第六十八話 戦局
「失礼します少将閣下、定時報告に参りました!」
リオネロは緊張した面持ちでテントの前に立って声を張り上げた。先日中尉になったばかりの彼は今、遥か遠くの存在だと思っていた噂の少将を直接見る機会に恵まれていた。それとも「そんなはめになった」と表現した方が正しいのだろうか。この気持ちは彼自身にも説明しづらい。
彼の少将は非常に世間を騒がせる存在である。まず僅か十三歳、成人すらしていないという異例の将官である。少し前なら考えられない事だ。何せ軍隊に入るのにも年齢制限というものがある。一年と少し前までは成人した者しか入隊は許されなかった。少年兵という新しい概念が出来たのは、非常時に合わせた新制度になってからだ。その新制度も彼の少将が草案したという専らの噂だった。
彼の少将、などというと男性を想像してしまうが、意外な事に女性である。しかしながら、軍隊に入ってこの一年と少しの間で上げた武功は数知れない。あの「碧烏勲章」を賜っているのだから、それがガセの類いではない事が証明されている。
また、大層な美貌の持ち主、という噂だ。一度訓示を受けたが、その時は遠くの列だったので肉眼ではよく見えなかった。ただ、横の兵士と比べて随分と小さかったのが印象的だった。武勲といっても直接的な武勇で上げたものではないらしい。その容姿からか、それとも病院の建設等、医療に力を入れているからか、「戦場の天使」と渾名されているのは出来過ぎな気もする。
但し良い噂ばかりという訳でもない。彼女には常に黒い噂が付き纏う。その筆頭が魔族。国の上層部が魔族だなどと、まるで悪い物語のようだが、全く根も葉もないという訳でもないらしい。ゼイウン公国軍が四万人を動員しても陥とせなかった、一万からの敵が籠城する堅牢な砦をたった二千の兵、たった一日半で陥としたという、あのメルベルク砦の攻城戦で魔物を使ったという話だ。
一応、その話は偶発的な事故が重なったと公表されたし、魔族容疑は教会から正式に取り下げられたが、今でも兵士達の間では疑いを持つ者もいる。
そんな恐ろしげな人物にこれから面通りしようというのだ。緊張するなという方が無理がある。
「入れ」
短いながらも凛とした少女の声。予想よりもずっと幼い声に内心の動揺を必死で隠しながらリオネロはテントの入り口の幕を押す。
「失礼します!」
幕の中はいつもリオネロが寝ているテントよりも広い。あの寝返りを打てば隣の奴を蹴ってしまうような窮屈さとの格差を心の内で感じながら、その中央に座る人物に注目する。
一人は老人といって差し支えない年季と、それに相応しい威厳を感じる将校。その向かいに座って頭を抱えている、椅子に座った状態で足が地に支えられていない少女が件の少将なのだろう。その様子からはとても信じられない事ではあるのだが。
「報告します。塹壕敷設は順調に進んでいます。ただ、我が軍の兵士とノワール共和国軍の兵士との喧嘩が二件ありました。そちらはその場の指揮官が直ぐに仲裁に入っています」
「そうか」
彼の少将は難しい表情のまま一言そう言った。そのまま視線をこちらに向ける事も無く紙の上に乗った駒を動かす。
(あれは……戦棋?)
戦場の只中だというのに呑気なものだ、とリオネロは不快感を持った。お偉い将校だか何だか知らないが俺達は生死を賭けてるんだぞと、その場に人さえ居なければ唾棄していただろう。
「……それでは失礼します」
一礼して一歩下がったリオネロに少女の声が掛かった。
「その喧嘩の原因は何だった?」
「は? ええ……」
今まさに出ていこうというところだったので少しどもってしまったが、問われた件について記憶を探る。
「確か飯の量が両軍で違うとか何とか……」
「そうか。その指揮官に詳しい内容を報告書にして提出させてくれ」
「了解致しました。それでは」
リオネロはその場を去ると、煮え切らない思いで上官の元へと歩く。何故俺が伝言を、とか、一瞥すらしないのか、とか、普段なら全く怒りを感じる要素すらないような事で苛立つ。その原因は何だろうかと地面に問いかけながら歩を止めた矢先、戦場には不釣り合いな少年の声がリオネロを呼び止めた。
「リオネロさん、お疲れ様です。どうでした? セラム少将は」
彼は二コラという。前述した新制度の元、志願して入隊した少年兵だ。年は確か十三だったか、件のセラム少将と同じ歳だな、と思い至る。
周りに誰も居ない事を確認してリオネロは小声で思いの丈を吐き出す。
「どうもこうも、こっちが報告してんのに視線もくれねえわ、何か戦棋で遊んでるわで最悪だぜ。お前あの少将に憧れているようだけどな、過大な幻想は抱くもんじゃねえぞ」
苛立ちが必要の無い愚痴を少年に対してぶつけさせる。二コラはぽかんと口を開けて聞いていたが、やがて人好きのする笑顔で言った。
「リオネロさんは随分とセラム少将に期待していたんですね」
「なっ」
反射的に言い返そうとしたが、相手が子供である事がそれを呑み込ませた。しかしよくよく思い返してみれば、この苛立ちの元は今二コラが言った「期待」の裏返しなのではないかと思い至る。
リオネロは期待していた。会う前からどんな大人物かと胸を高鳴らせていた。それが素っ気無い態度……いや、今思えば遥か上の上官なのだから当然の態度なのだが、兎に角そんな些細な事一つ一つが気に入らなかったのだ。
「でも戦棋ですか……。リオネロさん、それって地図上でやってませんでしたか?」
「ん? ああ、地図かは知らねえが何か紙の上でやってたよ」
「だとしたらそれは戦棋をやっていたんじゃなくて、戦棋の駒で戦略を練っていたのではないでしょうか。戦棋は元々戦略を練る時の地図と駒から発展した遊戯だと聞いた事があります。何でも今の参謀殿は無類の戦棋好きだそうで、戦場に戦棋を持ち込んでその駒で戦術を立てていたとか」
リオネロは今更になって自分が冷静さを欠いていた事に気が付かされた。実際のところは二コラが言った通りなのだろう。つまり何一つ彼の少将に落ち度はなく、勝手に怒りを募らせて二コラに苛立ちをぶつけたという事だ。
「……わりい。俺が間違ってた。何にも分かっちゃいなかったわ」
「いえいえいえ、そんな謝られても。僕は気にしていませんし、大丈夫です」
二コラに謝ってすっきりしたところで、リオネロははたと気付く。
「だとしたらあの険しい表情って、戦局があんまりよくないのかな」
「どうでしょうね。まだ戦闘が始まったばっかりですし、考える事も多いのかもしれません。何にせよ僕達のような下っ端では想像できない事が色々あるんでしょう」
「ま、そうだな」
そうして二コラに礼を言い、リオネロは上官に報告しに戻った。今度は自軍とノワール共和国軍の下っ端同士の喧嘩の原因を、もう少し上の下っ端に書かせる為に。




