5-29
ピギャアァァ、ギャァァァアア、という声は遠くなったり、近くなったりした。その度に、ハーヴェイは胃が縮む思いを味わったり、遠いから大丈夫、と自分に言い聞かせたり、まぁ、大変だ。
「迷ってる、のかな?」
11階に続く階段までの道を引き返しながら、ハーヴェイはマリアベルに尋ねる。不可思議な魔法使いは、微笑んだ。僅かに唇が震えていたけど、とにかく、笑った。
「かも知れない。だとしたら、ちょっと可愛いねぇ。降りられるような広い場所が無くて、困ってるのかも」
「ちょっとうっかりさんっぽいよね」
「にゅふふっ、そうねぇ」
2人で顔を引きつらせながら笑うと、抗議のように、凄く近くからピギャァッアァアァァァァ! みたいな声がして、もうほんと勘弁……みたいな気分になる。逃げ、はしない程度にはハーヴェイも強くなった。駆け足、よりもちょっと遅い、くらいの速度で進む。
「……ハーヴェイは、逃げたことなんて無いよ」
不意に、マリアベルが後ろで囁く。振り返りかけて、「あぶねーな!」とアランに怒られる。はい、前見て歩きます。
「ない、かなぁ?」
っていうか、声に出して言ったっけ……? 分からない。でも、マリアベルだ。可愛いし、不思議だし、そんなこともあるだろう。
「無いよ!」
マリアベルが、自信満々に言い切る。きっと、緑の瞳をきらきらさせて、笑っている事だろう。
そしたら。うーん。そうしたら。しがない盗賊でも、何者にもなれなくても、それでも、マリアベルの期待に応えられる何かになりたい。
と、思ったり、していました……。
ピギャァアァァァアアァァァ! という特大の鳴き声が響き渡った。空にいる。翼があるけど、鳥じゃない。そんな可愛い生き物じゃない。急降下している。バッサ、というか、ブワッサァァツ、みたいな音がした。羽ばたく音まで聞こえちゃう距離に、いるのか。
雪の積もった木々の葉や枝を蹴散らしながら、それは急降下する。
着地した。地面が揺れる。近くの木からドサドサと雪が落ちて来た。その音に紛れて、いや、紛れきれない確かさで、マリアベルが何かを言っている。何かって言うか、呪文だ。あぁ、前もこんなことあったよね、とかハーヴェイはこんな時なのに懐かしく思う。マリアベル。可愛いマリアベル。不思議なマリアベル。何よりも――勇敢過ぎるマリアベル!!
色は、雪原の中でなお青い。
全身が真っ青な鱗に覆われた、巨大な生き物が、そこにいた。
炎竜が獰猛、ならば、こいつは冷酷だった。
あああ、だから止めてよ。マリアベル。
泣き付きたいけど、でも、マリアベルの期待に応えられる何かになりたいのも嘘じゃない。
いやだけどヤバい。あれはヤバい。首、3つもある。6つの瞳が、マリアベルを見据えていた。それでも、勇敢な、勇敢過ぎる魔法使いは杖を掲げる。杖を持っていない方の手の中には、雷竜の鱗が握られていた。氷竜の足元には、逃げ纏うパーティが1つ。あぁ、今にも氷竜の前肢に掴まれてしまいそうだ。
「Goldenes Urteil wird gegeben!」
明暗が逆転するような光量を伴って、『雷撃』が氷竜の身体を直撃した。
「“ゾディア”!?」
「違いますわ! “エスペランサ”です!」
期待に目を輝かせた相手には申し訳ないけど、リーゼロッテが事実を伝える。
「今のうちに逃げろ!」
アランが彼等を――っていうか、彼女達を手招きして叫んだ。異論は、全然、まったく、ないことだろう。女性ばっかりのパーティだ。髪に、誰も彼も蝶を象った髪飾りを付けている。ギルド“パピヨン”だろう。
「ありがとう!」
「ごめんなさい!」
口々に言って、振り返らずに逃げていく“パピヨン”と入れ替わる様に、グレイが前に出る。来る。来ちゃう? いや、息吹では無さそう。命拾いした。した、かな?
「ピギャァアァァァアアァァァ!」
何とも耳障りというか、人の神経を逆撫でるというか、不安を駆り立てるというか――そういう、鳴き声だ。
息吹ではなかった。でも、鳴き声に呼応して凍れる空気が渦巻き、氷竜の周りに氷の槍が生まれた。いや、槍、何てもんじゃない。ハーティアが使っていた『氷槍』みたいな。つまり、ドリル的な太さの氷の錐が、何本も何本も中空に浮かんでいる。
来る。分かっていても壮絶な光景だった。美しくもあった。死を覚悟もした。
マリアベルとリーゼロッテの前には、グレイがどっしりと構えている。そしたらまぁ、ハーヴェイとアランは、何とか生き残れば大丈夫だろう。それが出来るかが、一番の問題だけど!
目を瞑ってしまいそうになる。もう、見ないで何とか無事に終わって欲しい。欲しい、と思うだけで、そんな危ないことはしないけど。氷の錐は空を切る音を響かせながらすっ飛んでくる。1本、グレイの構えた盾に直撃した。砕ける氷の錐の、キラキラした欠片まで見えた。そこまで見える。見えるんだから、躱せない筈がない!
んだけど、左肩を削られた。血の跡を雪の上に残しながら転がる。利き手じゃない。銃は無事だ。そしたら、まぁ何とか儲けたものかな。
アランは無事だったらしい。「マリアベルゥゥゥッ!」とか言いながら駆けて行く。グレイの後ろで、マリアベルとリーゼロッテは悲鳴も上げずに気丈に呪文を唱え切った。
「我らが父よ、天かける翼を愛し子にお与えください!」
聞き慣れないリーゼロッテの祝詞は『浮遊』だろう。炎竜戦の時、ローズマリーさんに対して「重力、仕事しろ。」とか思ったのは、あながち間違いじゃなかった。僧侶の魔法で、彼女は本当に重力を少し切り取られていたんだ。
「Goldenes Urteil wird gegeben!」
マリアベルが完璧なタイミングで魔法を発動させる。ローズマリーさんみたいに華麗に、は程遠いにせよ、氷竜の後肢を踏み台にして跳んだアランの剣先に、『雷撃』が弾けた。雷属性の『属性追撃』。マリアベルとアランの一番得意なやつだ。アランの剣が氷竜の鱗を削る。
っていうか、『火炎球』じゃないんだね、とかハーヴェイは余計な事を考えて傷の痛みを意識の外に追いやる。
氷竜、だ。
出てしまった。
出会ってしまった。
美しくて、恐ろしく強大で、でもおぞましくもある。一言で、はーい、こういう生き物でーす、とは言い難い。3つ首の下には、冒険者を掴み殺そうとしてくるような前肢がある。意外と人間のものに似た、華奢にも見える前肢だった。前脚は地面についていない。後肢だけで立っている。胴体は、巨体の割にほっそりしている印象だ。
大きな翼の色は、深い青。炎竜のように、長い尾を振り回して来る様子はない。
6つある金色の眼が、辺りを見回していた。氷の錐の直撃を食らったグレイは動けないみたいだ。アランを前肢で追い払って――一体、何を警戒しているのか。迷宮の生き物の王者たる氷竜が?
「今のうちに、私達も……!」
“パピヨン”のように逃げましょう、とリーゼロッテは言いたかったのかも知れない。確かに、グレイはさっきの錐を防いだので手一杯だ。盾と腕が凍り付いている。ギルド“エスペランサ”単独で、竜に挑むのはまだ荷が重い。
の。
だけど。
「と、ここでぇぇぇぇぇぇぇ! 僕ぅぅぅぅ!」
「いいから、詠唱ー!」
頭悪そうな、いや失礼、勇ましい声と共に、駆けて来る冒険者が5人。と、1匹。
「僕が来たよー! “エスペランサ”!」
瞳を3色に輝かせて叫んだ、黒い三角帽子に黒いローブ姿のその人は、まごうことなくギルド“ゾディア”の魔法使い、ハーティアだった。
どっから湧いて出たの、とか思わなかったと言ったら嘘になる。でも、来てもおかしくないとは思っていた。だってハーティアだ。魔法使いだ。マリアベルの言ったように、『そうしなきゃ、生きて行けないの』だ。彼は、彼らは竜を狩るだろう。精霊が望む通りに。たとえ力及ばず道半ばで倒れたとしても、前のめりに倒れるだろう。
聖騎士のアレンが、申し訳なさそうに言った。
「すまんな、混ぜてもらうぞ!」
「どうぞどうぞどうぞ!」
言い過ぎて舌がもつれた。リーゼロッテは呆れたようにハーヴェイの傍にきて「……我らが父よ、慈悲のひとかけらをお与えください」と何か言いたそうな顔で『癒しの手』を使ってくれた。
「リーゼロッテ、耳、塞いで」
リーゼロッテに何か言われる前に、ハーヴェイは言う。撃った。銃声が重なる。“ゾディア”の銃撃手のアルゼイドだろう。砕けた氷竜の鱗が、月夜に輝く。
「Goldenes Urteil wird gegeben!」
ようやく詠唱に掛かったハーティアとローズマリーも、マリアベルとアランみたいに『雷撃』と『属性追撃』を決める。
だけど、何だろ……?
弾かれた?
2人とも、おかしいなって顔だ。
「効いて、いない……?」
小さいのだけれど、不思議と戦場に響き渡る声で僧侶のマリゴールドが呟く。
そんな感じ、だった。
「ぬぉぁー! でも、やる!」
ハーティアが呻いて、魔法使いの杖を掲げた。でも、やる。そりゃ、そうだ。氷竜が何か、僧侶の魔法の『聖者の守り』みたいな、防御力を上げる魔法を使ったっておかしくない。まったく変じゃない。そして、ハーヴェイ達には、その魔法を解除する術はない。そうしたら、それでも、やるなら、やり切るしかないんだ。
「……馬鹿な人」
口ではそう言いながらも、マリゴールドも覚悟を決めたらしかった。『犠牲の代行』か『聖者の守り』か、あるいは、ハーヴェイ達の知らない魔法か。祝詞を唱え始める。
「Ärger von roten wird gefunden! あっ、効いた!」
マリアベルが快哉を上げる。『火炎球』は問題なく効いたらしい。それを聞いたハーティアは即座に呪文を切り替える。
狼のカロンが轟咆を上げる。冷酷極まりない、強大極まりない氷竜が、僅かに引いた。すっごい。
「息吹が来るぞ!」
聖騎士のアレンが叫んで、辺りは白に包まれた。