第八十五話 暗器使いの女
指揮官らしき人物を取り逃したブレージはつまらなそうに目の前の人物を見据える。何分夜中なので顔まではよく分からないが、この戦場の中で裾の長いスカート、侍女服らしき衣装の上に鎧すら着ていない。ヴァイス王国では悪趣味な貴族が戦場にも侍女を連れ歩いて身の回りの世話をさせると聞いた事があるが、それにしたってこんな敵地の奥深くまで連れ歩くのは尋常ではない。苛立ちすら覚える非常識だ。
「俺の名はブレージ。一応、一騎打ちの際には名乗るようにはしているのでな。……ああ、別に覚えなくとも構わん。お前がいくら強かろうと、女を打ち倒したところでこの名が上がる訳ではないからな」
確かに先程の一合でそこらの雑兵より遥かに強い事は分かるが、それでも名を賭けて全力で倒したとしても何の自慢にもならない。とっとと倒すか撒くかして先程の指揮官の後を追うのが賢明だろう。
瞬間、刃がブレージの頭目掛けて飛んできた。女の右手から投擲されたその短刀を、ブレージは首を捻る事で油断なく躱す。侮っていた訳ではないが、それは予想以上に鋭い投擲だった。しかしそれでも只の一投。夜中といえど不意を突かれなければ当たりはしない。躱してさえしまえば後に続かない攻撃だ。
「お前の判断は悪くない。槍と相対するならばその間合い外、飛び道具による遠距離攻撃しか打つ手が無いのは自明の理。しかしその両の手の短刀を投げたところでその後はどうする? あと一投で俺の命に届かなければお前の命が無くなるぞ」
そう言い終わるが早いか、更なる刃が眼前に迫っていた。躊躇無い二投目。
「馬鹿が!」
ブレージは身を捻って躱すと、槍を構え直し間合いを詰めるべく重心を前に掛ける。その踏み出しを、持ち前の反射神経が止めた。あり得ない筈の刃の煌めきをその目が捉えたのだ。
(三投目!?)
ブレージは態勢を崩しながらも槍の柄でその切っ先を弾く。恐らく隠し持っていた必殺の一撃だったのだろう。その攻撃を防いだブレージが一瞬意識を散らしたのは無理もない事だった。
その時、腿裏に鋭い痛みが奔った。誰もいない筈の背後からの攻撃。その正体を掴むのに、ブレージは二秒もの時間を費やした。
「こいつ……短刀の柄に紐を!」
二投目の短刀には柄尻に紐が仕込んであり、紐の操作により手元に戻す事が出来るように改造された代物だった。
突き立ったそれは更に抉るように動くと、離れた所にいる女の元へまるで意志があるかのように舞い、その手に納まる。
女は感心したように小さく息を紡ぐと、スカートの裾を摘み上げ恭しく一礼する。
「初めまして。ジオーネ家メイド長、ベル・レンブラントですわ」
その両の手にはまるで手品のようにいつの間にか短刀が握られていた。一刀は先程の物としても、もう一刀はどこから出したのか全く気付かなかった。
「暗器使い……まるで奇術師だな」
どこに武器を仕込んでいるか分からない。どういった攻撃を仕掛けてくるか予想が付かない。その上この暗さだ。ブレージはその厄介さを悟って辟易した。
地平線を照らすように奥が明るくなった。どうやら敵は外壁に火を点けたらしい。ゆっくりはしていられない。ブレージは暗器を恐れず大地を蹴った。
一方、余裕を演出しているベルもまた焦っていた。彼女の第一目標はセラムの守護であるにも関わらず、こんな所で一人の敵を相手にしている。その時点で好ましくない展開だ。一刻も早くこの敵を片付けてセラムの後を追わなければならない。だが目の前の敵はそう易々と倒せる相手ではなさそうであった。
(直接戦闘するなんて何年ぶりでしょうか)
訓練は怠っていない。しかしこの十余年はあまりに平和だった。強敵と真っ向から戦う事に不安が無いとは言えない。
腿を抉った筈の敵が力強く踏み込んできた。その予想外の速度に何をする間も無く間合いを詰められる。点だった切っ先がそのまま瞬間移動するような鋭く正確な刺突。ベルが知る槍使いの中でも彼は特段の使い手のようだった。
(この距離は、まずい)
身を滑り込ませるように槍の間合いの内へと踏み込む。中距離は槍の独擅場。短刀では届かず、投擲も出来ない。かといって間合いを取らせてくれる程間抜けではなさそうだった。互いの身を密着させるようにと歩を進める。
「近距離戦へか。お前は正しい。だがっ」
ブレージの槍が吸い込まれるように手元へと引っ込んだ。槍は中距離戦が得意な為、近距離戦が不得手だと思われがちだがそうではない。ただ単に中距離が一方的に攻撃出来る間合いであるというだけの事だ。短く持てば短剣、払えば太刀に似、柄でも石突でも攻撃が可能な千変万化な技を持つ。周りに空間さえあれば弱点など無い。
押し当てられる槍の穂先に、ベルは右手を割り込ませた。構わず腕ごと貫かんとする槍が耳障りな金属音と共に軌道を逸らす。袖の中に仕込んだ短刀が籠手代わりとなって防いだのだ。
その身の捻りを活かし、右足でブレージの側頭を狙う。軟体動物のように柔らかくしなった回し蹴りは、瞬時に上半身を後ろに反らしたブレージに躱された。しかしベルは身を宙に投げ出し追撃を見舞う。
スカートが広がりブレージの視界を奪う。何が起こったか、彼の視点からでは分からなかっただろう。回し蹴りの遠心力を利用した飛び後ろ回し蹴りが本命の二連蹴りだったのだ。その踵はブレージのこめかみを捉え、その五体を地面に薙ぎ倒す。
並みの戦士ならばその場で勝負あっただろう。倒れた敵の喉笛に刃を突き立てれば良い。しかしブレージは並みではなかった。衝撃で感覚不全に陥りながらもその槍が更なる追撃を許さない。ベルはすぐさま後方に飛び退りながら空中で短刀を放った。
一刀が頭を掠め、もう一刀が腕に刺さる。
「がああああ!」
ブレージは咆哮と共に飛び起き、槍を構えた。その戦意は折れる事を知らないかのようだった。
ベルは紐を引っ張り短刀を引き戻しながら、この敵がセラムを追わせないように留めた判断の正しさに安堵し、刻一刻と過ぎる時間をこの敵に費やさねばならない厄介さを呪った。




