第九十一話 たった独りの決戦その2
セラムがにやりと笑う。しかしそれは余裕の笑みではなかった。体は限界に来ている。今息を吸い込めば激しく咳き込み、立て直しも効かなくなるだろう。そしてこの神経を使うぎりぎりの戦い方がいつまで通用するかという不安もある。
そもそも互角に、とは言えない。相手は此方を殺さぬよう手加減をしている。赤子の手を握るように優しく嬲ってくる敵に対して、此方は全力を上回る力を振り絞って漸く食らいついている状態だ。それも蝋燭の火が消える直前の、最期の灯のような力。
酷く頭痛がする。吐き気もだ。ここから出してくれと肺の中身が暴れている。今も景色が揺らいでいるのは、焦点を定めていない所為なのか眩暈を起こしている所為なのか判別が付かない。
それでも、ここまで有利に運べたのは僥倖と言えた。これならばセラムが望む決着も付けやすい。だからこそ此方の歓喜を見せる為に笑ってみせた。
「気にくわないなア」
ダリオが片目を剥く。実に面白くないとばかりに背を曲げ首を傾げる。
「まるで俺に勝てるつもりでいるようじゃないか。さっきまで怯えていたくせにヨオ!」
ダリオは相変わらず碌に構えもしない。剣術などどこへやら、まるで武器を拾ったばかりのゴブリンのように握るだけ。そのくせ剣筋はゾッとする程鋭いのだから嫌になる。
ダリオから向かってくる様子は無い。しかし今のセラムは長期戦に臨む体力が無い。今にも咳き込みそうなところを我慢している状態だ。此方から仕掛ける他無い。
セラムは後ろ足で地面を蹴り一気に間合いを詰めた。狙うは先程と同じ、攻撃を誘ってからの後の先。というよりそれしか出来ない。訓練不足のこの体では潤沢な戦術を取れる程動けない。また、ある程度決め打ちのように動かないと脳が対応出来ない。バッカスやカゴメのように訓練を積んでいれば、考える前に反射で正しい動きが出来るのだろうが。
セラムが攻撃の気配を発する。それに合わせてダリオが動く。セラムは先程と同じく超集中力で一瞬先を見る。
斜め下からの斬り上げが見える。腰を薙ぎ払われる幻覚、極めて避け辛い攻撃だが、一か八か飛び越えての突きを狙えば一撃必殺もあり得る。セラムは渾身の力で大地を蹴って高く飛び、脚を折り畳む。
(勝っ……)
セラムが勝利を確信しかけた瞬間、ダリオの姿が一瞬消えた。強い衝撃と共に景色が激しく回転する。
ダリオはセラムの視覚外に行く程素早く動いた訳ではない。ただ予想外の動きにセラムの脳がその姿を認知出来なかったのだ。ダリオの薙ぎ払いは虚動だった。剣を振り切らないままにその体を沈ませ体当たりを仕掛けたのだった。宙にいたセラムは体重差もあり、まるでサッカーボールのように勢いよく飛ばされた。短剣が回転しながら遥か彼方の地面に突き刺さる。
「所詮付け焼き刃だな。最初は驚いたが、初撃に反応するあまり見せかけに弱い。そんな芯の入っていない攻撃じゃあ虫だって殺せねえぞオ?」
衝撃で未だ身動きが取れないセラムに近付くダリオ。悪魔のような微笑と共にその細い脚が踏み抜かれた。
「オイタする脚はいらないねエ」
「っっっっぎゃあああああ!」
重い音と共に脳髄が焼き切れるような痛みがセラムを襲う。あまりの痛みに涙が溢れ出る。
(だがここまでは計算通り)
勝手に出た涙ですらこの局面を有利にする要素でしかない。セラムは右手を背中に隠しながら怯えた仕草を作った。
「助けて……命だけは」
その哀れな表情に、ダリオは恍惚の笑みを浮かべた。
「い~い顔をするじゃないか。その調子で俺を愉しませてくれれば、もしかしたら助けてやるかもしれないな~あ」
下衆が、と心の中で唾を吐く。そのまま油断してくれれば良い。
(更に一歩近づけ。そうだ、曇った目で無防備に近づいて来い)
――今!
セラムが右手に隠し持った短刀を投げつけた。ベルの暗器術、これ以上無い機に放たれたそれを、ダリオは事も無げに避けてみせた。
「惜しかったな~あ。だが残念。見え見えなんだよ、狙いがな~あ」
渾身の短刀が乾いた音を立てて地面を転がった。
「今のがお前の隠し玉なんだろう? 毒でも塗ってあったか? 当たらなければ意味が無いなあ」
ダリオの拳がセラムの腹にめり込んだ。




