第七十三話 戦況、動く
「くちゅんっ」
セラムがくしゃみをした。体が変わってくしゃみも可愛くなったのか、微笑ましいくしゃみは全くの無意識なものだ。昔は盛大に飛沫を飛ばしていたものだが。
「大丈夫ですか?」
カルロが心配そうに覗き込む。鼻かみ紙まで用意しているところがこの男の苦労人たる所以だ。
「だい……けほっけほっ、大丈夫だ。ズズー、風邪でもひいたかな」
「気を付けてください。少将のお体は国の大事ですから」
「んな大袈裟な」
軽く返すセラムだが、カルロの目は全く笑っていない。
「まあ大丈夫だ。しかし竜騎士は本当に厄介だな」
「蒸気圧力式大砲があったら落とせますかねえ」
「んー、無理だろうな。射程や威力は兎も角あれは準備に一時間近く掛かる。いつ来るか分からん敵に使える代物じゃない。しかも壊されてから二機は増産したが、城の守り以外の用途に使うのが許されなくなってしまった」
メルベルク砦での戦果は兎も角、何の成果も無く全ての蒸気圧力式大砲を壊されたのは失態であり、大きな損失だった。元々高価な上に活躍の場も少なかった兵器だ。この措置は仕方ないといえる。
「移動準備整いました」
部下の報告が届く。今一番防備が薄い所へ、そうなると中央から少し離れてしまうが、中央には砦も築いた上に何かあれば即応出来るようセラム隊の態勢は整えている。どこに攻められても対応出来るようにする為の移動だ。
「よし、布陣する!」
移動も終え布陣が漸く整った頃、敵を目視せりと報告が入ってきた。やはり読み通りこの場所へ向かってきたらしい。
「迎撃態勢用意!」
塹壕と土塁に守られた鉄壁の陣がその姿を現す。弓兵を中心にした防御陣に、騎馬の予備隊が控えている。敵が多数いようとも、そうそう突破出来るものではない筈だ。
しかし、というべきか、やはり、というべきか、突進してくる敵に動きがあった。
「敵、二手に分かれます!」
物見の報告にセラムも遠望鏡を覗き込む。まるで二つ頭の蛇のように、正面に突進し続ける隊と、南……つまり中央方面に行かんとする隊とに分かれていくのが見えた。
しかも南進する隊に嫌な熱を感じた。セラムはその熱に覚えがあった。あのバッカスと引き分けたという猛将の気配だった。
「いかん、此方は囮だ!」
セラムが即座に塹壕を出て正面の敵を討つよう命令を下す。即座に潰して中央に援軍として駆け付ける算段だった。
「有利を捨てるおつもりですか。分かれた敵が退き返して来る可能性は」
「ある!」
カルロの言に当然のように危険性を宣うセラム。
「それでもだ!」
「ならばここに少数の兵を残し裏から回られませい。前進するのは危険です」
「あの将はそれでは駄目だ!」
セラムが声を荒げる。味方の屍を踏みしだいて突破してくるような将なのだ。防衛線の内側から回って援軍を送り中央の兵を単純に増やしたとしても、奴は必ず突破口をこじ上げてくるだろう。
セラムは嫌な予感を感じていた。敵の本気度の違いを感じ取っていたのだ。根拠はと言われても答えられない、これは今迄の戦場で培ってきた勘というべきものだった。強いて言うなら、竜騎士が現れてからの敵の攻め方とは違っている点だろうか。弱点に最短でぶつかって来ては退くというものではなさそうだった。
「今中央の砦を守っているのは階級が高いだけの貴族のボンボンだ。単純に兵数を増やしても駄目だ。かといって僕が指揮権を奪っても守りきれるかは分からない。だからこそだ!」
セラムは喋りながら馬に乗る。こんな時に限ってバッカスを傍に置かなかった事が悔やまれる。突進力と武力に長けた彼なら敵を中央から切り裂いてそのままの勢いで本体を猛追しただろう。しかし対応力を重視した為に今は五百の兵を預けて少し北に布陣させていた。今のバッカスなら将として扱っても問題ないだろうという判断で防衛を任せてしまっている。
過ぎた事を悔やんでも仕方ない。分かれた敵を挟撃すべく既に南へは早馬を出した。これは時間との勝負だという敵の意志を受け取り、セラムは塹壕に橋を架けさせつつ全軍に響くように号令した。
「今この正面の敵を素早く潰して敵を追いかける! 南側の兵と呼応して敵を挟撃すれば三方を囲まれた敵は必ず倒せる! 全軍、突撃!」
セラムは敢えて打って出て接敵する。その敵がどういうものかを知らず。
戦意激しく突進したセラム隊であったが、その敵は一言で言えば異様だった。
「待ってくれ! 俺達は同郷だ! ヴァイス王国の者だ! 保護してくれ!」
「行くぜ野郎共! 敵将の首を獲ったら雇い主は報酬をたんまり弾むそうだ!」
「本当だ! 少なくとも俺は戦う気は無い!」
「楽しい楽しいオシゴトの時間だぜおらあ!」
「前進だ! 前進しろ!」
「何だこの敵共は……」
セラム隊が戸惑った。正面へ分かれた敵の隊の約半数はどうやらヴァイス王国出身の戦奴達。約半数は恐らく傭兵。そしてその尻を牧羊犬のように追い回しけしかけるグラーフ王国の軍人。
凡そ軍の態を成していない。だが戦意の無い自国民も混じっている為に攻めきるのは躊躇した。
「隊長、これはどうすれば……」
「狼狽えるな! こ…………防御に徹し指示を待て!」
最前線ではやはり混乱が起こっていた。武器を捨てる戦奴を盾に傭兵達が殺しに掛かる。戦奴が戦線を離脱しようとするとグラーフ王国軍の正規兵が押し込めるように誘導する。混沌を煮詰めたような戦場だった。
「少将、如何いたしますか」
この様子に迅速な判断が必要と感じたカルロが問う。どのような判断でも従う、その目はそう訴えていた。
しかしセラムが下した決断はある意味セラムらしい、守ると決意した「甘ちゃん」な命令だった。
「兵を二隊に分ける! 五百は防衛、ここを収めろ! 残りの千で分かれた奴らを追う!」
セラムの耳は近づく馬蹄の音を察知していた。ある確信を持って更に命令を下す。
「追う千はカルロが率いろ」
「しかし少将、たったの五百では少将の身が危険です」
「心配無い」
セラムは親指で北の地平を指した。そこには敵の物とは違う砂煙が立ち込めていた。
「バッカスが来てくれた。混乱したこの場をバッカスごと収めるには僕が残らねばならん」
「……はっ!」
カルロはそれ以上は何も言わずすぐさま兵を纏めて敵を追った。セラムの心配は尽きないが、セラムの判断とバッカスの武は信頼していた。
「次の指示があるまで守りに徹しろ。三十騎だけ僕に付いて来い!」
セラムはバッカスと合流すべく馬を奔らせた。このままではバッカスが戦奴達と交戦してしまう。その前にやらねばならぬ事があった。
「タイショー、ご無事で!」
「バッカス、敵と交戦する前に僕の言う通りに敵に勧告しろ。お前の、威圧感の中に温かみが内包した大声が必要だ」
「へえ……?」
困惑するバッカスにセラムは手短に今の状況を説明すると、一言一句同じ事を言うようバッカスに伝えた。それに続いてバッカスが混沌と化した戦場に大音声を轟かせる。
「我々は~ヴァイス王国軍である! 三つ数える間に戦意の無い者は武器を捨てろぅ! 三つ数えても尚武器を持ったままの者は容赦なく攻撃するぜい!」
敵味方が入り乱れ始めた戦場の時が一瞬止まる。
「三!」
「あの声は雷獣だ!」
「本当だ、あれは雷獣だ!」
「お、おれは戦わねえ。武器は捨てる」
「貴様らあ! 勝手に捨てるな!」
「お、おい、どうするよ」
味方は意図を察し行動に移す準備をし、敵の動きは鈍くなった。何せ相手は増援が到着した上に自分達の意識はバラバラなのである。多額の報酬に目が眩み戦意旺盛な傭兵とて所詮雇われの身、こんな烏合の衆で敵に勝ち切ろうなどと思ってはいない。どのような身分であれ、身の振り方を考えさせてしまうに十分な秒読みだった。
「二!」
その隙を突いてカルロ率いる千が戦場を離脱する。あっと言う間に分かれた敵を追って行ってしまう。
「一!」
セラムは自分の隊に戻り指揮を執るべく駆ける。なるべく早くここを片付けて百でも多くカルロに付けてやりたい。敵と味方が静止する中、セラムと護衛の三十騎だけが動いていた。
否、もう一人いた。その影は戦場にあっては小柄で、ゆらり揺らめく陽炎のように静止した戦場を動いていた。その陽炎の正体が袴に洋装を組み合わせた特徴的な服だと分かった時、セラムとその影の両者が止まった。
「カゴメさん……」




