4-10
エスペランサ。エスペランサ。
祝福のように、ハーヴェイは何回もその言葉を内心で大切に呟いていた。
マリアベルの、そうして誰よりも大切なローゼリットの希望。その中に、ハーヴェイが含まれていることがこの上なく幸福だった。
休憩中のマリアベルはころんと転がって、いつものようにローゼリットの膝の上に頭を乗せている。すんごい羨ましい。じゃなくて。
ローゼリットは、マリアベルの頭に軽く手を載せて、ほんの少し首を傾げて幸せそうに微笑んでいた。ざわざわと木々を揺らす風が、ローゼリットの長い髪を靡かせる。金色でも銀色でも灰色でもない、麦色と言うのか、ローゼリットは不思議な髪の色をしている。大地の女神に祝福されたような、綺麗な色だ。世界で2番目に綺麗な色だと、ハーヴェイは思っている。
ちなみに1番は、ローゼリットの瞳の青色だ。晴れた日の透き通った空のような、淡い青色。
ローゼリットは、世界で1番綺麗なお姫様で、たぶん、世界で1番綺麗で可愛い女の子だろう。ハーヴェイ的には、たぶんとか付かないけど。ぶっちぎりで世界一だけど。
先日アランが語ったように、何だかめんどくさい様な馬鹿馬鹿しい様な、そんな理由で冒険者になった。そうして、人生で初めて、きらきら輝くような同性の友達を手に入れた。
だから、良かったの、だろう。
ローゼリットは幸せそうだ。王宮に行かなければならないと嘆いていた頃よりずっと。リゼと昔みたいに仲良くなれたらいいのにと溜息を吐いていた頃よりずぅっと。
ローゼリットは今や、綺麗で、幸せそうで、勇敢で、聡明なお姫様だ。
そうしてハーヴェイは何者であるか。
アランは言わないだろうし、ハーヴェイ自身も楽しい話ではないから、きっとマリアベル達に話すことは無いと思う。
ハーヴェイはいわゆる孤児だ。
騎士階級だった父親が辺境の戦で戦死して、母親はもう、ハーヴェイを生んだ時に産褥熱で他界したらしい。父方の祖父母のところに預けられる筈だったけれど、どうも父方の祖父母と、ハーヴェイの母親は折り合いが悪かったらしく、良い顔をされなかったのを幼心に覚えている。
あんな女の子供なんて。
ハーヴェイの祖母がハーヴェイに吐き捨てた時だった。ハーヴェイの不幸はそこでぱったりと途切れた。
童話の中の英雄のように、ハーヴェイの父親の親友だったらしい、アランの父親がどかーんと乗り込んできて、それなら自分がこの子を育てるっ! と一方的に宣言するなり、攫うような勢いでハーヴェイを引き取ってくれた。
アランの実家であるクロフォード家には、男ばっかり5人も子供がいた。末っ子だったアランと同じ年だったハーヴェイは、6人目の下っ端として他の子供と区別なく育てられた。
そうして、時折遊びに来る女の子に恋をした。そらーもう簡単に。
だってローゼリットは子供の時から抜群に可愛くて優しくて、いっそ、どうしてアランがローゼリットに恋せずにいられるのか不思議な位だ。
クロフォード家に引き取られた時に、ハーヴェイの不幸は途絶えた。
だから、この恋が叶わないのは不幸じゃない。
世の中にはどうにもならない事がたくさんあって、ハーヴェイが母親の顔を覚えていない事とか、父親が帰って来てくれなかった事とか、祖母が優しくしてくれなかった事とか――とにかく、思いつくだけでもどうにもならない事は溢れているのだ。その中の、1つでしかない。
大それた不幸じゃない。好きで好きで仕方なくたって、お姫様と孤児がどうにかなれるわけが、ないのだ。だったら、今、この冒険者をやっているほんの短い時間だって、毎日会うことが出来ることを幸せに思うべきだ。
だってローゼリットはこんなにも綺麗なんだから。
ハーヴェイは幸せだ。
幸せでなくちゃ、ハーヴェイを引き取ってくれたクロフォード家に申し訳が立たない。
本来なら国王の外戚になるはずだけど、そういった権利と義務の全てを放棄したクロフォード家はそれほど裕福なわけでは無かった。しかも入り婿だったアランの父親が、勝手にハーヴェイを引き取ると決めてしまったのだ。ちびの頃には分からなかったけど、今では色々あったんじゃないかと、思いを馳せてしまう。
だから、ハーヴェイは冒険者になった。ローゼリットと居たかったというのも、もちろん理由の1つではあるけど。それ以上に、ハーヴェイはクロフォード家の役に立ちたかった。ローゼリットと、アランを守るのが、ハーヴェイに出来る唯一の恩返しなんじゃないかと、思っていた。あんまり、上手く行ってないけど。ミノタウロスの一件の後には、ローゼリットに泣かれたし、アランにも怒られた。
ああいうのはやめろ。誰も幸せになれないから。
アランはグレイやマリアベルがいない所でハーヴェイにそう言った。
だけど、どうだろう。ギルド“ゾディア”が現れなければ、ハーヴェイ達は全滅するところだった。全滅よりは、ハーヴェイだけが犠牲になった方が良いんじゃないかと思ってしまったし、正直今でもそう思っている。
だってハーヴェイはローゼリットが好きなのだ。あの子に万が一の事があったら耐えられない。
「……ハーヴェイ」
不意にマリアベルがハーヴェイの名前を呼んだ。
「どうしたの?」
マリアベルはローゼリットの膝から頭を上げて、ほにゃほにゃ笑っている。
「悪い顔、してる」
「悪い顔?」
「そう」マリアベルはすごく簡単な事を子供に教える時の口調で言う。「悪い顔」
「してた?」
「してる」
「今も?」
「そう……そういうのは、駄目だよ」
にゅいにゅい、とか呟いて、マリアベル。
ハーヴェイが両手を顔に当てて、引っ張ったり縮めたりすると、「にゅふふ!」と声を上げて笑ってくれた。マリアベルは不思議で不可解で、かわいい。
「さて、随分休んじゃったね。暗くなる前に、行くか戻るか、決めようか」
行く、なら、安全地帯の階段を探すべきだし、戻る、なら、下り階段付近の大広間まで戻るのだろうか。
「ギルド“桜花隊”のお陰で1食浮いたし、もう少し探索進められるよな」
胡坐をかいたままでアラン。ローゼリットが地図を見ながら頷いた。
「そうですね。問題無いと思います」
「そうしたら、進んでみようか」
グレイも積極的なことを口にする。何となくみんな、気分が上がっていた。そういう時は、ある。上手く行きそうな予感がある時。そういう時は右か左か悩んでも、選んだ方が次の階への階段へ続いている。ハーヴェイ達の選択は絶対的に正しくて、マリアベルが望む通り、女神様への御許に辿り着けるような気分になれる。そういう時。
世界に祝福されているような気分で、ハーヴェイ達は歩き出す。迷宮の中で歩いた事を無い場所を進むのは、何時だって眩暈がする様な緊張感がある。先頭を歩いているからかもしれない。だけど今は、今だけは、ハーヴェイには確信があった。余計な敵には襲われない。何匹も居るであろう火蜥蜴だって、遠くですれ違って美しいと思うだけですむだろう。
ローゼリットが『加護』の魔法を使う。手の甲に星とトネリコの意匠が浮かび上がって、ますます身体が軽くなる。何処だって行ける。何にだってなれる。ハーヴェイ達は“エスペランサ”だ。マリアベルの、ローゼリットの、迷宮の先を望むすべての人の希望になれることだろう。だってこんなにも、世界は美しくて、道は正しい方向に延びているのだから!
「……ぅわぁっ!?」
じゃっかんハイになっていたら、本当にそれを見つけて、変な声が出た。
「ハーヴェイ、どうしたの?」
マリアベルが後ろで不思議そうに尋ねて来る。同じものを見ているグレイとアランは目を見開いていた。アランが振り返って、小さな魔法使いに告げる。
「7階への階段、もう見つけた」