5-24
誰かが泣いていた。そういう夢を見た。
きっとロゼだわ、とリーゼロッテは思う。きっとロゼ。泣き虫な、私の妹。綺麗で、私とちっとも似ていない、私の双子。
きっとロゼだわ。きっと、またお兄様やお姉様に苛められたんだわ。だからリーゼロッテ以外誰もいない部屋の隅っこで、ひとりで泣いているのだわ。
我らが父は、ひどい。
と、思う。
リーゼロッテは敬虔な信徒ではなかった。
だって、そんな事をいつも考えていた。我らが父は、ひどい。私に優しくない。一体どうして、このような試練を私に与えたのです? リーゼロッテは何度も祈った。何度も問うた。でも、答えは未だに返って来ないし、答えは未だに見つからない。
それでもリーゼロッテは法術を使えた。
何てこと。リーゼロッテはこんなにも、我らが父を恨んでいるのに。それなのに、法術が、奇跡の御業が使えるだなんて。何てこと。何ていい加減なの。何てひどいの。あぁ、そう。何て酷い。この世界は何て酷いことばっかりなの!
あるいは、だからこそ、ローゼリットよりも法術が苦手だったのかもしれない。リーゼロッテは真面目な、良い僧侶だった。でも、ローゼリットみたいに『とても良い』僧侶では、なかった。今だって、たくさんお金を教会に納めて、幾つもの法術を習ったけれど、『とても良い』僧侶ではないと、思う。
嫌だな、と思うけれど、どうにもならない。
ならないのだ。
リーゼロッテには出来ない。
何にも、出来ない。
だってローゼリットに比べたら不格好だから。
だってローゼリットに比べたら貧相だから。
だから――
「……んー」
それ以上は、考える事だって忌まわしかったから、お昼寝中だったリーゼロッテは寝ぼけた声を上げた。お布団は、おひさまの良い匂いがした。お部屋が広くなくても、豪華な装飾が為されていなくても、リーゼロッテはちっとも構わない。お布団が、良い匂いがする。これ以上の幸福があるものか。
猫の散歩道亭。
ロゼが好きそうな名前だ。きっと、ロゼがこの宿を選んだに違いない。
「んむぅ……」
目元を擦りながら起き上がると、こんこんっ、と扉が叩かれた。誰かしら。
ではない。きっとマリアベルだ。マーリンさまの所から、帰って来たのね。
リーゼロッテが部屋の内側から鍵を掛けていたから、開けてやる。予想通り、黒い三角帽子が目に入る。
「お帰りなさい」
「ただいまぁ」
ほにゃりと笑って、マリアベルが部屋に入って来た。ふわふわの金髪が、黒いローブの上で獣のしっぽみたいに揺れている。チェシャ猫みたいな、賢くて、すこぅし風変わりな女の子。
魔法使いというものを、リーゼロッテはそう多く知っている訳ではないけれど、マリアベルは不思議だ。リーゼロッテの知っている魔法使いというものは、何と言うか、もっと貪欲で、冷酷であるような気がする。だけどマリアベルは、何だかいつでもほにゃっとしている。ほにゃっと、しているのだけれど……。
「ま、マリアベル……」
あわわ、とか、リーゼロッテの口から思わず変な声が漏れた。
「にゅぅん? どうしたの?」
「どうも、こうも!」
大変だ!
マリアベルの目は真っ赤に充血していた。むにむにしたほっぺたには、涙の筋が幾筋も走っている。
何てこと!
この1年間、どんな怪我をしたって、どんなに大変な目に遭ったって、決して、けっして、涙を零さなかったこの子が!
「だ、誰かに苛められたの? どこかのギルドに嫌がらせをされた? それともどこか怪我を?」
リーゼロッテはぱたぱたとマリアベルの周りを回って、外傷が無いかを確認する。真っ黒なローブには変わった所が無いけれど、何故だか、良く見たら黒い三角帽子がべっこり凹んでいた。どうしたのかしら。
マリアベルはリーゼロッテの気も知らず、のんびりと答える。
「何でも、ないよぉ?」
「何でもないはずが、無いでしょう!」
リーゼロッテは何にも考えずに慌ててハンカチを取り出して、マリアベルの頬に当てる。くすぐったそうに、マリアベルが笑った。もう。何なのかしら。こんなに泣いておきながら、何でもないだなんて!
「こんなに、泣いた、跡が……」
「にゅにゅっ?」
マリアベルが不思議そうな声を上げた。
そうだろう。
だって、目の前が一瞬で歪んだ。何にも、見えなくなる。
いったい、何?
どうしたの?
「リゼちゃん? どうしたの? 泣いたりして」
マリアベルに言われて、ようやく理解する。
――リーゼロッテは美しくないから、だから、誰にも優しく出来ない。
だって、出来ないのだ。等しく子らを愛されたはずの我らが父でさえ、リーゼロッテに優しくなかった。こんなにも厳しい試練を与えられた。実のお父様も、ローゼリットしか可愛がらなかった。お母様は、リーゼロッテにもローゼリットにも等しく厳しかった。半分血の繋がったお兄様やお姉様も、リーゼロッテ達に意地悪ばかりした。
誰も、誰も、美しくないリーゼロッテに優しくなかったのだ。
だから、リーゼロッテは誰にも優しく出来なかった。
お姉さんなのに。
ローゼリットのたった1人の、本物のお姉さんなのに。
リーゼロッテは、ローゼリットに優しく出来なかった。
リーゼロッテは誰にも、優しく出来ないと思っていた。
「にゅにゅ、どっか痛い? アラン、呼んでくる?」
マリアベルが気遣わしげに言って来る。マリアベルは。この生意気で小さな魔法使いは。迷宮を踏破すると謳う魔法使いは。この子は。この子だけは。
「いいえ、いいえ……! 何でもありませんわ」
「何でもないはず、無いよ!」
困った様にマリアベルが言って、2人で顔を見合わせる。どちらからともなく、噴き出した。同じようなことを。お互いに、まぁ!
いつの間にかマリアベルもハンカチを取り出して、リーゼロッテの顔に当てていた。ハリソン商店の長女らしい、上等な絹の、縁に繊細な刺繍が施されたハンカチだった。
マリアベルは観念にした様に口を開く。
「あたしはねぇ、グレイにねぇ、んー……ずっと、この1年間ずっと、あたしが、あたしだけが悪いと思ってたのに、みんなが悪かったんだよって、そういう話をしたの。だから、怒ったの。だって、あたしだけじゃなくて、グレイも悪かったんだもん。グレイを怒ったら、泣いちゃったの。だから、痛かったり、悲しかったりはしないんだよ」
魔法使いの言う事は良く分からない。でもきっと、リーゼロッテが言う事だって、マリアベルには理解できないだろう。でも、言うのだ。
「私は……私は、本当はずっと、ロゼにこうしてあげたかったの」
「ローゼリットに?」
「そう」
ロゼに。本当はずっとこうしてあげたかった。だってリーゼロッテはお姉さんだったのだ。いじけていないで、僻んでいないで。本当は、こういうお姉さんになりたかったのだ。
リーゼロッテが頷くと、マリアベルはほんの少し首を傾げて、戻した。
不可思議で賢い、小さな魔法使いは、囁く。
「……リゼちゃんは、本当はローゼリットに優しくしたかったんだね」
笑って納まったと思った涙が、また溢れて来た。だけど決して、いやな気分ではなかった。
「優しい人になりたかったの。強い人になりたかったの。正しい人に、なりたかったの。こんなに惨めな、みっともない私ではなくて」
にゅにゅっ、とマリアベルが唸った。つやつやした唇を尖らせる。
「そんなこと、ないよ。リゼちゃんは惨めじゃないし、みっともなくも、ないよ」
「あるの」
「ないよ! だってリゼちゃんは“エスペランサ”だよ! 炎竜だってやっつけちゃう、のを手伝った、ギルドの仲間だよ!」
炎竜だってやっつけちゃう。
のを手伝ったギルドの仲間。
「……私、私も“エスペランサ”になれたかしら? ロゼのおまけではなく?」
マリアベルは2回まばたきをした。驚いたらしい。
「リゼちゃんは“エスペランサ”だよ。ずっと前から、そうだよ。“エスペランサ”は、あたし達6人のギルドだよ!」
「そう……?」
そうだとしたら、良いのだけれど。
マリアベルは、普段は片時も離さない、大事な大事な魔法使いの杖を放り出してリーゼロッテを抱き締めてきた。リーゼロッテの耳元で、言う。
「リゼちゃん、迷宮、踏破しよう」
言われなくとも。リーゼロッテもマリアベルを抱き締め返して、言う。
「えぇ、えぇ。しますわ。ローゼリットの為に。陛下の為に」
「そうじゃなくて。リゼちゃんの為に、迷宮を踏破しよう。本当の優しい人になろう。きっと、今のリゼちゃんなら出来るよ。ローゼリットに、優しく出来るよ。そしたら、ねぇ、そのためにも、ローゼリットを起こしてあげよう?」
「私に、出来るかしら……?」
優しい人に、なれるかしら。
私は少し、強くなれたかしら?
正しい事を、出来るかしら。
マリアベルはちょっと身体を放して、満面の笑みを浮かべて見せた。幸福で満足げな、猫みたいな顔で言う。
「出来るよ! 絶対!」
輝く様なマリアベルの笑顔を見て、あぁ、強くなりたいな、と思う。
迷宮も、踏破出来るくらい。
リーゼロッテは多分初めて、切実に、思う。
迷宮を、踏破したい。
誰かの為では無く、リーゼロッテの自身の為に。
女神様の、御許まで。
「……一緒に、来てくださる?」
「もちろんだよ! 一緒に頑張ろうね!」
約束、とマリアベルが細い指を絡めて来る。
優しい人になろう。強い人になろう。正しい人に、なろう。
我らが父よ。
どうか見守っていてくださいませ。
そうすれば、私は少しだけ、私を許せる気がするのです。