第九十三話 生と死と
「お、お前は……お前は生きていちゃいけない人間だ!」
ワルターは飛沫を飛ばしながら声を振り絞る。セラムが体ごとワルターに向き直ると、短刀は呆気なくセラムの背中から抜け、ワルターの手の中で上下に激しく揺れた。
「そうか、これが報いか」
三人組の一人、ステファンはセラムが殺したようなものだ。彼は人間同士の戦いの中で、あろう事か魔物に食い殺された。セラムが味方ごと魔物をけしかけた。彼の遺体は指一本すら残ってはいない。全てセラムのしでかした事だ。
味方からも恨まれているのは知っていた。ただ無邪気に慕ってくれている人間だけではないと分かっていたつもりだった。
(つもりだっただけなのだな。彼は僕を恨んでいた。いや、きっとそれだけではないのだろう。自惚れでなければ僕に憧れてもくれていたと思う。だがこうして弱りきった僕が一人戦場に居て、敵も味方も居ない千載一遇のチャンスを得た彼はどう思ったのかな?)
発見時から殺そうと思ったのだろうか。それとも背中を見せたからだろうか。助けようか殺そうかどれだけ迷い悩み抜いただろうか。
セラムは未だ震え怯えるワルターを見て自嘲した。こんなにまで彼を怯えさせ、苦しませた責任は取らなければならないと思った。
「お、お……」
何か言葉を継ごうとしながらも舌が上手く動かない様子のワルターに、セラムは毅然として言った。
「そんなに迷いを持ってどうする。敵を見て、憎しみを以て前から刺したまえ。君は今から一人の人間を殺すのだ」
「……お、お前は死ぬべきだ! 死ななきゃならない! ……でも……あんたは英雄だ。……多分、一番多く人を殺し……そして一番多く人を救う……」
「ワルター!」
更に激しく震えるワルターの手をセラムが力強く握った。
「ひっ!」
その手を振り払ってワルターが二歩下がる。セラムはきっと哀しい顔をしているのだろう。そうと確信が持てなかったのはそこで意識の糸が途切れたからだ。
不意に地面に小さな穴が開いた。超速の飛来物が軽い音と共に地面を抉る。ワルターがそれに気づいた時、あのメルベルク砦攻略戦での出来事を思い出した。あの時もこうやって唐突に穴が開き、そして戦友が倒れていったのだ。
「そいつを置いていけ! 次は当てる!」
水操銃を構えたフードの男がワルターに警告した。小さな悲鳴と共にワルターが短刀を放り投げ逃げ出す。男はワルターが見えない所まで逃げ去ったのを確認し、倒れているセラムとダリオに近付きフードを脱ぐ。
水操銃を肩に担ぎセラムの顔を覗き込むその男は、グラーフ王国六将軍ホウセンその人だった。
「まだ息があるな。背中の傷は浅い。骨で止まっている。ナイフに毒は……ないか。問題は折れている脚とこの血だが……」
腰から出した応急処置キットで止血しつつ呼吸を探る。その音から簡易的に診断する。
「吐血じゃないな。喀血……肺か。もし結核や未知の病気だったら絶望的だが、流行り病が敵陣営に蔓延してるなんて話も聞かんし、結核の可能性は低いか」
ホウセンはセラムの脚を一撫ですると、両手で折れた脚を掴み自らの脚と体でセラムを固定する。
「気絶してて良かったな。こいつぁ大の大人でも気絶する程いてえんだ」
そう言うと、折れた脚を思いっきり引っ張った。そのお陰か、手を放した時には不自然な出っ張りが引っ込んでいた。
「上手くハマってくれたか? まあ素人仕事だ。きっちり治んなくても勘弁しろよ」
水操銃を分解して銃床部分を当て木にして布できつく縛る。
「さて、ありそうなのは肺炎だが……この世界じゃ碌な薬も期待出来ねえ。五分……いや、ここまで進行してると五分以下ってところだろうな。後はこいつの意志と運次第だ」
ホウセンは一頻り応急処置を済ますと、ダリオの遺体を蹴りどかして腰掛け煙草を吹かした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そこは真っ白な空間だった。足が付かず浮かんでいるのか、それとも落ちているのかも分からない。
セラムは下を見る。人々が争っている。離れた所では羊飼いが群れを導いている。昏い森の奥には人から隠れるように住む魔物達の姿がある。人の……いや、生物の営みが連綿と受け継がれていく。
「ああ、僕がいなくても世界は回ってゆくのだな」
僕は生きていてはいけない存在。そう否定された。僕は死ぬべきだと。
酷く疲れていた。指一つ動かすのも億劫で、こうして全身の力を抜いて揺蕩っているとこの上なく自由で楽で、幸福感に満たされる。このまま力を抜いて自然に身を任せていたい、そう思う心が支配的になる。しかしどうしても何かに後ろ髪を引かれる。下に見える世界の在り様を見ると心がざわつく。何故か、このままではいけないという不安感と焦燥感に襲われる。
下の世界をもっと細かい所まで見てみようか、そんな思いもある。しかしそうしようと思うと胸が苦しくなる。これは、恐怖。
――怖いのだ。
逡巡して上を見る。そこは真っ白な空間……いや違う。靄が朧げに人の形を取り始めていた。
「沙耶……」
この世界に来て顔も忘れかけていた幼馴染の女の子。しかしその存在を忘れよう筈がない。……見間違える……筈もない。
「頑張ったね、たー君」
沙耶だ。沙耶が喋っている。いつもの決まった事を言う夢の中の沙耶ではない。
「これは……現実なのか?」
疑う。信じられない。そんなセラムに沙耶はにっこりと笑った。
「他人を放っておけないなんて、いつもは私の方だったのにね。いつの間にかたー君まで正義のヒーローみたいに突っ走っちゃって。そんなにボロボロになるまで……」
慈しむように沙耶はセラムの頬を撫でる。沙耶が触れた所から疲労が軽く、希薄になる。
「でももう頑張らなくたっていいんだよ。もういいの。さ、私と一緒に休も?」
泣きそうになる。文字通り夢にまで見た沙耶が、そこにいる。
――だからこそ。
だからこそ、許せなかった。
セラムはその手を振り払って涙を置き去りにした。
「沙耶は……沙耶は死んだんだ! 正体を現せこの神気取りのクソヤロウが!」
すると沙耶の形をしたそれは口を下弦の月のように歪ませ、発光しだした。真白の空間を更に輝かせ、その口の形しか見えなくなる。しかし足元の景色は反対に影が差すように昏く、生々しくなった。
『どうして分かった?』
男のような女のような、老人のような子供のような、耳障りで胡乱な声だった。
「本物はもっと可愛くて自分にも俺にも厳しいんだよ。『本気でやるんだったらこんな事で挫けちゃダメ』くらい言ってくるんだ。僕の記憶の中の沙耶しか知らないカミサマには分からんだろうがな」
口が更に楽し気に歪む。
『本物は私の予想外か。だから君達は面白い。創られた存在でも、ただの記憶の付け足し程度の存在でも予想外は生まれるらしい。そうやって私の意志通りに動く人形から外れていってくれ。自分で作った人形劇を鑑賞するのには飽いた』
「神よ。傲慢な神よ。お前には言いたい文句が幾つもある。そうやって偉ぶって光ってられるのも今の内だと思え。またいつか僕が殴りに来てやる。その時まで待ってろ!」
『楽しみにしている。退屈は神をも殺すのだ』
セラムは下を見やった。今も戦う者達。今を必死で生きる者達。苦しくても、悲しくても、痛くても、恐ろしくても。
その中の一員として生きる!
セラムは意を決して飛び込んだ。落下しているような感覚。現実が近づくにつれ体は痛く、肺は苦しくなる。それでもその世界の中に仲間の姿を発見した時、セラムは生きていて良かったと思うのだ。




