4-12
忘れかけていたマーベリックの話を、グレイが思い出した。あの話を男部屋で聞いたのはいつの事だったか。確か、2階でのミノタウロスと戦った後だった。2階。あの頃は7階だなんて遥か先の話だと思っていた。今や、7階を歩いて、降りて来た。達成感と言うより、アランにはいっそ不思議な感覚がある。自分で成し遂げておきながら、本当か……? と疑ってしまうような。
グレイやマリアベルと会ってどれくらい経っただろう。1年、はまだ経っていないか。だと言うのに、中堅と呼ばれてもおかしくない冒険者になって、ロゼの出自は受け入れられた。今日までの人生とは段違いの濃度だ。誰のお陰かと言ったら――
アランは薄く目を開ける。空は白み始めていた。誰が不寝番をしているのだろう。まだハーヴェイか。途中でグレイに交代済みか。起きたから、代わるかとか考えながらむっくりと起き上る。
多少、そんな予感はあった。
不寝番をしていたのは、マリアベルだった。チェシャ猫みたいに笑って、眠るグレイを、ローゼリットを、ハーヴェイを、それからアランを見つめていた。
「……よぅ」
「おはよう、アラン」
その顔があまりにも幸せそうで、多少の気恥ずかしさを感じながらアランは小声で手を挙げた。マリアベルも、小声で応じて来る。
「見張り、代わるぞ」
「あたしも起きたばっかりだから。まだ寝てていいよぅ」
「んー」
多少二度寝の誘惑に狩られながらも、立ち上がってマリアベルの隣に移動する。「なぁに」とマリアベルは不思議そうだ。
「気になってたんだが」
「うん」
「ロゼの事。全然驚かなかったな。気付いてたのか」
「驚いてたってば」
にゅふっ、とマリアベルは噴き出した。
「アランはあたしのことを買いかぶり過ぎだよ」
「どうだかな」
買いかぶり――ではないだろう。マリアベルは勇敢で、それ以上に賢明だ。ローゼリットが望む言葉を、躊躇わずに贈ることが出来たのは、多少の前知識があったからではないか? と思っていた。
マリアベルは不意に視線をアランからグレイに動かした。
「本当に凄いのはグレイだよ。グレイはねぇ、ずーっと昔から、大事なことは間違えないの。知ってる。あたしはそうだなぁ、ローゼリットが好きで仕方ないだけだよ」
「ハーヴェイみたいな?」
からかう様にアランが言うと、マリアベルは生真面目な顔で頷いた。
「そう」
「どうだかな」
「2回目だよ」
にゅにゅっ、と楽しそうに笑って、アランの方に視線を戻して来た。緑の瞳が、黒い三角帽子の下で煌めいているようだ。本当に猫みたいだった。
ぱちぱちと2回まばたきをして、でも、そうねぇ、とマリアベル。
「すこーしだけ、考えたりはしたの……絶対ローゼリットの事怒らないって、約束してくれる?」
「内容による」
「アランは正直だねぇ……じゃあ言わない」
マリアベルは膝を抱えて丸まってしまった。そう言われると、気になる。
「……分かった、怒らない」
「絶対?」
「ぜ……」多少悩んだ。頷く。「絶対。約束する」
何かの契約書に署名した気分だった。基本的にローゼリットは賢い、方だと思う。ただ時々、どうしようもなくネジが抜けている所があって、アランは気になって仕方ない。お姫様育ちの所為だと言われればそこまでだが、それにしたって抜け過ぎだろうと文句を付けたいだけで、怒りたいわけでは無いのだ。アランだって。
マリアベルがそっと耳元に顔を近付けて来る。
「ローゼリットが持ってる香水瓶、水晶削って出来てて、飾りには真珠と白金と蒼玉使われてるのね。それを、お掃除の人も入る猫の散歩道亭のお部屋に置いて出掛けようとしちゃうから、そういうおうちのお嬢さんなんだろうなぁって、思ってはいたよ」
「……あの、馬鹿!」
眩暈がした。目元がおかしいと思ったら、涙まで滲み出ていた。思わずアランは右手で顔を覆う。あれほど、あれほど冒険者になる前に、普通に、振る舞えと言ったのに! 香水瓶持ってくるか普通! そして部屋にぽんと置いて出掛けるか!
「にゅいにゅい。お馬鹿ではないですよ。いつも良い匂いなのは良い事ですよ」
「ではなく!」
「高級品置いて出掛けちゃうのも、今日までローゼリットの私物を陰でどうこうしちゃうような悪い人がいなかったから、思い付かないだけでしょう。別にローゼリットが悪いわけじゃないよ」
さらりとマリアベルは言って、むしろ、どうだ! と言わんばかりに胸を張って来る。
「そしてそんな事もあろうかと、あたしはいつも、持って出かけた方が良いよって、言ったのです。だから今でもローゼリットは毎日良い匂い」
「ナイスだ魔法使い」
としかアランには言いようが無い。マリアベルは人の気を知ってか知らずかのんびりと小声で話し続けている。
「こうね、ローゼリットは香水の付け方が凄く上手でね、ぎゅってしたり、膝に乗ったりするとふわって良い匂いがするの。しあわせ」
「そーかそーか、良かったな」
「うん!」
ほにゃほにゃとマリアベルが笑っているから、まぁ良いかと――全然思えない。まったく思えない。あのすっとぼけ王女め。
「にゅっふっふっ……でも、そうねぇ。ローゼリットばっかりじゃ、いけないよね」
不意にマリアベルは独り言のような調子で呟く。何がだ、とアランが尋ねるより早く、マリアベルはグレイを、ハーヴェイを、ローゼリットを、そうして最後に、アランの方をじっと見つめて来る。
「……どうした?」
「あのねぇ」
マリアベルはそれなりに緊張しているようだった。とは言っても、どこかほにゃっとしていたけれど。
「迷宮から出たら、みんなで行きたいところがあるの。アランも、来てくれる?」
「……そりゃ、まぁ。構わんが。ミーミルの街の何処かか?」
「そう」
「何処だ?」
「……行っての、お楽しみっ! にゅふふ、見張り、代わってねぇ」
マリアベルは笑って答えない。くるん、と毛布に包まると、ローゼリットのすぐそばに横になってしまった。