第三十六話 辞令
ヴァイス王国の王都インぺリアを北に行った所にあるキーレフ砦、ここは対グラーフ王国の第三防衛線として設定された拠点である。幅の広い川を挟み陣を敷けるように造られたこの砦には現在守備兵一万が駐屯している。砦のすぐ傍にある橋以外に大軍が川を渡るのに適した道は無く、ここならば守るのに絶対的に有利な地形だった。しかしここを抜かれれば最終防衛線である王都までは一直線であり、事実上敗北が決定されるようなものだ。
そんな最重要地の守将を元副将軍であるダリオ・アバッティーニが務めていた。本日正式に辞令が届き中将となったばかりである。その辞令を届けに来た使者に、ダリオは不機嫌を隠さず問うた。
「俺が中将。それで、大将と元帥というのはどいつだ?」
元々、長のエルゲント将軍をダリオとアドルフォが副将軍という二人体制で支えてきた。加えてダリオは貴族の息子で侯爵家だが、アドルフォは貴族の出自ではない。将軍亡き今、軍の長となるのは自分以外にいないと確信していたのである。
「元帥は故エルゲント将軍を位に据えた名誉階級だそうです。大将は、アドルフォ副将軍が……」
「アドルフォだと!?」
ダリオが腰の剣に手を掛け今にも斬りかからんばかりに詰め寄る。その剣幕に「ひいいぃぃぃぃ」と使者が思わず後ずさる。
「中将」
隣にいた男がそれとなく蛮行を止める。ダリオの部下で、カルロ・サリという。彼は中佐の位を拝命していた。
「た、確かに伝えましたぞっ」
使者は何とか己が使命を果たすと転げるように退出する。ダリオは憤懣やるかたない様子でその後を追うように外に出ようとする。
「どこに行かれるおつもりですか」
「アドルフォの所だ! 奴め、俺が留守の間に軍の実権を握る気だ! これは完全に作為を感じる」
カルロの呼び止めに髪を振り乱して興奮するダリオ。そんな上司にカルロは冷静を保って論を唱える。
「中将はここの守将を任されているお方。今、この緊迫した状況で守りの要と言えるこの砦を将が放棄するなど危険です」
「知った事か! こうしている間に軍の中枢が平民に乗っ取られようとしているのだぞ! そっちの方が許されざる事態だ!」
(こんな奴が副将軍……いや、中将か。まったく腐っている)
その言葉にカルロは心底失望した。軍の序列二位の者が国防より身分の高低の方が重要だと言って持ち場を放棄しようというのだ。
カルロとて父親は男爵であり、平民の出とも言えない。しかしながら、男爵と騎士は一代限りの身分であり、自身が相続出来るものでもなかったため、カルロはあまり身分差を意識せず育った。確かに並みより高等な教育を受けさせてもらえたという自覚はあるが、友人も商人や農民といった出自の人間しかいない。男爵の息子という事で目を掛けてもらえたという事が活躍の機会を増やした事は確かなのだろうが、三十前という若さで中佐という過分な階級を頂いたのも、その後の自身の成果が評価に繋がったのだという自負がある。貴族として生まれたというだけで偉いと勘違いしている人間は大嫌いなのだ。
「中将、あまり……」
「失礼します!」
その時であった。新たな使者が扉をノックして入ってきた。
「ダリオ中将、兵五千にてヴィグエントの南五キロ地点のノエ砦に出向、これを防衛、改修せよとの命令です」
新たな辞令であった。ダリオは青筋を立てながらも感情を抑えてその使者に聞く。
「俺にそんな辺境の小さな砦を守れと。……それで、ここの守将は誰になる? まさかアドルフォと言うんじゃないだろうな?」
「いえ、セラム・ジオーネ少将との事です」
「セラム? 知ら……」
言いかけてダリオはその人物を思い出した。
(ジオーネだと? そうか、エルゲント将軍の娘か。しかし確か今は十二歳だった筈。それが少将で最重要拠点の守将? 大方将軍が討たれた事による士気の低下を打破する為に利用したのだろうが)
エルゲントはダリオが唯一と言って良い尊敬する人物だ。しかし尊敬しているのはエルゲントであって、見た事も無いその娘ではない。何の実績も無い小娘が祭り上げられて自身の地位を脅かすなど、あってはならない事だ。
「納得出来るか!」
「中将、これはアドルフォ大将の命令です。背く事は軍規違反になります」
「ぐっ……」
逆らえば最悪降格、左遷もあり得るという事だろう。アドルフォにいいように使われるのは我慢ならない事ではあるが、ここで軍法会議にでも掛けられては二度とアドルフォに意見する機会はこないだろう。
「くそが!」
「中将、今ヴィグエントを牽制する事は必須であり、戦略上正しいと存じます。ここは拝命されるべきかと」
カルロは言いながら少し安心していた。この命令は勿論戦略上正しいのも確かだが、それ以上にこの厄介者を中枢から遠ざけようという意思を感じる。軍の階級制度なども一新され急激に事態が動く中、新しい軍体制は比較的まともになろうとしているのではないかと、そんな期待が持てたのだった。