第八十九話 真なる戦士
どれだけの敵を斬ったろう。数を数えるのはとっくにやめてしまっていた。殺気を感じ青龍偃月刀を振り下ろす。血袋を骨ごと両断した確かな手応えを感じる。一仕事を終えた武器を引き戻す際、その重さが億劫に感じる程に疲労が溜まっている。
「ぐっ」
背中に衝撃と痛みが走る。敵の攻撃が来ると分かっていても反応が間に合わない。というか、避ける事すら面倒になっていた。
それでも動かねば。
幸いほぼ鎧で止まっているようで傷は浅い。バッカスは力任せに青龍偃月刀を振り上げ、今斬ってきた相手を斬殺する。
目が霞んで殆ど見えてはいない。それでも得物を振り回せば誰かに当たる状況だった。しかしやはり集中が途切れていたのだろう。大振りの薙ぎ払いは敵が構えた盾に止められ、振動と痺れが指先から脳髄まで響き伝わる。
「~~だ……~っ」
最早バッカスの耳は間近の敵の声も拾ってはくれない。とはいえ何を叫んでいるかは大体予想が付く。動きが止まったこの隙に攻撃しようというのだろう。分かっていても体が動いてくれない。
(やべえ、もうこれで仕舞いか?)
決めかけた覚悟は、唐突に目の前を通り過ぎた矢に「まだ死ぬ時ではない」と射飛ばされる。
その矢が前面の敵の顔に突き立った。今にも刃を振り下ろさんとしていたその体がゆっくりと後ろに倒れる。どうやらフィリーネはまだ無事らしい。もう振り返る余裕すら無いが、こうして無事を確認するのは何度目だろう。覚えているだけでも五回はあった。
「へっ」
鈍磨した神経に電流が通る。少しだけ意識が冴え敵がはっきりと見える。
「まだ死んでやる訳にゃあいかねえなあ!」
バッカスは戦う。その背に守るべき人がいる限り。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
セラムの心中では焦燥感が燻っていた。ダリオの予想外の強さ、地獄の底で降りてきた蜘蛛の糸のように見えた味方の戦闘不能、迫りくる敵集団。それでも諦めたりはしない。この状況の打開策を考え続ける。
(まずは距離を取る。……というかそれしかできないっ)
ダリオに再び背を向けて走り出す。しかしその足は数歩で止まらざるを得なかった。
「お、敵発見! ……しかも、もしかしたら大物だ!」
敵領域の奥底にまで来る少女、そんな奴は噂に聞くヴァイス王国の少将くらいしか思い当たらないだろう。こんな時は自分の名の値打ちを恨む。敵の声を聞いて複数の足音が此方に向かってくる。
「有名税ってのは暴利だな!」
姿勢を低くし増援の脇を通り抜けようと試みる。しかし疲労と体調不良による足の遅さがその望みを叶えさせない。
「おっと」
軽々と捕まってしまう。あまりにも簡単に希望が潰えてしまう。抜け出そうにもどうにもならない体格差が無力感を煽る。
「くっそ、離せ!」
「へっへっへ、俺の手柄だな!」
「あ、ちっくしょ、いいなあ」
勝ち誇る兵士に群がる増援の兵士達。その輪にゆっくりとダリオが近づいた。
「お、あんた最初にこいつを追いかけていた奴だな。悪いな、手柄は俺が貰うぜ。酒くらいは奢ってや……」
その眉間に剣先が嫌な音を立てながら滑り込んだ。間近にいるセラムは骨と金属が擦れ合う様を否が応でも感じ取ってしまい、身の毛がよだった。
「るぺ?」
男の喉から間抜けな音が漏れた。何が起こったか分からない、そんな表情のまま男は血の噴水となった。
「そイつは俺のだゾ!?」
ダリオの周囲から風が巻き起こり、その場にいる全員を吹き飛ばす。態勢を崩したグラーフ王国兵を、ダリオは次々と剣で撫で斬っていく。
「触るな! 壊すのは俺だ! 誰にもやらせるもんか!」
「やめろ! 俺達は味方……」
「ぎゃあ!」
まさに狂戦士。目的の為なら味方殺しも厭わない。……いや、そんな真っ当な人間ではないだろう。奴はただ妄執に憑りつかれて味方など一人もいない状態で生きているだけだ。
(でも僕には頼れる味方がいる。守るべき部下がいる。僕は一人じゃない)
故に。
(ここで死ぬ訳にはいかない!)
死体の腕から抜け出したセラムはダリオと反対方向へ駆け出す。
今は逃げる。最早今のダリオを止められるのは、セラム陣営ではバッカスかベルかフィリーネくらいなものだろう。その三人との合流が望めない現状、自分一人でダリオの隙を作り出す他無い。
(三人は大丈夫だろうか。まああの三人なら心配は無いだろうけど)
誰が為に戦っているのかと問われれば、セラムは身近で大好きな人の為に戦っているだけなのだ。それには共に死線を潜る戦友も含まれる。彼らを生かす為に彼らを死地に追いやる、その矛盾を押し通すからには、自分の命を顧みる贅沢は許されない。
「あいつは、僕が、殺す!」
だから全員で生還しよう。帰って食卓を囲みながら笑い合おう。セラムは決意を新たに拠点の外へとひた走る。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目の前が、暗い。夜という事を差し引いても尚昏い。バッカスは闇に包まれた真昼の砂漠を歩いているような幻覚に襲われていた。喉が渇く。胸中を蝕むのは絶望感と孤独感。
歩く。歩く。もう何人斬ったろう。
歩く。歩く。何の音も聞こえない。
歩く。歩く。もう疲れた。休んでもいいだろうか?
今休めばきっと底なしの泥濘に沈むように、二度と起き上がれないだろう。それでも良い。
そんなにまでも疲れているのに、何故俺の足は進むのか。何かを忘れているようで、無意識の中でも体が止まってくれない。
何の為に?
そんな疑問を持った時、暗闇の中でぼんやりと光を放つものがあった。
「……なんでい、そこに居たのか」
人の形をしたそれは、眠っているように伏して動かない。バッカスは重たい体に鞭を打ってそれを抱き上げると、慈愛に満ちた目で見降ろして言った。
「さあ、帰るぜ。フィリーネ」
広場は死屍累々だった。地面が死体で見えない程凄惨な光景だった。その地獄を作り出したのがたった二人の男女だという事実に、オットーは錯乱一歩手前の状態で路地に避難していた。
「何なんだ……何なんだあいつらは!?」
残る部下は両手で数えられる始末。百人以上は奴ら二人によって殺された。
「オ、オットー五千人将、対象がまた動きました。女を抱きかかえたようです……」
「矢を、矢を番えろ!」
恐怖で手が震える部下を叱咤しながら攻撃準備をさせる。部下の一人が数分掛けて漸く広場に立つバッカスに狙いを定めた。
「化け物め……」
バッカスの体には既に何本もの矢が刺さっている。切り傷や刺し傷は数えきれない程だ。それでも部下を殺し続けたその男には、小指で押すだけでも死にそうだと思っても恐怖が先立った。
「射てえ! 射てえ!」
部下の手は尚も震えていた。それでも奇跡的な事は起きるものだ。その矢は音も無くバッカスの頭に突き立った。
「やった!」
思わず声を上げるオットー。だが次に目にした光景は目を疑わざるを得なかった。脳天に矢が刺さってもバッカスは微動だにしなかったのだ。その膝は地に付く事無く、フィリーネを抱きかかえ立ったままだった。
「本物の化け物か!?」
「おおおオットー五千人長! もう一度射ますか!?」
「待て」
怯える部下を余所に、オットーはその光景に神秘を見た。矢を番えようとする部下を制してオットーはバッカスの目前に歩み出る。
「……見事だ。真の戦士よ」
オットーはバッカスに軍礼で以て敬意を表した。真なる戦士は愛する女を抱いたまま絶命していた。




