌そうな顔をした。
「えぇと……まさか、先程のネズミくらいの大きさですか?」
話を聞いただけでわずかに顔を青ざめさせて、ローゼリットが尋ねる。確かに、普通の青虫は手のひらサイズだ。それですら気持ち悪い、膝ほどの大きさになったら、それだけで嫌だろう。
ただし、緑の大樹の迷宮内の青虫は最悪だった。
ハーヴェイが首を振って言う。
「たぶん、僕よりデカい」
マリアベルが悲鳴を上げかけて、ローゼリットが慌てて口を塞いだ。そのままローゼリットにしがみつくような形で、マリアベルは猛烈な勢いで首を振る。
「む、無理。無理むりむり! ぜったい無理!」
小声で主張する。グレイ達も同意してやりたかったが、彼らがいるのは1本道。先は行き止まり。進まないわけには、行かないのだ。
「……と、とりあえず、もう1回見てみるよ。この先の、左側にいたし、上手くやり過ごせるかも」
ハーヴェイが震え声で行った。おう、とか、頑張れ、とか小声で全員が応援する。
一応、というか、さすが、というか。
盗賊らしく、ほとんど音を立てずにハーヴェイは歩く。三叉路への入り口になるような木の陰から、件の青虫のいる方向を伺った。