5-30
寒い。眠い。怖い。痛い。
ロゼのせいだわ、とかリーゼロッテは思う。
何よりもこの想いは、ロゼのせいだわ。
リーゼロッテの身体は青白く輝いていた。僅か、だけれども見間違いとも言い難い明るさ。マリアベルの『氷精霊の守護』が間に合ったのだろう。そのマリアベルに、リーゼロッテは抱き締められていた。リーゼロッテを庇うみたいに。リーゼロッテと同じ後衛のくせに。ちっちゃな魔法使いのくせに。
はふ、とマリアベルが息を吐く。生きていた――ことに、ほっとする。黒いローブの背中に、霜が降りて白く染まっていた。
「マリアベル……」
「うん、頑張ろう!」
マリアベルは凛々しく言って、呪文の詠唱を開始する。
そんなマリアベルとリーゼロッテの前。
氷竜の息吹を正面から受けたグレイは動かない。でも、マリアベルは少しも心配していない。いくら聖騎士だからって。鎧に十重二十重に加護が掛けられているからと言って。ひどい、と思い掛けて、そうじゃない、と思い至る。
マリアベルは信頼しているのだ。
グレイを。
この上なく。
がり、と凍り付いた鎧を砕いてグレイが動き出す。振り返った顔は兜のせい下半分しか見えないけれど、きっとリーゼロッテ達を案じている事だろう。
「2人とも大丈夫か!?」
「大丈夫ですわ!」
詠唱中で他の事が話せないマリアベルの代わりに、リーゼロッテが答える。
あぁ、もう。
ロゼのせいだわ。
寒い。眠い。怖い。痛い。
だけど何より、胸の奥が熱い。ぎゅぅっと縮こまっている癖に、熱くてあつくて仕方ない。頬っぺたまで熱くなってくる。――何ですの、もう。
グレイはかっこいい。
ロゼのおばか。お寝坊さん。ロゼさえ無事なら。リーゼロッテがこのパーティに入ることさえなければ、こんな敗北確定みたいな恋なんてしなかったのに。
手の甲を確認する。『加護』はまだ切れていない。アランとハーヴェイは氷竜の側面に回って息吹を避けたようだ。回復は必要ない。『犠牲の代行』も――何とか無しで頑張ればいいのだ。
「我らが父よ、慈悲のひとかけらをお与えください」
マリアベルの『火炎球』の方が良いのかしら、とか思いながら、『癒しの手』の温かい光をグレイに向ける。マリアベルはアランに合わせて『雷撃』を使っている。氷竜の不思議なバリアは解けたらしい。流石3度目の竜戦――と言うべきか。ギルド“ゾディア”の方は、息吹を受けても全員無傷のようだった。一体どうやったのかしら。
氷竜はというと、また耳障りな声で高く鳴いて――そして、最も遠くからリーゼロッテが見ても分かるほどにはっきりと、ローズマリー達が刻んだ怪我が治り始めた。防御に、回復まで。何てこと。
それでもギルド“ゾディア”は少しも怯まない。「押し切るぞ!」と一同を鼓舞したのはアレンか。「ふははははー!」とか気が抜けそうになる笑い声を上げたのはハーティアのようだ。いいから詠唱なさいな、と他所のパーティのリーゼロッテが言いたくなってしまう。
「いいから詠唱なさいな!」
そう言ってくれたのは、マリゴールドだった。美しいお姉様。あぁ、そう。雷竜を斃して勲章をお渡ししたときから思っていました。お姉様とお呼びしたい。言ったら、困惑されてしまうかしら。
氷を梳いたような長い髪が、氷雪の迷宮の中で、月下の元で輝いていた。リーゼロッテと同じような僧服を着ている筈なのに、とてもそうは見えない。でも、ロゼに対して思うように、羨ましいとか悔しいとかそういう思いはまったく浮かんでこなかった。美しいお姉様。あの浮かれポンチっぽい魔法使いを叱ってくださいませ……!
「Goldenes Urteil wird gegeben! にゅぐー! ごめんねアラン!」
『雷撃』に、アランは『属性追撃』を上手く合わせられなかったらしい。
「気にすんな!」
『浮遊』で半ば重力を切り取られたアランは、雪に足跡も残さずに走る。ハーヴェイは、木や他のメンバーの陰に隠れながら、堅実に氷竜の鱗に瑕を増やしていく。
「Goldenes Urteil wird gegeben! まだまだ甘いね! マリアベル!」
「偉そうに言いますね!」
最前線で、軽やかに笑うのはローズマリーだ。素敵なお姉様。今も『属性追撃』で氷竜の首を1つ刎ねて――えぇぇぇぇぇぇっ!?
「マジかー……」
呆然とグレイが呟く。
見ていても、なお信じられない光景を見るのは2度目だ。1度目は、炎竜戦で炎竜の尾を切り落とした桜花さま。あぁ、緑の大樹には世界各国から素敵なお姉様が集まるのかしら。
「ピギャアアアアアアアアアアァァ!」
これには氷竜も堪らなかったらしい。報復のように、残りの2つの首が深く、深く息を吸い始める。息吹が来る。
「マリアベル!」
「にゅい!」
視界確保のため、グレイの前に出ていたマリアベルが戻って来る。まだ半分凍り付きながら、それでもグレイが盾を構えた。リーゼロッテとマリアベルの前で。その背中が、あぁもう! 頼もしくて! 格好良くて! もうっ!
リーゼロッテの隣で、グレイの陰に隠れながら、それでも低い声で詠唱を続けるマリアベルは可愛くて。あぁ、世界で一番グレイにお似合いで。あぁ、もう。ロゼのせいだわ。
「我らが父よ、どうかこの子羊をお持ちください!」
ばかなことを考えながらも、祝詞は唱えていた。『犠牲の代行』をグレイに掛ける。氷竜の息吹から完全に身を守ることは無理だろう。けれど、グレイは聖騎士だ。我らが父からの加護は篤いはず。
視界が真っ白に染まる。超低温で目が痛む。零れた涙が凍り付いた。睫毛がくっついてしまって、慌てて手のひらで温める。見えない。怖い。見ていても怖いけれど、見えない方がもっと怖い。
「リーゼロッテ!」
グレイに呼ばれて、足が浮く。何? 抱えられている? 誰に? グレイしかいない。当たり前だ。アランもハーヴェイも遠くで頑張っている。2人が頑張っているのに、それどころじゃなく頬が熱くなる。はわわ、とか変な声が漏れた。だけど、にゅわぁぁぁぁっ!? っとマリアベルが悲鳴を上げていて、リーゼロッテの声は誰にも聞かれずに済んだ。何?
何とか目を開けられるようになった。辺りは白い。地吹雪? ブワッサァァツ、とシーツをはためかせた音を100倍くらい大きくしたような音だけが聞こえる。氷竜が羽ばたいているのか。羽ばたいて? それで?
「いやぁぁぁぁぁぁっ!?」
上を見てしまって、リーゼロッテは思わずグレイの首元にしがみついた。氷竜が、真っ青で巨大すぎる竜が、羽ばたいて、急降下してくるところだった。氷竜は後ろ右肢を突き出して、リーゼロッテ達を掴もうとして来る。いや、リーゼロッテ達、ではない。前方に放り投げられる。
ごろごろ転がりながら、それでも見る。ああ、グレイが。グレイだけが捕まった。氷竜が肢でグレイを地面に押さえつけて、首を伸ばしてかぶりつこうとしている。
「Goldenes Urteil wird gegeben!」
マリアベルが氷竜の頭を目がけて『雷撃』を放つ。アランが氷竜の目を抉った。あぁ、グレイを、助けて!
「ぐっ……このっ……!」
グレイは暴れている。生きている。良かった。だけど、鎧から血が染み出している。雪が赤く染まる。リーゼロッテは夢中で『祝福』の祝詞を唱える。嫌。いや!
リーゼロッテは僧侶だ。これしか出来ない。リーゼロッテの杖術なんて、氷竜相手には役に立たないだろう。だから、グレイを救い出せない。でも、治療は出来る。それしか出来ないのが嫌だ。嫌でも、リーゼロッテはリーゼロッテでしかない。リーゼロッテはリーゼロッテにしかなれない。そうしたら、出来ることをやる。全部やる。役目を果たす。
銃声が響いた。ハーヴェイ! 氷竜の手元を狙ったらしい。グレイを押さえつけていた太い爪が、1本折れて飛んだ。氷竜はもう割に合わないと思ったのか、グレイを離してまた中空に戻る。
「我らが父よ、その貴き御業で愛し子をお救いください!」
即座にリーゼロッテはグレイに駆け寄って『祝福』を使う。リーゼロッテでは1日に数回しか使えない貴重な御業だ。だからどうしたっていうの? グレイの為なら。マリアベルの為なら、アランの為なら、ハーヴェイの為なら、1日に何回だって使ってみせる!
「助かった!」
グレイが跳ね起きる。良かった。好きです。言いたいことは全部飲み込む。リーゼロッテは僧侶だから。
「怪我は必ず私が直しますわ……!だから、だから……!」
マリアベルは詠唱を再開している。グレイは竜戦の最中の貴重な、貴重過ぎる時間を、でもリーゼロッテの為に使ってくれた。グレイは振り返って、頷いた。当然のことのように。
「うん、信じてる」