第一話 想起
沙耶は幼稚園の時に隣に引っ越してきた一家の娘だった。同い年だからよろしくね、とおばさんに頼まれたのを覚えている。よく二人で遊んだ。中学の時は一緒に受験勉強をして同じ高校へ入った。なんだかんだと二人で喋っていたのであの二人は付き合っていると噂されていた。沙耶の気持ちは聞けないままだったが僕も何となく付き合っているのだと思っていた。
大学は別の学校に行くことになった。僕は少し距離がある所に一人暮らしをする事になった。沙耶は泣いたがいつでも会えるじゃないかと慰めると泣き止んで頷いた。それまでに比べて会える時間は少なくなった。二人の暇が重なる時は月に一、二度になった。久しぶりに会う時は沙耶はいつも嬉しそうだった。
「急なバイトが入って会えない」
そう言った時、沙耶は電話口でぶーたれていた。文句を言われるのが嫌だったので僕は次に会う時は好きな所に連れて行ってやると言った。
「本当だね♪ 楽しみだなあ。約束だよっ」
電話越しの声が今も耳に残っている。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「たー君、沙耶の事は忘れてくれていいから、どうかあなたは幸せになって」
そう言ってくれたおばさんに僕は何と答えただろうか。ただ呆然としていたように思える。「まだ若いのに可哀想に」「相手は居眠り運転だったって」そんな言葉だけは耳に入ってくる。
暫くして僕の留年が決定事項になった頃、僕は大学を中退する事に決めた。大学にいる意義が見いだせなくなったのだ。それでも生活はしなければならない。僕はフリーターになった。派遣会社に登録して色んな職を転々とした。やがて煙草を吸う量が少なくなり、僕は自然と笑うようになった。二十代も半ばにきてようやく僕は就職を決意した。煙草はいつの間にか吸わなくなっていた。ただ、世界はあの時から色褪せたままだ。
毎日毎日仕事、飯、ネット、ゲーム、寝る。同じ事の繰り返し。自分は何かを為す人間ではなく、ただこのまま会社の駒として生きていくのだと諦めている事に何の感情も沸かなかった。
趣味や興味はそれなりにある。暮らせるだけの金とたまの連休があればそれだけで嬉しい。
「明日から三連休か。中古屋でも寄って暇潰しになりそうなもの見繕ってくるか」
濃紺のアスファルトを見ながら呟いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「セラム様、下ばかり見ていないで、前を見てみてください」
青年の声が聞こえた。
風になびく馬の鬣。若草色がさざめく草原。一面に薄群青の空。眩しく輝く鉛白のような雲。光さえも七色に煌めいている。
こんなに。
こんなに世界に色があったのか。
ああ、僕は今生きているんだな。この美しい世界で……。




