5-22
「どこも、大変ねぇ」
教会前の広場を抜けて、猫の散歩道亭に向かう。1日の最後の光に長い金髪を煌めかせながら、マリアベルは溜息みたいな声で言った。グレイも頷く。
「だな」
「でも、明日からは、迷宮、行こうねぇ」
「だな」
「にゅふふ!」
グレイが、同じ調子で頷くと、マリアベルはやっぱり普段の調子で笑う。
ミーミルの街の何処からでも見える、巨大な緑の大樹を2人で見上げながら並んで歩く。3柱の運命の女神さまが住まうと謳われる大樹は、今日も優しくミーミルの街を擁いている。
「炎竜を倒したことで、見つからなかった19階への階段が見つかる様になるのかなぁ」
「アルゼイドさんは、そんな口振りだったよな」
18階の探索を進めるギルド“ゾディア”や“桜花隊”のギルドマスター達は、共に19階への階段が見つからないと話していた。そんな事を話していたところに、炎竜が降り立ったのだ。
「女神さまは、何階にいらっしゃるんだろう。あたしに残された猶予はどれくらいだろう」
「達、だろ」
マリアベルの呟きにグレイが突っ込むと、にゅーふふ、と笑って、マリアベルは答えなかった。
何だよ。
そんな言い方。
俺達5人で、迷宮を踏破しようと。誓ったばかりじゃないか。
「俺達に残された、猶予だろ」
グレイ達があの“ゾディア”や“桜花隊”に追いつくまでの猶予は、どれくらいあるだろう。あの人たちが女神さまの御許へ辿り着く前に、グレイ達は、あの人たちに追い付いて、追い越さなきゃいけない。
マリアベルはチェシャ猫みたいに笑った。
「にゅーふふ」
「にゅーふふ、じゃねぇ」
「にゅーふふふ!」
「増やすな!」
「にゅーふふふふふ!」
2人でじゃれていると、猫の散歩道亭に着いた。カラン、と扉につけられた木製のベルを鳴らして宿に入る。受付にいたサリーに聞くと、アランもリーゼロッテも、もう帰って来ているらしい。2人は、リーゼロッテが新しく覚えた『浮遊』に慣れるために、街の外へ訓練に行っていたのだ。
サリーは、グレイとマリアベルを眺めてしみじみと言った。
「それにしても、あんた達が『炎竜殺し』のギルド“エスペランサ”ねぇ。つい昨日、そこのドアを開けてこの宿に来た気がするのに」
「そうですか?」
流石に2年以上ミーミルで過ごして、グレイはすっかり猫の散歩道亭が自宅みたいな気分になって来ていた。
でもサリーから――大人からしたら、時間の流れというものは、そんなものなんだろうか。グレイの両親も、新年を迎える度に、1年が飛ぶように過ぎていくと零していた。たった2年なんて、昨日のことみたいなもんだろうか。
サリーは親戚の子供を慈しむような、2年前とちっとも変らない調子で言った。
「そうよ。いかにもミーミルに来たばっかりの新米冒険者って顔で、1週間くらい宿を借りたいって言って。あぁそうだ。それで、マリアベルはお風呂の時間を気にしてて。こんな女の子、おっそろしい迷宮になんて、すぐ音を上げて故郷に帰っちまうかと思ったら、とんでもない。今じゃ、ミーミルの3大ギルドのギルドメンバーだもの。出世したもんだね」
出世。
確かに、した。
王女様から勲章を授与されるようになるなんて、2年前のグレイには想像もつかないことだろう。噛み付きネズミに大騒ぎをしていた冒険者からは、ずいぶん出世したものだ。
マリアベルが、ちょいっ、と黒い三角帽子の鍔を持ち上げて微笑む。
「にゅふふ、まだまだ、出世しますよぅ」
「あはは、そうかいそうかい。あんた達なら、本当に、踏破だってしてしまいそうだこと」
「踏破しちゃうつもりなんです」
サリーには感づかれない程度に、でも、わずかに頑なな調子でマリアベルは繰り返した。踏破、しちゃうつもりなんですよ。グレイも内心で呟く。誰よりも早く、しなくちゃいけないんです。きっと、サリーだって知っている事情の通りに。ギルド“エスペランサ”は。
サリーは笑って、笑って、そしてほんの少し、顔を強張らせた。
「……でも、本当にあんた達や、ギルド“ゾディア”さんが迷宮を踏破してしまったら、このミーミルはどうなるんだろうね」
女神たちが、あらゆる富の欠片を収めたという迷宮。
その謎を、全てを明かしてしまう冒険者が現れたら。
ミーミルは?
マリアベルはさらりと答えた。
「例えそんな冒険者が現れても、ミーミルの豊かさも、冒険者も、変わらないと思いますよ。今までは、緑の大樹から持ち出された物はミーミル近くや王都で消費されていましたけど、今は他国への流通経路も整いつつありますし。まだまだ、迷宮の、珍しくて、美しくて、丈夫なものは、世界に足りないんです。だから、迷宮から色々なものを持ち出す冒険者の仕事は無くならないし、冒険者を支えるミーミルの人のお仕事も無くならないし――まだまだずっと、ミーミルの繁栄は続くと思いますよ」
あらま、とサリーは、マリアベルが魔法使いだってことに改めて気付いて驚いたみたいだった。
「マリアベルは、魔法使いだねぇ」
「魔法使いですよぅ」
「ほんとに、凄い魔法使いだこと!」
受付のカウンター越しに、サリーはぎゅぅっとマリアベルを抱き締めた。
マリアベルは魔法使いだ。しかも、ハリソン商店の長女だ。この手の話題では無敵だろう。真実の中に、ほんの少しの嘘を取り交ぜる事なんて、お手の物だ。
サリーに改めてこれからもよろしくお願いしますと挨拶をして、階段を登る。とんとんっ、と軽やかに登りながら、マリアベルは囁く。
「でも、どうなんだろうねぇ。女神さまはいつまでも、それこそ、迷宮を踏破した冒険者が現れても、それでもその後もずっと、迷宮に色々なものを補充してくださるのかなぁ?」
迷宮踏破は、ミーミルに、ミーミルに住む全ての人に、そして緑の大樹を目指してやって来た全ての冒険者に、一体何をもたらすだろう。
グレイには分からない。
分からないし、どんな事が起こったって、グレイは迷宮踏破を目指すだろう。マリアベルと共に。
だから、マリアベルは決して1人にはならない。
のに。
マリアベルは言う。あたしに残された猶予はどれくらいだろう、と。
涼しい顔をしているマリアベルを見ていたら、何となく腹立たしくなって、むにむにしたほっぺたを横から引っ張る。
「にゅぐー……何故に?」
真面目に質問されると、グレイ自身、何とも答え難い。
「……何となく?」
「にゅにゅ。理不尽!」
ぷくっ、とマリアベルがほっぺたを膨らませる。グレイの指が、マリアベルの頬から離れる。思い付いた事を、グレイは口にする。
「……ギルド“エスペランサ”は、俺達6人のギルドだろ」
「そうねぇ」
「俺達、だろ」
「そう、ねぇ!」
2階に着いて、マリアベルは3階に向かおうとする。グレイが見つめていると、気付いたのか、振り返った。
猫の散歩道亭の廊下には、もちろんランプが幾つかぶら下がっているけど、まだ夕刻だから明かりは灯っていなくて、でも、外はだいぶ暗くなってきていて。だから、夜よりよほど暗い廊下で、マリアベルは黒い三角帽子に半分表情を隠して、口元だけで笑う。笑って、いるくせに、少しだけ唇が震えていた。
「……でも」
1階の食堂から、夕食の準備をしている良い匂いが流れて来る。グレイ達の他に、猫の散歩道亭に滞在している冒険者はたくさんいるんだろうけど、そのほとんどはまだ緑の大樹から帰って来ていないみたいだった。廊下には、グレイ達以外誰もいない。不思議なくらい静かな廊下で、マリアベルは囁いた。
たぶん、初めて、言った。
「でも、ローゼリットがあんなことになったのは」
ローゼリットが。
俺達のローゼリットが。
あんなことになったのは。
俺達のせいだ。
俺達全員が、ちょっとずつ間違えて、勇み足を重ねてしまって、ああなった。
グレイはそう思っていた。アランも、ハーヴェイも、異論はなさそうだった。
男部屋では、話した事があった。
だから、油断していた。
聡明なマリアベルだって、そう思っているだろうと。
マリアベルが震える声で続ける。
「あたしの、せいだ」
そんな馬鹿な。
さっき会った僧侶さんみたいに、何処か熱のこもった声でマリアベルは言う。
「あたしのせいだ。あたしが、あたしだけが、悪いんだ。だって、ローゼリットはあたしを守ってくれていた。あたしの一番傍にいた。あたしには出来たはずだった。トラヴィスが警告してくれたのに。あたしが、あたしだけが、1人で振り返ったからいけなかったんだ。ローゼリットの腕を、ちょっとでも引っ張れば。ローゼリットはきっとあたしの方を振り返ってくれたはずなのに。そうしたら、ローゼリットはあんなことにはならなかった――あたしだ。あたしが、悪いんだ」
「そんな、馬鹿なこと……!」
「ばかなことじゃないよ。ほんとのことだよ――」
マリアベルは俯いた。ますます、表情が分からなくなる。黒い三角帽子の先っぽが、威嚇するみたいに、グレイに向けられる。
呪いの様に、祈りの様に、マリアベルは囁く。
「――あたしだ。あたしが、悪いんだ。あたし、あたしは、どうしたって迷宮を踏破しなくては。女神さまの御許へ行かなくては。何をしたって。どんな手を使ったって。その後ミーミルに何が起こったって」