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そう言って、ハーヴェイは階段を覗き込む。緑の大樹の迷宮内部は不思議がいっぱいだ。筆頭が、この階段だとハーヴェイは思う。決して段数を数えられない、どこまでもうっすらと明るい螺旋階段。
先頭をハーヴェイ、それから、マリアベル、ローゼリットが続く。グレイとアランは3階で背後を警戒して待っているのだろう。ちょっと時間を置いてから、下りて来る筈だ。
1度、段数を数えながら上ろうとしたら、いつまでも上の階に着かなくなってしまって困ったことがある。それ以来、何となく、階段の中では話もせず、黙々と上ったり、下りたりするようになった。
なった、のだが。
不意に、ハーヴェイの背後のマリアベルが何かを話し始めた。話す、というか、ハーヴェイには全く意味の分からない言葉。精霊達と語る為の言語。呪文の、詠唱?
「マリアベル……?」
ローゼリットが不思議そうに声を上げると、前方が明るくなる。出口だ。2階に着いた。ハーヴェイは何が何だか分からないまま、階段から出る。出て、硬直する。
「……が、ああああああああああっ!!」
獣じみた悲鳴を上げて、ミーミル衛兵が倒れた。金属製の籠手に守られた腕が、斬れているというか、折れているというか、とにかく遠目にも大変な事になっている。彼に止めを刺そうと、武器を振り上げたのは――ミノタウロスだ。
別のミーミル衛兵が、ミノタウロスと、倒れた同僚の間に割り込む。
「な、な、何でここに……」
掠れた声で呻くハーヴェイの横で、詠唱が終わったらしいマリアベルが杖を掲げる。
「Goldenes Urteil――」
マリアベルは勇敢だ。ハーヴェイからしたら、勇敢すぎる。来るって。魔法なんて使ったら、僕たちの方に来ちゃうって。ハーヴェイは気が付いたらマリアベルの口を塞いでいた。
「ハーヴェイ、何やって……」
階段から下りてきたグレイが、呑気に言いかけて、それから状況に気付いて顔を引きつらせた。アランも、「嘘だろ……」と呻いて絶句する。
ミーミル衛兵は、5人。ハーヴェイには見分けが付かないが、とにかく、今まさに腕をやられて重症なのが1人、ミノタウロスに斬りつけられて、何とか堪えているのが1人、広場の端で、倒れているのが2人と、ミーミル衛兵にも僧侶がいるのだろう。怪我の治療に当たっているのが1人。つまり、まともに立っているのは1人しかいない状況だ。
マリアベルは、暴れもせずに、じっとしている。じっとハーヴェイを見上げてきている。何で? と言いたそうだ。緑の瞳が、ハーヴェイには恐ろしいくらい、透き通っている。
いや、いやいやいやいや、無理だよ。無理ですよ? 死んじゃうって。僕らには無理だって。そんな目で見られても。ハーヴェイは高速で目で訴えるが、マリアベルには伝わらない。ただ、心臓が暴れている。足が震える。マリアベルは、じっと見上げて来る。
「に、逃げ、逃げよう。3階に上がって、別の、階段で……」
どもりながらハーヴェイが言うと、アランが悔しそうに、それでもローゼリットの腕を取って頷いた。グレイも下がりかけた。4対1だ。逃げよう。逃げて、生き残ろう。だって、トラヴィスだって言ったじゃないか。冒険者は、自分たちのパーティが生き残ることを考えて動くのが、正しいんだって。そんな、見知らぬミーミル衛兵の為に、ミノタウロスに突っ込むなんて。
ハーヴェイはそう思った。思っていたから、マリアベルを抱えるようにして階段に向かいかけた。一瞬振り返ったその時に、怪我を治してもらって、戦線に復帰したミーミル衛兵が、その名前を出すまで。
「――グラッド!!」
ミノタウロスの攻撃を、剣で受けたが、ついに耐えきれずふっ飛ばされたミーミル衛兵に向かって、もう1人の衛兵は言った。嘘だ、と、ハーヴェイは思う。やめてよ、そういうの。とも思って、それから、手が、緩んだ。意識してか、無意識にかは、ハーヴェイには分からないが。
「wird gegeben!」
するりとハーヴェイの腕から逃れたマリアベルは、『雷撃』を発動させた。
いった。ミノタウロスに雷が落ちる。だから、ミーミル衛兵は――グラッドの兄貴は、命拾いをした。
だけど、ミノタウロスは身体を震わせて――それだけだった。そして、怒りに目を燃え上がらせて、ハーヴェイ達の方へ向かってくる。もう、死にかけや、病み上がりのミーミル衛兵になんて、目もくれずに。
「……っ!!」
向かってくるミノタウロスは、物凄い迫力だ。
斧だが、槍としても使えそうな武器を持っている。半月斧だろう。柄はそこまで長くないが、刃が極端に大きくなっている。というか、別に柄も短くはない。ただ、ミノタウロスがでかいだけで。
となると、極端に大きくなっている刃は、通常の武器より更に大きい事になる。そりゃ、腕とか首とか斬れる筈だよ。死ぬほど動揺している割に、やけに醒めきっているハーヴェイの頭の何処か一部が冷静に言う。下手をすれば、もしくは上手くやれば、人間くらい両断出来るだろう。かつての冒険者の持ち物なのか、女神が与えたもうたのかは、ハーヴェイには分からない。
無理むりむりむり、怖っ、怖すぎるって、そう思うハーヴェイの横を誰かがすり抜ける。グレイだ。やけくそみたいに雄叫びを上げて、盾を掲げて、マリアベルを護る為に、走って行く。
「――我らが父よ、愛し子に憐れみと祝福をお与えください!!」
悲鳴のような声で、ローゼリットがいつの間にか切れていた『加護』を掛け直す。
大人の1.5倍くらいのサイズのミノタウロスが、あっという間にグレイに迫る。半月斧が唸りを上げる。『加護』の性能込みだろうが、ズゴンっ、と凄い音がして、それでもグレイは持ちこたえた。再度、半月斧が唸る。再び、グレイは防御。から、今度は持ちこたえるだけじゃなく、踏み込んで長剣を振るう。ミノタウロスは危な気なく避ける。
「ハーヴェイ、弓で援護を……!」
ローゼリットに言われて、ハーヴェイは慌てて短弓を用意する。っていうか、え、ねぇ、やるの? やっちゃうの? とか思うが、あぁ、でもグラッドの兄貴が。それに、ローゼリットに、期待されてるなら、そりゃ、やらないと――混乱しながらも、ハーヴェイはミノタウロスの横手に回って、矢をつがえる。
とうとうグレイが持ちこたえられなくなって、「づっ……!」と声を上げて盾ごと吹っ飛ばされる。どこかを斬り付けられたのか、血の跡を残しながら転がる。
「……えいっ!」
グレイに止めを刺そうとしたミノタウロスの肩を狙って、ハーヴェイは矢を射る。
ミノタウロスは、まさに全身が牛っぽい短い毛で覆われていて、2足歩行をしていて、腰に生意気にも布を巻いている。武器は半月斧を持っているが、防具らしい防具はない。すとんっ、と肩に矢が刺さる。ミノタウロスが、ハーヴェイの方を向く。
「え、ちょ……」
待って待って、とかハーヴェイが馬鹿な事を言う間もなく、ミノタウロスはハーヴェイに向かって半月斧を振り回してくる。ハーヴェイの軽装で受け切れる訳がない。だけど、背中を見せて逃げたらバッサリやられそうで、こっわぁあああああ、とか思いながらも、弓を放り投げて、飛び込むように前に出る。長い柄の下をくぐる。頭の上で、半月斧が唸りを上げて通り過ぎる。
そのまま前転して、起き上がろうとしたハーヴェイに、柄を短く持ち直したミノタウロスが再度半月斧を振り下ろす。「ぃぃっ……!」と悲鳴にもならないような声を上げて、横に転がって避ける。何とか生きている。っぽい。