第九十四話 決着、そして……
自分の咳で目が覚める。意識を取り戻したと共に急激に苦しさが復活した。生きている実感、と言えば聞こえは良いが、大概の人間なら生きていたくなくなる程度の地獄だ。
「目ぇ覚めたか」
近くで声が聞こえた。もがき苦しみながらも重たい瞼を開けると、少し離れた所に見知った人間が腰掛けていた。
「ホウセンさん……?」
ホウセンは吸っていた煙草を揉み消すと、セラムの方に向き直った。
「よう、元気そうじゃねえか」
相変わらずこの人は。皮肉を言わなければ気が済まないのかと苦笑する。お陰様で、と嫌味を返してやろうとして、セラムは自分の体が治療されている事に気が付いた。どうやら無事なのは本当にホウセンのお陰が半分あるらしい。
「何故、ここに?」
「何故と言われると、こっちの台詞だと返したくなるな。嫌な予感がして来てみれば極秘の糧秣基地が奇襲を受けている。部下と共に鎮圧に当たっていたらモール王国の残党まで出しゃばってきやがる。てんやわんやな所に笛の音が聞こえたから来てみれば、これだ」
「モール王国の残党が?」
そういえばそんな連中が戦場をうろついているという情報があった。しかし協調した作戦行動は取らず、あくまで戦場荒らし程度の野盗崩れと変わらない連中という認識だった。
「ああ、お陰で鎮静化もままならない。なんでも主立った将がオットー一人しか生存確認出来ないとかで、圧倒的に手が足らない。まったく、このタイミングでモール王国の残党がいきなり主力でピンポイントにここを攻めるっつうのはありえねえ。お前らの仕業か?」
「いや、知らない」
「よっぽどの偶然が重なった奇跡でもなければ、まあお前らじゃなくともリーンハルトの野郎が裏で繋がっていたんだろうな。表立って協調しなくとも、ここぞという時に情報提供なり報酬なりで釣ったんだろう。どうせ連中、遭遇しても逃げてばかりでまともに戦いやしなかったし、こっちも暇じゃなかったからな。半ば放置で場所も動向も捕捉しておかなかったのが裏目に出た。こういうのを油断というんだな」
まったく、食えない爺さんだ。セラムはその手際に唸るしかなかった。敵を欺くにはまず味方からという言葉通り、老獪な爺にセラムもホウセンも一杯食わされたという訳だ。しかも恐らく味方を巻き込んでしまっても良いという条件も付いているのだろう。今迄協調していない軍同士、その上この夜間の混乱の最中だ。同士討ちを避けるなどという器用な真似が出来るとは思えない。そもそも敵味方の区別どころか、彼の者達とは厳密に言えば味方ですらない。しかしそれ故追い打ちの効果は絶大なものとなるだろう。セラム達の生存を考慮しなければの話だが。
「最初から僕らは捨て石か。ふざけやがって」
「で、お前、このまま死ぬか?」
「……僕はねホウセンさん。さっきグリムワールに会いましたよ」
「なに?」
ホウセンが身を乗り出す。
「死ぬかと思うような状態の時、僕はここではないどこかに居た。真下と思われる所に現実の世界が見えました」
「真下と思われる、とは?」
虚空を見ながら述懐するようなセラムを急かすでもなくホウセンは聞き入る。
「そこは宙に浮いているのか、落ちているのか、それとも無重力の中移動しているのか、空間の感覚が無くなった世界でした。死とはこういうものなのかと思いました。残していったものを想えば胸が締め付けられるけれど、それでもそのままでいれば心地良い、凄く……いえ、そう……酷く安心感のある優しい空間でした。そこにそいつはいました」
思い出す度腹立たしい。あの時はすぐにこの世界に戻ってこなければと必死だったが、今思えば神を殴れる最初で最後の機会だったかもしれない。
「やっぱり人を弄ぶ神気取りのクソヤロウでしたよ。僕はあいつを殴りに行くまでは死ねない」
それを聞いてホウセンがくっくと笑う。
「安心したぜ、ちゃんと生き汚そうで。その調子で頑張んな」
よっと、と軽い調子で跳ね起き、ホウセンはセラムに背を向ける。
「連れて行かないんですか?」
「言ったろ? モールの残党軍が攻めて来てんだ。こっちも余裕がねぇし、もうすぐここに連中の一部が来るようだ。……まあ俺が本気を出せばお前一人捕虜にするくらい訳ないんだが、お前は俺の手元に置くよりも野に放った方が面白そうだ」
尤もらしい事を言っているが、本音は見知った顔が目の前で死ぬのを見たくないのではないか、セラムはそんな風に勘繰ってしまう。この世界にはまだ抗生物質のような現代医学、薬学の薬やそれらの知識を持った医者がいない。少なくともセラムは知らないし、恐らくホウセンにも心当たりは無いのだろう。自分の生存確率が高くない事くらいはセラムにも分かっていた。
「ま、運が良ければまた会えるだろ」
そう言ってホウセンは背を向けたまま手を振る。病気の所為だろうか、このままホウセンが行ってしまう事が溜まらなく寂しく感じ、何か声を掛けようとした。……したが、掛ける言葉は見つからなかった。相手は敵の将軍なのだ。
それでも、とセラムが手を伸ばしかけたところで、ホウセンが振り向いて口を開いた。
「じゃあな、戦友」
胸が苦しくて仕方ない。これは肺病の所為なのか、それとも溢れ出る想いの所為なのか。
喉から出かけた言葉は涙で押し留められた。代わりに出たのは、想いを綴るには全く足りない、か細いものだった。
「…………また」
その言葉を最後にセラムは再び晦冥の泥濘に意識を沈ませた。辺りに動くものが無くなったすぐ後に数人の跫音が地を騒がせる。
「おい、こっちにも死体があるぞ!」
「ん、子供……? しかも女だ! 何でこんな所に」
「何い!? ちょっと待て!」
山賊と見紛うばかりの態をした男達がセラムを指さして騒ぎ出す。
「こんな所にいる女でこの立派な恰好、こいつは噂のセラム・ジオーネに違いねえ。だったら例え死んでても一攫千金の価値があるぜ。傷つけずに頭の所まで持っていこう」
「いや、まだ息がある」
「だったら尚更だ。ヴァイス王国への貸しにするか、グラーフの野郎共との交渉材料にするか、それとも……セラム・ジオーネはいくさがバカ強えって話だから、助けた代わりに戦ってもらうって手もある」
「よし、運ぶぞ。丁重にな……」
――この戦いでグラーフ王国軍は備蓄糧秣に多大な損害を被った。奇襲作戦が成功した連合国軍側は大いに士気を上げたが、中央拠点の奪還には至らず、また、根本的な輸送手段を阻止する事も出来なかった。
戦略的優位地点を抑えているグラーフ王国軍は継戦を決意、対して連合国軍は徐々に連携を崩していき、戦力は拮抗。戦争はセラムが危惧した泥沼の消耗戦の様相を呈していった。
マレーラ大平原での決戦はその後実に二か月続き、各国を徒に疲弊させる事になった。潮が引くように両軍が矛を収めた時には、平原には血と死体と哀しみしか残っていなかった。
各国は疲弊し、益無し。そして死者多数。
当時のヴァイス王国の戦時記録にはこう書かれている。
戦没者・戦時行方不明者名簿(階級順)
少将 セラム・ジオーネ 行方不明
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