第七十一話 シュレディンガーの猫は生きているか
マレーラ大平原で戦端が開かれてから二か月、戦況は膠着状態にあった。連合国軍は、グラーフ王国軍の竜騎士を用いた航空偵察による、効率的かつ効果的な戦力投入に悩まされながらも、防衛線を下げる事無く粘り強く奮戦していた。
竜騎士が確認された当初、セラムは戦力が集中する箇所を随時変動させる「流動戦術」を提唱したが、総司令であるリーンハルトの回答は「不要」であった。戦力を平均化させる事でどのような戦術にも対応出来ると断じたのだ。
実際、ゼイウン公国軍にとってはその対応は正しかった。平均的に高水準な軍隊であれば対応力の高い策なのは間違いなかった。しかし歪な戦力を持つノワール共和国軍やヴァイス王国軍では広い戦線を保つ事は不可能とみて、セラムはノワール共和国軍と協同して流動戦術を実施。それは攻め寄せるグラーフ王国軍に対し一定の効果を示した。
しかし不規則かつ頻繁に移動を強いる戦術は、確実に軍に疲労を蓄積させていった。更に総司令の意向に背きこの戦術を強行した事によって、ゼイウン公国軍とヴァイス、ノワール共和国両軍の間に亀裂が入る。僅かながら、しかし確実に連合国軍側の歩調が乱れ始めていた。
一方、グラーフ王国軍にも焦燥感が漂い始めていた。野戦である筈の大会戦は思わぬ長期戦に発展し、当初掻き集めた糧食の底が見え始めていたのである。
また、今迄前線を担っていた戦奴達に厭戦感情が蔓延。原因は夜中になると聞こえてくる彼らの故郷の歌であった。それが連合国軍側の策略だとは分かっていたが、歌という兵器に対抗する武器は無く、戦奴達に望郷の思いが募っていった。これを重く見たホウセンらは戦奴を一時後方に引き揚げ再教育する事を決意。他方面にいた戦奴と入れ替える事により対応したものの、動かせる戦力が目減りしたのは疑いようもなかった。
「搦め手で来たか」
まったく鬱陶しい、とホウセンが吐き捨てる。その彼を照らす太陽が突風と共に隠れた。二騎の竜騎士が帰還したのだ。
「おう、ご苦労さん! 繋ぎ止めてから報告書を書いてくれ。ワイバーンの飯は用意してあるからたっぷり食わせてやんな」
「はっ! 忝い」
ホウセンの部下達は相変わらず恐る恐る用意した鎖を竜騎士に手渡す。ホウセンはワイバーンが大人しく鎖に繋がれ、小山程に積まれた飼葉や肉、水に涎を垂らす様を見て呟いた。
「ワイバーンが思いの外雑食だったのはありがてえこったな。これで肉食だったらマジで用意しきれねえ。奴隷共を潰すしかなくなるところだったぜ」
「物騒な事を」
横合いから若く覇気のある女の声がする。いつの間にかチカとユーリが隣に立っていた。
「だけどあの量は流石に辛いよ。彼らの一日のご飯と水の量が五百キロだよ? 四頭分の一日の消費量で兵士が千人賄えるんだよ?」
「その代わり兵士千人いても出来ない仕事をしてくれる。一頭で万人の価値はあるさ」
「だが偵察に行かせるのも二頭ずつ、しかも付かず離れずで運用しておってはあまり広範囲の事は分かるまい? 実際、偵察からの時間差で攻めの成果があまり芳しくない。私は最初にやったように一気に全方位に飛ばす方が良いと思う」
チカも竜騎士隊の運用方法に疑問を持っているようだった。ホウセンが提示したやり方は二騎一組、しかも距離を離さず飛ばす上、交代制を敷き一組ずつ偵察させるというものだった。これではチカの言う通り見える範囲が狭く偵察漏れがある。実際、戦力の薄い所に攻め入ったつもりが十分に補充されていた事が何度もあった。連合軍が上手く戦力を動かしているからではあろうが、もっと広範囲を見ていれば敵がどのように動くかまで予測して攻める事が出来た筈なのだ。しかしホウセンは頑としてこのやり方を譲らない。一度に四騎飛ばしたのは最初のみであった。
それというのも竜騎士隊の貴重さに起因する。もし現代の偵察機のように機械であればチカの言う通り全機発進を繰り返しただろう。機械は燃料さえあれば動き、修理も生産も可能だからだ。
しかしワイバーンはなまものだ。疲労もすれば怪我や病気もする。もし万が一敵の矢や魔法にでも当たり喪失してしまえば、もう補充する事は叶わない。故にその運用は安全第一、決して無理をさせない事を徹底させた。
「確かに合理的たぁ言えねえ。が、万が一があってみろ。マクシムの旦那にどやされちまわあ」
ホウセンが冗談めかして言う。ユーリもチカもホウセンの真意は理解している。言われずとも理解出来るからこそ敢えて苦言を呈しに来たのだ。
「だけどねホウセン殿。この決戦に向けて掻き集めた糧秣はもう底が見えてきている。少しずつ減らしたご飯の量だって兵士に薄々感じられているんだ。そろそろなりふり構っていられなくなるよ」
「敵さんの警戒態勢が厄介だの。ゼイウンの奴ら、徹底的に我らの輸送を邪魔してくれる。潰されたのもあるから遠回りせざるを得ん。輸送隊は悪路に苦戦しておるそうだ。計画よりも遅れておるし、届く量も少ない」
困った様子のユーリに不機嫌なチカが続く。敵の思うようにやられているのが我慢ならんといった口調だった。
「気持ちは分かるぜ。けど今は相手を疲弊させ続けているだけでいい。それが重要だ。今に無理が出てくる。そこで的確に突けるように整えておく事が大事なんだ」
「糧秣の問題はどうするんだい? こんな何も無い平野では略奪も狩猟も出来ない。今に軍馬を潰し、その内人さえも食うような状況になりかねないよ」
「それもどうにかする」
「例の秘策か。だが失敗したらどうする。敵の持久戦術にまんまと嵌って潰走するなんてオチは私は嫌だぞ。そんな事になる位なら特攻して一人でも多くの敵を道連れにしてやるわ」
「チ~カ~ちゃ~ん?」
「という血気盛んな部下もいての」
ホウセンが呆れるように凄んでみせるも、当のチカは涼しい顔で刺しにきた棘を逸らす。
「はあ。まあそうならないようにもうちょっと抑えててくれや。敵の食糧庫は一つ発見してるし、目ぼしい拠点もいくつか見つけてる。そして相手にゃあこっちの食糧庫の位置はバレちゃあいねえ。もう一押しで形勢は傾くんだよ」
そう言うホウセンを後押しするかのように、ホウセンの部下が吉報を携えてきた。
「例の補給が届きました!」
「マジか! 首尾はどうだ?」
「万事滞りなく。物資量も相当数、まずは第一便ですが、これから順次送られるそうです」
「ようし! よくやった!」
ホウセンが珍しく声を大にして喜んだ。
「例の秘策その一かえ?」
「そうさ。これで補給面は問題無い。ま、本国からはあまり長引かせてくれるなとお小言は言われたけどな」
「うちの国は元々貧乏だからねえ。食べ物に関しては昔から苦労しっぱなしだよ。とっとと貿易出来るようになればいいんだけど」
三人の中では唯一グラーフ王国で生まれ育った者として、ユーリがしみじみと溜息を吐く。
「この決戦が終われば大勢は決するさ。そして俺がこの国最強の将になる。ついでに周辺諸国も併呑して大陸最強。その内神にすら認めさせてやるよ、俺が最強って事をな」
ホウセンがぐっと拳を握る。「最強」、ホウセンが口癖のように言うその目標。チカは戦士として共感するところもあるが、ユーリにはそれがそこまで価値あるものなのか疑問に思う。皆の暮らしが豊かになれば誰が最強だとか、そんなものは些事ではないかと思うのだ。
「いつも思うけど、何でホウセン殿は最強に拘るんだい?」
「何故だって? ……ふむ」
ホウセンは顎に手を当てて暫し考える。
「シュレディンガーの猫という話を知ってるか?」
「いや、知らないね」
「私も知らん」
ホウセンは言ってから別世界の話だったと気が付いた。
「猫を見えないように箱に閉じ込める。そしてその中に毒ガスを注入する装置を仕込む。毒ガスが出る確率はランダム……不確定だ。さて次に箱を開けた時、中の猫は死んでいるか?」
「いやそんなの見てみないと分からないでしょ」
「そうだろうな。何せ誰も見ていないんだから。元々これは量子力学の思考実験で、事象は観測される事で確定する、確定するまでは異なる複数の事象が等価かつ同時に存在するっつう理論に疑問を投げかける為のもんでな。その考えだとこの猫は箱を開けて中の様子を確認するまで生きていてかつ死んでいる状態になっちまう。だから矛盾しているっつう話なんだが」
「よう分からん。何が言いたいんだお主は」
チカが耳をピコピコと動かしながら続きを促す。
「俺はこう思うんだよ。問うまでもない、死んでいるって」
「何故だい?」
ユーリも疑問符を浮かべる。
「毒を注入されたからかい? それを観測出来ないから確定しないっていう話だろう?」
「そんな事よりもっと単純な話さ。生物は生きている限り死を迎える。これは不変の真理だ。即ち生物は生きながらにして死んでいるも同義。俺達は既に『死』が確定しているのさ」
「哲学だの。意外だ、お主がそんな哲学的な事を論じる空想家だったとは」
チカが目を丸くした。徹底的な現実主義な男だと思っていたばかりに意外な一面に驚きを隠せない。
「へっ。……人は生きながらにして死んでいる。ならばせめて死んでるように生きたくはねぇじゃねえか。俺が生きていた証を残すような生き方をしてえじゃねえか。這ってもがいて生き抜いた爪痕を残してえじゃねえか」
ホウセンは空を見上げる。果てなく抜けるような晴天は、その声をどこまでも遠く届けるだろう。願わくばその宣言が神にすら届くようにとホウセンは深い蒼を睨めつけた。




