5-07
もしも2年前の、初めて緑の大樹を見て口を半開きにしていた少年が、腕がもげてもその緑の大樹を探索するようになると知ったらどう思うだろうか。驚くだろう。呆れるだろう。感心してくれたら嬉しいけど、ただただ慄くかもしれない。やめろよ、と諌めて来るかもしれない。
あの時のグレイが、どう思っていたか。もう思い出せない。
マリアベルと2人きりだった。アランとローゼリットとハーヴェイと出会った。グラッドとサリオンに出会った。マーベリックに出会った。キースとキーリとジェラルドとトラヴィスとシェリーに出会った。ギルド“ゾディア”に助けられた。ギルド“カサブランカ”に勧誘されて、すぐに断った。ギルド“桜花隊”の兄弟に出会った。それから、それから。あぁ、簡単には思い出せないくらい、グレイの世界は広がった。
そうしてグレイ達は、“エスペランサ”になった。
「にゅーはーぁぁぁ」
女神さまの采配を信じて、信じまくって、いる、マリアベルが伸びでもしたんだろう。
初めて見つけた時には信じられなかったけど、氷雪に覆われた階層の中で、確かに湯気を上げてそれは有った。
何と、12階の奥の小部屋には温泉が湧いている。
温泉を見付けた時のマリアベルの動きは素早かった。
「後ろ向く!」とかグレイとアランとハーヴェイに命じるなり、リーゼロッテが止める間もなくバサバサと服を脱いで(多分。見てないけど。見てないけど!)ぽちゃんと温泉に浸かってしまった。
「ちょ、マリアベル、え、えぇっ!?」
「温泉だー、にゅはー」
混乱するハーヴェイにまったりと答えて、マリアベルは水音を立てた。顔でも洗ったんだろうか。
「っていうか、おま、お前、なぁ!? もしも、あれ、あれしたらどーすんだろよ!」
「だろよ……アラン、少し落ち着きなさいな」
人が慌てていると落ち着ける性質なのか、リーゼロッテが冷静に突っ込んだ。アランにも、マリアベルにも。
「マリアベル、もしも敵や、他の冒険者が来たらどうしますの?」
「何か生き物が来たらねぇ、きっとグレイ達が教えてくれるよぉ。他の冒険者は、来ないと思うよぉ。女神さまの采配があるし」
「……それは、そうかもしれませんけれど」
「ほらほら、リゼちゃんも。ぬくぬくだよ。さっぱりだよ?」
「……むむむ!」
リーゼロッテは唸ってから、荷物を下ろした。ぬくぬくのさっぱりには抗い難かったらしい。本気ですか?
「ぜ、絶対振り返らないでくださいね!?」
たぶん、顔を真っ赤にしてリーゼロッテが命じる。
「お前なんぞ誰が見るか!」
アランが憎まれ口を叩いた。
「うるさいアラン!」
リーゼロッテが喚く。
「見ないよー」
ハーヴェイが遠くを見ながら言った。
「お、俺も見ないから!」
グレイも慌てて言う。
「にゅっにゅっにゅ」
マリアベルがのんびり笑った。
「マリーちゃんがさらさらぴかぴかだったのも納得ねぇ。迷宮の中に、こんな温泉があるなんて」
とか何とか。
そんなこんなで、12階の小部屋に辿り着く度に、温泉を堪能している。今もだ。グレイ達の背後ではマリアベルとリーゼロッテがお互いの髪を洗っているらしい。
「わーしゃわーしゃ!」
「自分で洗えますのに」
「いいのいいの!」
仲良きことは美しき哉。
いやー、いいけど。良いんだけど。リーゼロッテとマリアベルもすっかり仲良しになって良い事だ。グレイ達が気まずいというか、そわぁっとするのなんて些細な事だろう。ちなみに、昔に思いを馳せてみたけど、だめだ。いや、駄目じゃないけど。
温泉とか。バカなんじゃないか。壁も衝立も無いのに。グレイ達と女神さまの采配を信用し過ぎだろう。ほんとすぐ後ろで服着てないとか。何考えてるんだ。何にも考えて無いのか。いや、マリアベルに限ってそんなことは無いだろう。あー!
マリアベルとリーゼロッテの事を、そういう意味では何とも思っていないグレイすらそうなのだ。アランなんてもう、隣でまさかの聖書の暗唱を始めている。「我らが父よ――」頑張れ。超頑張れ。ハーヴェイはローゼリットが居ないからか、鼻血騒ぎにはなっていないけど、そこはかとなく顔が赤い。そりゃそうだろ。まったく、何なんだか。
「ふぅっ、ばっちり!」
「さっぱり、ですわ」
くすくす笑いながら、水音が2つ。上がったらしい。衣擦れの音がして、しばらくして、「もう良いよー」とのこと。
2人が上がったら。交代だ。というか、マリアベル達が髪を乾かしている間に暇なので、温泉に入っている感が強い。
マリアベルの持っている緋色の護符は、魔力を通すと熱を放つらしい。だから、護符とタオルで髪を挟んで、2人は髪を乾かしている。グレイとしては正直、貴重な護符をそんな使い方すんなと突っ込みたい。まぁ、乾かさないでいたら、髪が凍り付いて、絶対に風邪を引いてしまうから、仕方ないんだけど。
ぬくぬくさっぱりした後は、気合を入れ直して13階に向かう。
何とも不思議な事なんだけど、13階に上がると、9階から現れだした氷も雪も一切なくなる。それだけじゃない。13階では、道の両脇のどの木にも桃色の花が咲き乱れていて、わずかに霧が出ている。昼夜問わず、だ。
もちろん、気温も上がる。かなり過ごしやすい、春みたいな陽気だ。マリアベルは初めて来た時、「桃源郷みたいねぇ。でも、何度だって来るけど」と相変わらずグレイにはよく分からないことを言った。
12階から13階に上がると、住んでいる生き物も一新される。まぁ、これだけ環境が違えば当然か。
「4階ごとに、女神様は迷宮の環境を変えたのですわね」
何度見ても、驚きが隠せない。そんな様子でリーゼロッテは13階を見回す。マリアベルも頷いた。
「そう言えば、そうねぇ。5階から8階は凄く暑いし、9階からは急に雪が降って12階まで続いて、で、13階ではこんなにお花が咲いちゃって。16階まで続くのかなぁ。そうしたら、17階からはどうなるんだろうねぇ。物凄い場所だって噂は、聞いたことがあるけど」
言いながらマリアベルは、落ちて来た花びらを掴もうとして、失敗した。そのくせ、長い髪の毛には花びらがくっついていたりする。人生そんなもんだろう。
残念そうに手を振って、マリアベルは地図を取り出した。14階まで到達したことはあるとはいえ、13階も気を抜けない。一同の表情が引き締まる。マリアベルが、わずかに緊張したような顔で、でも、笑った。
「行こうか。しばらくは道なりに真っ直ぐだよ」