5-31
「Goldenes Urteil wird gegeben!」
声も枯れよ、と言わんばかりにマリアベルは絶叫している。それでも、ハーティアの『雷撃』の威力には及ばない。“エスペランサ”の面々は息が上がり始めていた。
長いな、とグレイは思う。氷竜が放った氷の錐を受け止めて、だけど腕が、全身が衝撃で痺れてしばらく動けなくなる。それをフォローするみたいに、ハーヴェイが横手から撃った。氷竜の残り1つとなった首が、狙撃手を探す。
炎竜戦より、確実に戦闘時間が長い。仕方が無い。切り落とされた首を復元まではしなかったけれど、氷竜も僧侶の魔法のように、回復の術を使う。それから、時折マリアベル達の『雷撃』を阻むバリアも張る。“桜花隊”も“カサブランカ”もいない。時間が掛かるのは当然か。
身体のあちこちが凍り付いているように重い。それでもグレイは盾役だから、マリアベルとリーゼロッテの前に立つ。何でこんなに、と思うほど身体が重い。装備が重い。手の甲を見ると、『加護』の輝きが消えていた。
「リーゼロッテ、ごめん、『加護』が……!」
はっ、と息を吸い込む音まで聞こえた。「ご、ごめんなさい……っ!」と言ってリーゼロッテはすぐに祝詞を唱え始める。相当、しんどそうだ。今日、すでにもう数えきれないほどの回数、魔法を使い続けている。それでも、リーゼロッテも、マリアベルも決して折れない。そうしたら、グレイが倒れる訳にはいかない。
永遠に終わらないんじゃないかと、思った。
永遠に終わらなければいいとも、思った。
だけど終わるのだ。何だって。どんなことだって。いつだって。
息吹が来る。氷の錐も飛んでくる。時折、氷竜に掴まれそうにもなる。羽ばたきで視界が遮られる。それでも、グレイは自分の役割をわきまえる。リーゼロッテとマリアベルを守る。守り切る。
守りに徹してしまえば、ハリソン商店から贈られた武具は、リーゼロッテからの『加護』や『聖者の守り』は、マリアベルの『氷精霊の守護』は、グレイをまだここに立たせてくれた。
グレイや、ギルド“ゾディア”の聖騎士のアレンが正面でどっしりと構えて居れば、氷竜も簡単に動きはしなかった。その分、アランやハーヴェイは自由に駆け回れる。
「Ärger von roten wird gefunden!」
『雷撃』を阻むバリアがまた張られたのか、マリアベルが呪文を『火炎球』に切り替える。先立って手に入れた炎竜の鱗のお陰で、威力はかなり底上げされている。だけど、リーゼロッテが悲鳴みたいな声で「マリアベル!」と少女の名前を呼んだ。
「だい、じょ、ぶだよ……!」
咳き込みながら、マリアベルが答える。相当、きつそうだ。
「だいじょうぶだよ! もうすぐだから!」
自分に言い聞かせるみたいにマリアベルは大丈夫だと繰り返して、呪文を詠唱する。ほんとに、大したもんだよ。そこまでやるなら。
「Ärger von roten wird gefunden!」
マリアベルを励ますように、先達の魔法使いたるハーティアが『火炎球』を放つ。ローズマリーが危なげなく『属性追撃』に繋げる。2人は、強い。
だけど、グレイ達はいらないんじゃないか、とは決して思わなかった。お荷物には、絶対になっていない。グレイ達“エスペランサ”も役に立っている。というか、この強大過ぎる竜の前では、誰もが全力を尽くすしかなかった。
氷竜が、氷の錐をまた放つ。辺りはもう氷の錐だらけだ。氷樹みたいに、何本も何本も突き立っていて、広間が随分狭く感じられた。お陰で、氷竜は飛んで掴み掛かって来ることはほとんど無くなっていた。氷の錐の陰に、グレイ達が隠れられるからだ。その分、息吹と回復が増えた。氷竜も苦しいのだと、思い込む。
我らが父に、祈りはしない。
運命の女神さま達に、乞いはしない。
ただ、最善を尽くす。それだけだ。
そうして、その時は来た。
「Ärger von roten wird gefunden!」
やはり、その人だった。
精霊たちが望んだ。
ギルド“ゾディア”の魔法使い、ハーティアが高らかに叫び、『火炎球』が『雷撃』を阻むバリアを越えて氷竜に襲い掛かり――ピギャァアアァァァァァアァッと長い断末魔を上げて、氷竜が斃れた。
グレイは、もう声も出ない。アランがその場に座り込む。ハーヴェイも仰向けに倒れた。にゅぁぁぁぁ、とか変な声を上げて、マリアベルが頭を抱える。
「かっ……うっ……」
緊張が解けたのか、安心したのか、リーゼロッテがしゃがみ込んで泣き出す。「泣かない泣かない」とマリアベルがちょっと顔を上げて囁いた。
「勝ったんだから、あたしたち」
勝った。
そうだ。
炎竜戦のような大歓声はないけれど、でも、勝ったんだ。たった10人と1匹しか知らないけれど、グレイ達はやり遂げた。
「……勝った、んだから……」
マリアベルが、どこか無理をしている感じで微笑む。やったー! みたいないつもの無邪気さが見当たらない。どした? とグレイが尋ねる前に、竜を狩ったその人が言った
「アレン」
ハーティアが呼びかけると、漆黒の聖騎士の青年は少し笑ったみたいだった。
「おう」
「マリゴールド」
「……えぇ」
マリゴールドの声は、どことなく不本意そうだった。いや、不本意と言うより――どこか羨むような、憎むような、不思議な響きがあった。
「アルゼイド」
「うむ」
銃撃手の青年は、相変わらず表情が読めない。
「カロン」
「わぅ」
カロンの返事は、意外と可愛らしかった。巨大な狼は、ローズマリーの足元でいつもの通り控えている。狼の頭を大きく撫でて、それから、ハーティアは最後にその人の名前を呼んだ。
「……ローズマリー」
「はい」
氷雪の迷宮の中で、氷竜の生み出した氷柱よりも、更に煌めく真青な瞳でローズマリーはハーティアを見つめ返した。
白髪に、不思議な瞳の青年魔法使いは、幸せで仕方ない、みたいな顔だった。この世に、もう悔いは1つも無い様な。生きている人間が、浮かべてはいけない様な。そういう笑みだった。どうして、と問いたくなるような、清々しい笑みだった。
「僕の夢を笑わないでいてくれてありがとう。僕は竜を――この迷宮に住まう、最後の竜を、狩った。精霊達の願いを叶えた。本当に、ほんとうにしあわせだ」
いや、たった1つ。
たった1つの後悔を秘めた笑みで、ハーティアはローズマリーに手を伸ばす。ほんの少しだけ、戦乙女の白磁の頬に触れた。
「ローズマリー」
「はい」
「……愛していたよ」
「知っていましたよ?」
ローズマリーは平然と微笑み返す。ふは、とハーティアが気の抜けた様な声を漏らした。
「……知ってたんだ」
「知っていました」
「かっこう悪いなぁ、僕」
「かっこう悪いですね」
「あはは、」
ローズマリーが頷き返し、ハーティアは笑い――そうして、唐突に、糸が切れた人形のように、頽れた。倒れかけたハーティアを、ローズマリーが抱き留める。
「……本当に、かっこう悪いひと。あなたも、私も」
囁いて、ローズマリーはハーティアの肩に顔を埋めた。
2人は動かない。どころか、魔法使いにとって、大切な、片時も手放さない筈の魔法使いの杖が、ハーティアの手から離れた。
「……俺達は、ここまでだ」
身を切るような痛みのこもった声で、アレンが告げた。
どうして。
どうして?
グレイ達には分からない。いや、グレイには、分からない。だけど、マリアベルはチェシャ猫みたいな顔で微笑んだ。
「ハーティアの夢を笑わないでいてくれてありがとう。だからどうか、憐れまないでください」
「……そうだな」
アレンが長く息を吐く。白い息は凍って流れて行く。マリアベルはアレンを見上げて、黒い三角帽子の鍔を持ち上げた。
「……あたし達は行きます。ずるいけど。でも、行きます。あなた達“ゾディア”よりも先を行きます。迷宮を、踏破します」
「狡くは、ないだろう。立派にお前たちも、氷竜を斃したギルドだ」
「そう、ですねぇ……」
マリアベルが黒い三角帽子の鍔を握りしめる。アレンの言葉がただの優しさだってことは、“エスペランサ”の全員が分かっていた。きっと、“ゾディア”は“ゾディア”単独でもいつか氷竜を倒したことだろう。何度か挑み、氷竜の癖を、氷竜が扱う技を理解すれば“ゾディア”だけで氷竜を倒すことは難しくなかったはずだ。“エスペランサ”には望めない事だ。
お荷物では、なかった。でも、どうしたところで、グレイ達は、協力者でしかない。討伐者にはなり得ない。
でも、マリアベルは行くと言う。
アレン達は、ここまでだと言う。
「……行こう!」
マリアベルがグレイ達を振り返って笑う。その笑みが何だか――物凄く、ハーティアに似ていて。今やローズマリーの腕の中で微動だにしないハーティアにそっくりで。あまりにも清冽で。グレイは思わず目を伏せた。
「行かなくても」
そう言ってマリアベルの手を引いたのはマリゴールドだった。かつての魔法使い。恋人と双子の為に氷精霊を裏切り、徒人と成り果てた聖女。彼女は悲し気に、けれどどこかマリアベルを羨むように、囁いた。
「……貴女を愛している人は、たくさんいるのよ?」
「でも、あたしはトルフェナちゃんを、スルヴァちゃんを、ヘーレちゃんを――そして何より、誰より、ローゼリットを、愛しているんです。行かなくては。いいえ、あたしは、あたしの願いの為に、行きたいんです。迷宮を、踏破したいんです」
マリアベルは清々しく言い切る。
愛していると。
あいしていると。
だから、行くのだと。
「……行くか」
アランがまるで、愛の告白のように密やかに、同意した。
「うん!」
マリアベルはその場で弾みそうな勢いだ。
「……行こう」
ハーヴェイの中で、天秤は傾いて、動きを止めたらしかった。
「ありがとう、ハーヴェイ」
マリアベルは幸せな猫の顔のまんまだ。マリゴールドと繋いでいた手を離して、リーゼロッテの方に伸ばす。
「リゼちゃん!」
「マリアベル……」
マリアベルに呼ばれて、怯えたようにリーゼロッテが首を振る。
「何か、何か、他に……!」
言いかけて――リーゼロッテはマリアベルの瞳を見て、言葉を失った。強く目を瞑って、頷く。絞り出すような声で、言った。
「……行きましょう」
「うん、急ごうね!」
マリアベルはいつもの通りだ。迷宮を踏破すると謳う、傲慢で幸せな魔法使いのままだ。
「グレイ」
「あぁ」
呼ばれて、ごく自然にグレイは答えていた。
だって、マリアベルが行くのだ。
この魔法使いに、この傲慢で幸せで生意気で哀れな魔法使いに、たった1人、絶対に、絶対に味方をする人間がいても、いいと思うんだ。
「行こう」