2-09
朝、緑の大樹の前。
マリアベルが、絶対もう必要ないと思うのだが、冒険者証明証をミーミル衛兵に見せている。今日はグラッドが居たらしく、何やら話し込んでいる。楽しそうだ。まぁ、大抵マリアベルは楽しそうだ。
珍しく、朝からずっと楽しそうじゃないハーヴェイと、いつもの1割増し位で目つきの悪いアランを見て、ローゼリットはちょっと首を傾げた。
「……何かあったんですか?」
グレイはそう尋ねられて、ちょっと苦笑する。
「からかい過ぎた」
「はぁ」
「あと、さすがにあまりの粘着気質に、ちょっと心配になってきたらしい」
「えぇと……」
ローゼリットは訳が分からないといった顔だ。まぁ、そうだよな。とかグレイは思って、どこまで説明したもんかなぁとか考える。ハーヴェイをからかい過ぎたら、むくれてて、アランはローゼリットが心配になったらしいって、変だよなぁ。つーか、前にマリアベルは、ローゼリットはハーヴェイのことを何とも思ってないって言ってたけど、どうなんだろうな、と思う。
「まぁ、深刻な喧嘩じゃないよ。むしろすげーくだらないから、大丈夫」
「……それなら、いいのですけれど」
グレイが笑って言うと、ちょっと安心したようにローゼリットは微笑んだ。朝日が木々の葉の間からローゼリットの上に零れ落ちて、きらきらしている。聖女か何かのようだ。不意にグレイは息を飲みかけた。
「にゅ、いーん!」
グレイが固まりかけたところに、マリアベルが変な声を上げて駆け寄ってきて、ローゼリットの腕にしがみついた。
「さ、行こう! 迷宮行こう! 1日ぶりだよー!」
マリアベルはローゼリットに無邪気に笑いかけ、グレイにはチェシャ猫の笑顔を向けて、言った。実に器用な魔法使いである。
ローゼリットも微笑んで頷いて、それを見たハーヴェイは、わりとすぐに機嫌が直ったようだった。幸せなやつだな、とか微笑ましくグレイは思う。アランは呆れ顔だ。まぁ、いつも通りである。
慣れて来たとはいえ、油断するとすぐに痛い目にあうのが迷宮である。1階は、最短距離で、丁寧に階段を目指す。モグラは1階にしかいないから、2階に慣れて来るとちょっとやり辛い。不意にマリアベルの足元に出て来た時には、全員ひやりとした。ローゼリットが即座に錫杖で殴りつけて、事なきを得たが。
階段の手前で、蝶に遭遇したので、戦うよりも階段を目指して走る。迷宮の階段は相変わらず段数がよく分からない。何度登っても、降りても、どれくらい長いのか短いのかさっぱり分からない。全員で一度、声を出しながら段数を数えたが、その時は、いつまでたっても2階に着かなくなってしまって困った。100段まで行ってしまって、疲れたので数えるのをやめて、無心に登ったらすぐに2階に着いた。認め難いが、そういうものらしい。
それはさておき、階段の中には人間以外の生き物は入って来ないようだった。ネズミも、モグラも、蝶も、青虫も、決して階段のある大樹の洞に入ろうとしない。だから、階段近くで追われた時には、階段に入ってしまうことにしている。
階段を登って、2階に上がるたびに不思議な感覚に包まれる。恐怖、は感じないが、いつまでも奇妙だ。2階でも、頭上を見上げると、木々が生い茂っていて、足元を見下ろすと、地面がある。これ、14階まで続くんだよな、と思う度にグレイは軽く眩暈がする。
「め、が、み、さ、ま、の、いう通りー」
マリアベルが変な節をつけて、歌うように言って笑う。マリアベルはご機嫌だ。迷宮を踏破する、と彼女は言った。それでは、その後は? とグレイは不思議に思う。こんなに楽しそうに迷宮に挑んで、迷宮を踏破した、その後のマリアベルの人生は、どんなものなのだろう?
「マリアベル、ハーヴェイよりも先、行くなって」
そこまで考えて、グレイは苦笑しながら言った。マリアベルは、にゅーん、とか言いながら、それでも大人しく戻ってくる。
気が早い。
まだ自分たちがいるのは2階だ。14階。数多の冒険者が挑み、そこまでしか届いていないのだ。それを超えて、踏破して、その後のことを案じるなどおこがましいにも程がある。
「……ハーヴェイ、どしたの?」
戻ってきて、マリアベルはハーヴェイの顔を覗き込んで怪訝そうに言った。ハーヴェイの目の前で、ひらひらと手を振っている。
「あ……ごめん。考え事してた」
ハーヴェイは取り繕うように言った。マリアベルが首を傾げる。黒い三角帽子が、ちょっとずれて手で押さえていた。
「……何か、いるのか?」
アランが低い声で尋ねる。それを聞いて、ローゼリットとグレイも表情を引き締めた。
盗賊の特技には、近くにいる強敵を察知出来るようになる『警戒』というものがある。それでハーヴェイが何かを感じ取ったというのなら、歌ったりしている場合ではない。いや、歌っていたのはマリアベルだけだが。
「怪しいのでしたら、階段に……」
ローゼリットが後方を振り返って言うが、ハーヴェイは首を振った。
「うーん。大丈夫、だと思う。っていうか、ここで戻っちゃうと、今日、2階のどこにも行けなくなっちゃうしなぁ」
最後は、多少ぎこちなかったが、ハーヴェイはローゼリットに笑いかけながら言った。いつも通りの呑気な笑顔、とまではいかなかったが。
全員を見回して、半分くらい、呑気な顔で、半分くらい、真剣にハーヴェイは言う。
「今日、何かいる。一昨日僕たちが倒した牛なんてもんじゃない。もっとずっと強い。たぶん、今日までこの階にいなかったと思う。ただ――すごく遠いよ。だから、大丈夫。じゃ、行こうか」
マリアベルの口調を真似て、ハーヴェイは笑う。マリアベルは気付いたのか、ハーヴェイ、まねっこー! とか笑っている。ローゼリットは多少不安そうだったが、錫杖を握って、1度額に当ててから歩き出した。
ハーヴェイの警告と関係があるのか、ないのか。不思議なくらい、牛を見かけない。何度か兎と青虫に遭遇した程度だ。牛がいないから、今日まではなかなか進めなかった場所の地図が埋まっていく。ただし、それでも3階への階段は見つからない。
「……どう、しましょうか」
これも女神の采配なのか――驚くほど少ない戦闘の回数で、かなりの範囲の地図を広げることが出来た。昼の休憩で、車座になって座りながら、ローゼリットが地図を広げた。
「今日、進んだなー」
自分たちが歩いたわけだが、しかし感心したようにアランが言う。その気持ちはグレイも分かる。何か感心したくなる。
マリアベルはほにゃりと笑って、ローゼリット、お疲れさまぁ、とか言いながら、ローゼリットの頭を撫でた。不意打ちだったからか、ローゼリットは、ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめている。
なにこの子かわいい。大好き。と、ハーヴェイの顔に書いてあるのが、グレイとアランには見えた気がした。アランが半眼で遠くを眺めているから間違いないと思う。
「こんなに進んだのに、階段、ないのか」
誰も言わなそうなので、グレイが言うと、ローゼリットがちょっとほっとしたように頷いた。地図上の2か所を指差して、続ける。
「まだ進んでいないのは、ここと、ここ。今から向かうとすると、どちらかに向かって、後は帰るしかない時間になってしまうでしょうね」
今日までは、必死に牛を避けて、避けて進んでいたので、まだ行っていない場所は、1階への階段からやけに離れていた。しかもその2か所もそれぞれ離れている。2階で夜を迎えるような馬鹿な真似は絶対に避けたいので、ローゼリットの言う通り、左右のどちらかへ行って、今日は帰るしかないだろう。
「牛が見当たらなくて調子がいいから、出来れば今日のうちに階段、見つけたいよな」
アランも真剣な顔つきで地図を眺める。階段が見つかれば、いざとなったら逃げ込める算段が立つからだ。しかし、まぁまぁ、とハーヴェイがのんびりした声で言った。
「明日も牛、全然いないかもしれないし。無理しないで、行けそうな方から行こうよ」
ハーヴェイに言われて、良い感じに力が抜ける。それもそうか、そうですね、と口々に言って、再度地図を眺める。
「じゃ、こっちの方が近いかな」
マリアベルが、地図上の1点を指差して言った。
誰も異論は無さそうだった。