第九十話 たった独りの決戦
「ここらで……けほっ、いいか」
拠点を抜け出し南へ少し行った所でセラムは立ち止まった。後ろから追い立てる死神を撒いた訳ではない。危機を脱する大いなる天啓を得た訳でもない。
「おぅや、追いかけっこはもういいのかい兎ちゃあん?」
「そろそろ気狂い道化師と戯れようと思ってな」
この狂人と決着を付けねば前に進めないと悟っただけだ。
「へひゃひゃひゃ! 強がってるのは分かってるぜえ? こんなだ~れも来ないような所まで来てよう」
完全に拠点の外に出てしまった。これで邪魔は入らない。敵も、味方もだ。
しかしここまで足を延ばしたのにはもう一つ訳がある。
セラムは空を見上げる。空は未だ冥冥としてその広さも悟らせぬままだが、地平線の向こうに日が昇りかけている。
(ここで退却の鏑矢を上げれば僕の位置を味方に知らせる事も出来るかもしれない。そうすれば皆憂い無く退却出来るだろう)
この混戦だ。いくら各自で脱出といっても、指揮官が脱出出来るか分からないような状況では彼らも気が気でないだろう。これは指揮官としての配慮だ。
その為には。
「ここで貴様を倒す!」
セラムは短剣を腰だめに構えてダリオと向き合う。こんな誰も居ない、立ち寄らない場所で、人知れず命を懸ける事に少し寂しさを感じる。思えば今迄セラムが戦ってきた時、一人になる事などそうそう無かった。ここで死ねば恐らく味方の誰にも発見されないだろう。いや、このストーカーに連れ去られる方が可能性が高いか。何にせよ独りで死ぬかもしれないと思うと寂しさを感じた。
(不思議な気分だ)
思えば沙耶を亡くしてから、いつも独りだった。大学で、バイト先で、或いは職場で、人に囲まれる事はあっても、人と関わる事は無かった。そうだ、どれだけ人口が過密であろうとも人は孤独に苛まれる。
しかしどうだろう、人口密度など元の世界と比べ物にならない程希薄なこの世界で、一瞬でも孤独を感じた事があっただろうか。隣に人がいない時間は当然あった。しかし孤独ではなかった。
(元の世界ではいつ死んでも良いと思っていた。独りでいる事になんら思うところは無かった。だが今は独りで死ぬ事が怖いと思う)
それはきっと幸せだから。人がくれた優しい痛みなのだろう。
――だから、僕は……
(ここでは死ねない!)
「来い! ダリオ・アバッティーニ!」
ダリオの目つきが変わった。愉しむ目から戦う目へ。小娘一人と侮ってはくれないという事だ。
ゆっくりと近づくダリオ。その歩みが近づくごとにセラムの鼓動がこめかみ辺りで鳴り響く。緊張と燃え上がる闘志の中、頭の中だけは冷静だった。死にたくないと全身の細胞が叫ぶ。生きる為にどうするかと脳と神経だけが研ぎ澄まされる。
(今ならきっと出来る。師匠……)
セラムは目を細めてカゴメの顔を思い浮かべた。短剣の握りを小指から順に折り、柔らかく持ち直す。視線は定めず全体を見据えながらも、相手の意識の先がどこに向いているかを集中して感じ取る。
バッカスの顔を思い浮かべる。相手の呼吸と足の律動を計る。こちらの呼吸は悟らせないよう静かに空気を吸い込み、自然体を崩さないよう息を止める。
セラムの目が見開かれる。相手の間合いまで後二歩。得物の長さで負ける此方が待つ理由は無い。ダリオの踏み出しと同時にセラムが前方へ滑るように間合いを詰める。短剣を引く動きに合わせてダリオの足先が微妙に動いた。
――今!
(秘剣ラプラス、偽の型!)
相手の次の動きが、一瞬先を体験したかのように見える。避けづらい少し斜めの振り下ろし。それが自分の肩を通り過ぎていくような錯覚。だが実際はまだ敵は剣先すら動かしてはいない。
セラムは大胆に体を捻り、まるで舞うように一回転しながらその軌道から身を逸らした。
ダリオの振り下ろしが地面近くで止まったのと、セラムの回転斬りがダリオの脚を削ったのはほぼ同時だった。その攻防一体の動きはまさにカゴメの剣に似て。
「ぐうっ」
ダリオが信じられない物を見るように自分の脚の傷を見下ろした。
(見える)
敵の次の動きが。剣の軌道を変えての斬り払い。下から少し斜め、横薙ぎに振るう動き。次も肩口を狙って刈ってくる。まるで脳を突き通して張り巡らせた糸を指先の微細な動きで震わせたかのような耳鳴りと共に一瞬先が見える。
(これがカゴメさんの見ている世界……)
しかし自身の動きを迷う暇は無い。ダリオの肩から先が動き出すより速く屈む。ほぼ同時に白刃が髪の先を刈り取る。
(動きを止めてはいけない。カゴメさんの動きを真似て、体を流せ!)
足を止めれば次に対応出来ない。このまま敢えて態勢を崩すように脚を広げ姿勢を低くする。そのついでとばかりに、屈んだ反動で少し上がった腕を上半身の捩りによって回転させる。空の左手は更に上へ、そして短剣を持った右手はダリオの脚目掛けて振り下ろす。その間にも足は地面を滑らせ開脚が百八十度に達しようとしている。
(この体の柔軟さに感謝するっ)
股が地面に付く直前に右肘を地面に突いて支えとし、強引に体を捻って地面を転がり態勢を立て直す。無茶な動きであちこちが痛いが、構っている暇は無い。ダリオの攻撃の意志はまだ止んでいない。そして次来るとしたら魔法だろうというのは、先を読まなくても予想が付いた。
秘剣ラプラスは魔法使い相手には相性が悪い。魔力が見えない為にどこから、何が来るのか読めないからだ。セラムが得ている情報はダリオは風の魔法が得意であり、殺傷力があるのは体の周囲から発射される空気弾である事のみ。ここでセラムは一つの賭けに出た。
そのまま突っ込み頭を無防備に曝け出したのだ。通常なら頭部が木刀で叩かれた西瓜のようになる威力の魔法。しかし明らかに動揺したダリオから放たれたのは、圧縮されきってない、吹き荒れる暴風程度のものだった。セラムの体を浮かす程でもなく、それは青みがかった銀髪を荒々しく靡かせるに留まった。
「やっぱり」
セラムが口角を上げる。
(僕を殺したくない、僕で愉しみたいという思いが透けて見えるお前なら頭は狙わないと思ったよ!)
風に抗って短剣を斬り上げる。ダリオが顔を引き攣らせて後退した。先程からセラムの「眼」に対する慣れの無さや動きの荒さ、得物の短さでダリオに重傷を負わせるには至っていない。
しかし戦えていた。それは思ったより遥かに戦えていた。




