第八十四話 動乱中の静寂
幾時が経ったのだろう、自身の感覚では数時間のようだが、実際には数分の出来事かもしれない。広間に陣取る敵との睨み合いは、お互い進展の無いままに戦況から取り残されていた。
もしこの状態が本当に他部隊から隔絶されたものだったのならば、フィリーネ達の行動は勝利へと貢献している事だろう。だがこれが敵将オットーの目論見通りのものであったならば、フィリーネ達は何一つ役立たぬままにここに取り残されている事になる。その判断が付かないのは、将の経験が無いフィリーネではどうしようもない事であった。
(どうしますかね……。このまま徒に時を消費して良いものか)
既に三回斉射したものの、敵部隊及び敵将に有効な打撃を与えられていない。敵は篝火の傍で動こうとはせず、最初の一部隊以外増援は来ていない。敵将を孤立させしめているように見えない事もない。
だがどうだろう。敵は気付かれないように戦場全体の指揮を既に執っているのではないか、若しくは立て直しの布石を打っている最中なのではないだろうか、そんな不安が鎌首をもたげる。
いや、もう遅いのかもしれない。敵は一度目の増援に指示を出してこの場を離れさせている。敵としてはあれでもう十分なのではないか、もう敢えて動く必要が無い程に場を鎮静させてしまっているのではないか、そう思えて仕方がない。いや、あんな小部隊への命令一つで夜襲で混乱したこの戦況が何とかなるものか、そう信じたい自分もいる。
(どうなのでしょう……? このまま動かざるべきか、それとも危険を承知で突っ込むべきか……?)
何の策も無く特攻すれば待ち構える敵の餌食になるのは目に見えている。それでも敵将を殺せればこちらの勝ちだ。しかしガチガチに守りを固めた数に勝る敵を押し退けて敵将を殺す方法など、到底思いつかない。余程の幸運が重なればどさくさに紛れて狙撃も可能かもしれないが、不確かな方法に賭けた挙句短時間でやられてしまっては、自分達どころかこの作戦の成否も、セラムの安否も危うい。
結果この睨み合いを続けている。せめて感覚通りに数時間も経っていれば良いのだが、実際はそんなに時間は経っていないのだろう。
(どうあれ次の増援が来たら動かなくてはならないでしょう。敵の動き次第で敵に突っ込むか、この場を離れて敵の情報の寸断、攪乱に徹するかを決めなくては)
焦れるフィリーネと対照的に敵将オットーの様子は泰然自若としている。指揮経験の違いが両者の動きを違ったものにしていた。
不意に奥の路地が騒がしくなった。複数人の足音、望んでいない変化が訪れようとしていた。
「オットー五千人将!」
やはりというか、この状況で敵以外にこの場に来る筈がない。決断の時、フィリーネは敵の動向に注視した。
オットーは広場に到着した部下を静かに近づけると、此方に聞こえない声量で何らかの指示をした。命令を聞いた部隊長が頷き元来た道を引き返す。その妙な動きはフィリーネの心中をざわつかせた。
去り際に敵部隊の一人がちらりと後方を振り返った。その角度は指揮官であるオットーの方角ではない。況してや屋根の上のフィリーネを見た訳でもない。だがその動きで敵の狙いはフィリーネの中で確信に変わった。
フィリーネは伏せた状態からやおら身を起こし四足獣の如く構えた。肺に目一杯の空気を溜め込む。今すぐ吐き出してはいけない。耳元で高鳴る動悸を数えながら、フィリーネは好機を計った。やがて先程の部隊の足音が十分に遠ざかったその時、フィリーネはありったけの声量で吠えた。
「全軍、突貫! 敵大将の首だけを狙え! 後ろから挟まれるぞ!」
先程の部隊は回り込んで路地に待機する歩兵の背後を突かせる為の部隊だったのだ。敵はここで我らを殲滅して拠点の指揮系統を回復させる目論見だ。こうなれば一か八か、敵将の首狙いで特攻するしかない。
(私は暗殺者だ。味方に紛れて敵将の命を獲る。私ならばそれが出来る……。やらなければならない……!)
こんな時にもっと味方がいれば、と思わざるを得ない。ふとフィリーネの脳裏に浮かんだのは、何故かバッカスの顔だった。
(何故に!? ベル様でもセラム様でもなく! 男嫌いの私が何故あんな奴の事をこんな時に思い出す!?)
当の本人も混乱していた。最近普通に話せるようになり、男の中ではよく話す方だからだろうか。それともこういう状況で頼りになる人間だからだろうか。確かに腕っぷしは認めるものがあるが……。
(ないない)
フィリーネはぶんぶんと首を横に振って雑念を振り払い、勢いに任せ自分を鼓舞するかのように再度吠えた。




