第八十六話 逃走狂騒曲
必死に走るセラムを悠々とダリオが追う。
常軌を逸するほど執拗に自分に拘る狂人に追われる恐怖を知る人間がどれだけいるだろうか。セラムは女で子供の体になった自分の体を疎んだ。あのふざけた男に歩幅で勝てない。速度で負ける。捕まれば力で敵わない。唯一勝てそうな要素の持久力も、咳が止まらぬ今は十全に発揮されるを望むべくもなかった。
頭がクラクラする。うまく呼吸が出来ずに酸素が脳に送られない。何の因果で僕はこんな所でストーカーに追いかけられているのだろう、朦朧とした意識の中でそんな思いが頭を擡げる。
――何故僕が逃げなきゃならんのだ。
あいつさえいなければ……そんな怒りが足を止めたがる。どうせあいつが本気を出せばすぐ追いつかれる。追いつかないのは獲物を追い立てるのを楽しんでいる下衆の気まぐれに付き合わされているというだけだ。
――ならいっそ……。
セラム本来の負けず嫌いな性質が玉砕上等の反転へと誘惑する。しかしその足先が揺らぐ度に仲間の顔が浮かぶ。
(駄目だ、退却の鏑矢を鳴らすまでは無駄死には出来ない。考えろ……っ)
咳き込み、よろけ、泣きながらも足は止めない。
「ど~こへ行くんだあ兎ちゃん?」
耳障りな裏返った声と共に靴音が聞こえる。ダリオは最早走る事すらやめたらしい。それでも十分追い立てられる程にセラムの体力は限界のようだった。
(くっそ、体調さえ万全なら!)
それでも勝てはしないだろう。しかしこんな無様な醜態を晒す事はなかった筈だ。
「そうら、追いついてしまうぞうっ」
完全に遊んでいる声が恐怖と怒りを誘う。それにしてもここはどこだろう。
(ただでさえ土地勘が無いが、段々と拠点の外れの方に行っている気がする)
ダリオはただ追いかけている訳ではなさそうだった。拠点の中心部から外れるように誘導されているように感じる。いや、実際そうなのだろう。長く、邪魔されず愉しむ為にセラムの動きを制限しているのだ。
近くに火の手が見えない。という事は味方から大分離れてしまったのだろうか。しかし明るい所へ逃げようとすると巧みにダリオが進路を塞ぐ。
「こうしてると狐狩りを思い出すなア。あれは最初の配置が重要でなア。そこから家来が獲物を追い立てて貴族の前に誘き出すんだ。こちらから獲物を追うんじゃないんだよ。自ずと獲物が目の前に来るように仕向ける知的遊戯なんだ。俺も親に一回連れてもらった事がある。あれは……」
ダリオが嬉々として喋り出す。思い出を語るその様子は、獲物の立場でなければ微笑ましいものだったのかもしれない。しかし。
「……ああ、まだ小さい頃だった。弟が生まれる前の」
急に声色が苛立ち紛れのものに変わった。あまりに急激な転調にその情緒を心配してしまう程に。セラムはその理由について考えを巡らせた。何か些細な事でもこの状況を打破出来る可能性が有るのならば、考える事を止めてはいけない。
(そういえば、こいつの生い立ちについて調べた事があったな)
曲がりなりにも国の重要人物だった人間だ。追放にもっていく前にその背景や性格、友好関係等を調べるのは当然の事だった。
それによると、この男は侯爵家の跡取りとして育てられた幼少期、秀才と言われ周りの期待を一身に背負っていた。特に父親は期待を込めダリオに英才教育を施し、ダリオもまたその期待に応えようと意欲的な子供だったらしい。
しかしある時ダリオが自身の持つ魔法の力を、その意味も知らず父親に披露してしまった事で環境は一変してしまった。元々庶子でありながらも優秀な長男として跡取りとしての立場を築いていたダリオだったが、魔法使いを汚らわしい魔の血筋として蔑視している貴族社会に於いてその事件は極めて重大なものだった。
魔法使いという事を隠していたダリオの母親は追放、唯一の子供だったダリオは追放こそされなかったものの、後年正妻との間に次男が生まれるとダリオは冷遇された。特に両親とは関係が断絶と言える程に冷え切ってしまったらしい。生みの母親も風の噂で病死したと聞き、何をやっても親に無視される少年時代を送ったダリオは、それはもう蛇のように捻じ曲がった。特に魔法使いに対しては複雑な思いを内包したまま、自虐にも似た侮蔑の対象として見るようになったという。
「けどこうして追い立てる役というのもまんざらじゃないなあ。なあ、楽しいだろ、なあ!」
セラムは酸欠気味の頭でどうにか味方に位置を知らせる方法を考えた。
自らが叫ぶのは……駄目だ。確かに手っ取り早いが、ダリオを喜ばせるのも癪だし、何より味方だけでなく敵にも自分の位置を知らせてしまう。特にこんな戦場の奥地で少女の声がしようものなら、その正体がセラムとすぐにばれてしまう。幾ら何でもこの拠点に若い女性の民間人はいないだろうし、軍関係者で敵地に攻め入っている者の声の主ならば、それがヴァイス王国のセラム少将である事は、グラーフ王国の兵士であろうと予想を立てるのは容易い。図らずともセラムは有名人なのだ。
ならば大声を出さず味方が様子を見に来るように仕向けなければならない。大きな音を立てる……程度では弱い。ここは目下戦闘中なのだ。喧噪の中にいるのに、音程度で態々近くに寄っては来ない。寧ろ敵だと遠ざかるだろう。誰かが追われていると知らせなければ意味が無い。
となると一番の手はダリオにもっと大きな声を出してもらう事だろう。そういった事はセラムの得意分野の一つだ。それでもその声を聞きつけた味方が避けるか助けに来るかは賭けの要素が強いが。
セラムはダリオが空気弾の威嚇射撃をしてきた機を見計らって振り返る。そうして嘲るように笑った。
「随分とはしゃいでいるじゃないか魔法使い」
「な……な……っ」
見る間にダリオが戦慄いた。
「なんだと貴様あ!」
予想以上に効果覿面だった。どうやらとっくに理性や自制心が吹っ飛んでいたらしい。
「俺は魔法使いじゃない! 俺を誰だと思っている!? 侯爵家のダリオ・アバッティーニだぞ!」
「魔法使いじゃない? その割には随分と嬉々として景気よく魔法をぶっ放していたじゃないか」
「あれはホウセンの奴にやらされていたからだ! 魔法なんていう不浄の力じゃない! そうだ、これは『操術』だ。魔法なんかじゃない。『魔』じゃない!」
論理が支離滅裂だ。優秀な魔法の才、最愛の母親から受け継いだ力と、その力の所為で父親から捨て子同然の扱いを受けた事実が、受け入れられないままに彼の中で内包していたのだろう。魔法の力をひた隠しにしていたヴァイス王国軍時代、亡命しなりふり構う余裕が無くなったグラーフ王国軍時代。徐々に正気を失う過程でその力を便利な物として使いつつも、その血も自分であるとついぞ受け入れられなかった矛盾した思いが、その狂気を一層加速させたのだろう。
「そうだ、『魔』はお前じゃないか! 汚らわしい魔族めが!」
充血した目でダリオが叫ぶ。その狂い音は周りに存在を知らしめるには十分だった。そしてセラムは幸運だった。いや、悪運と呼ぶべきものだろう。
ダリオが飛び掛かって来るのと味方が辿り着いたのはほぼ同時だった。決死の戦場で狂い人が少女を襲っている様を見た二人のヴァイス王国兵が、一瞬判断を迷ったのは無理もない事だろう。
「こいつを殺せ!」
だがやはり歴戦の勇士達であった。セラムの命令が早いか、兵士達がその少女を守るべき少将だと認識して動いたのが早いか、何にせよすぐさまダリオの側面と背面に広がって連携を決めたのは流石というしかない。
「るるうあ!」
背後からの斬撃を右の剣で受け止め、更にセラムへと放たんとしていた魔法を側面の敵に照準を変更し、迫るヴァイス王国兵の連携を瞬時に防ぎきるダリオ。魔法を受けた味方は吹っ飛び、斬撃を止められた味方はそのまま刀身を滑らせるように勢いを流され回転斬りで胴を分けられた。
(こんなに強かったのかこいつ!?)
飛ばされた味方は壁で頭を強打したのか、動く気配は無い。一瞬だ。一瞬で勇壮なる古参兵を二人戦闘不能にしてみせた狂人は、だらんと垂れた左腕としっかと握られた右の剣から返り血を滴らせながら、幽鬼の如く顔を上げた。
「俺は強くなったろう兎ちゃん。……お前へのっ憎悪がっ! おっれを! 強くさせてくれたんだあ~ぁ!」
裏返った声が恐怖心を煽る。話の通じない、魔物とでも相対しているかのようだ。
「奴らこっちに逃げたぞ!」
更に気配が近づいてくる。状況的にもう味方ではあり得ない。
(くっそ、目の前のストーカーだけで手一杯だというのに……!)
複数の足音が聞こえる。こんな時バッカスかベルかフィリーネがいてくれたら、と切に思う。心強い味方は途中に置いてきてしまった。合流出来るなんて奇跡は望むべくもなかった。




