5-28
黄金と紅の迷宮を探索しての帰り道。
なるほど、仙人掌には何とか対抗できたが、鰐からは逃げ回り、翼竜なんてもうどうすれば良いのか呆然としながら遠くで見送り、女神さまは容赦なく落とし穴の如き水溜まりを幾つも幾つも用意して下さって、うっかり水溜まりに嵌まってしまったと思ったら毒の鱗粉をまき散らす蝶が襲い掛かってきたりして――ぐったりしながら、階段を降りる。
つい先日まであんなに大変だ、大変だと思っていたのに、16階で桃色の花びらがはらはら、はらはらと降って来るのを見るとほっとした。16階でも油断すれば簡単に命を落としてしまうだろうけれど、17階はなるほど、酷い場所だった。酷い、というのは好きで登っておきながらお門違いか。とにかく、凄まじく大変な場所だった。
「あああ、降りて来たねぇ……」
ほっとしたようにハーヴェイが、持っていた木の枝を手放した。からん、と水溜まりを探す杖代わりになってくれた木の枝が地面を転がる。
「にゅぁぁぁぁ……」
「……」
マリアベルが相変わらずの変な声を上げて、リーゼロッテはもう声も出ないといった風情で、その場に座り込む。
「ちょっと休憩を希望しますです。にゅい……」
太い木の幹に身体を預けて、マリアベルが目を閉じる。何かと遭遇する度に、惜しみなく魔法を使っていた。それはそうだ。17階は出し惜しみして切り抜けられるような場所では無かった。昔は、それこそ大昔のような気がするけれど、1階を初めて探索したときには、1日に2回か3回しか魔法を使えなかったのに。あぁ、遠くへ来たものだ。
リーゼロッテも座ったまま頭を抱えてぐったりしている。それでも、グレイが手の甲を確認したら、星とそれを二枝で護るトネリコの意匠が浮かび上がっていた。『加護』は切らしていないみたいだ。
グレイとアランは何となく顔を見合わせて、ハーヴェイが「2人も座れば?」とか言って来るからありがたく休憩させてもらう。アランが籠手を撫でると、金属の粉が落ちた。
「だいぶ籠手が削れたな」
「なー。俺の盾は治ってくれるけど、籠手はな」
「金属削る仙人掌の針ってな。いや、実際拾って帰ってきたわけだが」
「分かる分かる。実際に持ってても、実在を疑うよな」
女神さまたちがあらゆる富の欠片を収めた迷宮とは言え、平地に住む動植物より、迷宮の生き物は遥かに優れるとは言え、ちょっとやり過ぎではなかろうか。
だけどそのうち翼竜にも挑んでみようかとか、ギルド“ゾディア”はやっぱりあの翼竜も狩って回ってるんだろうかとか、翼竜より先に、帰りに余裕があったら12階の『紫鱗竜』と戦ってみようかとか、氷竜どこに出るんだろうかとか――まぁ、マリアベル達が瞑想中なので、2人の邪魔にならない程度の声量で男3人で話し合う。
そして、マリアベルがいつものように「行こう」と言い出す前に、『跳び兎』に見つかってしまって戦いながら移動した。
強くなった――自覚は、情けないことにグレイは相変わらず持てないけれど、1つ上の階層に行って、降りて来ると少しは成長出来たような気がする。女神さまが、迷宮に階段を作ってくださって良かった。
何ていうか、ここまで来るのは途方もない様な日々だった。
見たことないものばかり見て、知らない場所を歩いて、歩いて。恐ろしくて、楽しくもあった。
きっとこの迷宮は、20階で終わる。
マリアベルがそう言った。
迷宮を踏破すると謳う、それだけを精霊に望まれ、自分自身でも望み、歩き続ける魔法使いがそう言った。
ならば真実だろう。
根拠もなくグレイはそう思う。
20階に、あの“ゾディア”より、“桜花隊”より早く踏み入れることが出来るだろうか。やらなくては。教会で1人眠り続けるローゼリットの為に。誰よりも迷宮踏破を望むマリアベルの為に。そうしてそれを望むグレイ自身の為に。
霧掛かった花散る迷宮を通り抜け、氷雪の迷宮に踏み入れる。
ちょうど、時刻は夜半。
ピギャャァアァァァァァ、みたいな高い声を、聞いた。聞いた事の無い声を、聞いた。
「……今の、声は?」
リーゼロッテが不安そうに短杖を握り締めた。
「いやー、今日まで、聞いたことない、声、だったね……」
ハーヴェイが辺りを油断なく見回しながら続ける。
「……だけど、遠いよ。この階には、いるだろうけど」
ふっ、と。いや、にゅふっ、とマリアベルが笑った。
「来たねぇ。ヘーレちゃんの、可愛い可愛い子だ」
え、やっぱりそうなの。そんな感じ? グレイには何とも言い難い。アランが瞬きをしながら、声が聞こえた方向を見た。
ピギャァアァァァアアァァァ……。と、また聞こえた。声を潜めて、アランが尋ねる。
「鳴き声、だよな」
「きっと、ねぇ」
マリアベルは特段緊張しているようには見えない。ほにゃっとしている。アランは、こいつはな、みたいな顔をしてからマリアベルの黒い三角帽子の上に手を乗せた。黒い三角帽子を潰すみたいにして、更に尋ねる。
「……ハーティアは、もう向かったと思うか?」
「分からない……だけど、きっとハーティアは行くよ。この階にやって来たら」
ほんの少しだけ寂しそうに、だけどそれ以上に誇らしげに、マリアベルは胸を張る。
「そうしなきゃ、生きて行けないの」
マリアベルの緑の瞳が輝いているように見えた。アランは返事をしようとして、とっさに言葉が出て来なかったみたいだった。白い吐息だけが、漏れる。その時だった。
一瞬、月明かりが遮られた。
影だ。
何かが頭上を通り過ぎて行った。その影だろう。風切り音のようなものも聞こえた。
グレイ達は一斉に頭上を仰いだ。5人は、どうと言うことも無い道にいる。地面は雪に覆われていて、月明かりで青白く輝くようだ。木々は重く雪を積もらせていて、やはり白い。空、何故か階段を上がれば『上の階』があるというのに、仰ぎ見ることが出来る空には、雲一つない。ぽっかりと青白い月が浮かび、星々が煌めいている。
ひゃっ、とリーゼロッテが首を竦めた。
「……な、何かが、今、飛んでいきませんでしたこと……?」
「にゅー、ん……」
地図を取り出して、マリアベルは考え込んでいる。10階。グレイ達が今居る階層。氷竜が降り立つことの出来るような広い場所はあるか? ――ある。マリアベルはその場所を指差した。
「まさか、11階への階段が塞がれちゃう……?」
かつて雷竜は、14階と15階を繋ぐ階段の前に陣取っていたという。10階には、氷の魔人がいた。氷竜は氷の魔人に取って代わるつもりだろうか。
グレイ達は、まだいい。もういい。ここにいる。10階にいる。だけど、11階以上にいる冒険者は?
氷の魔人を破って11階以降に踏み込んでいる冒険者は少ない。少ないとはいえ、“シェヘラザード”が、“パピヨン”が、“ディオスクーロイ”が、“ガルム”が、“夢追人”が、“紅蓮隊”が、そして“桜花隊”と“ゾディア”が11階以降の探索を進めている筈だ。
彼等はもう、氷竜を倒さない限り、迷宮から出られない?
「……確認、してから帰るか?」
必要ならば、指令を発行して貰わなくてはいけないかも知れない。ここは10階だ。先日の炎竜騒ぎで『火蜥蜴』を倒したことで自信をつけ、氷の魔人に挑まんとしているギルドも少なくはない。
グレイが誰にともなく言うと、意外な事にリーゼロッテが最初に頷いた。
「場所によっては、指令を発行しなくては」
グレイが思いつくようなことは、当然、リーゼロッテも思い至っていたらしい。月明かりの下で普段よりも更に白い顔をしながら、それでも勇敢な姫君は短杖を掲げた。
「参りましょう」