第四十話 決戦開始
現状、国内外問わずセラムの評価は分かれるところであるが、一つ美点を上げるとすればそれは軽快さであろう。ともすれば退却してくる敵と鉢合わせしかねない時期にいの一番でマレーラ大平原に入ったのは、セラムと一万のヴァイス王国兵だった。その内訳は全て工兵や輜重兵といった補助兵科である。それらが一般の歩兵と兼ねている他国の兵ならばいざ知らず、セラムが再編成したヴァイス王国の補助兵科は専門化された準戦闘員ばかり。もし敵兵と鉢合わせすれば成す術無く蹂躙されるだろう。
そんな大胆な用兵をするのも、まさか一万もの大軍が全て戦闘兵科ではないなどとは退却する途中の敵は思いもよらず、まず戦闘を避けるだろうという目算があるからである。とはいえそれを実行に移す肝の太さは並大抵のものではない。
「円匙の二千五百番から二千九百九十九番までを東側の区画に送ってくださあい。必ず図面通りに、図面で分かりにくい所はありませんか? もしあれば言ってください。ご説明しまーす」
年若い、いや声変わりすらしていない少年が声を張る。法改正で十二歳から軍に入る事が出来るようになったとはいえ、まだまだ珍しい少年兵である。彼らの多くは工兵や輜重兵の経理部等の事務方や軍楽隊に所属する事が多い。高い声を張り上げている彼もまたそうなのだろう。間違いなく新兵と思われるその後姿を見て、セラムは足を忍ばせそっと近づいた。
「わっ!」
「うわあ!」
不意に真後ろから声を掛けられた少年が飛び退る。セラムはその驚きように満足し頷いた。
「結構結構、頑張っておるかね? 少年」
少年は自分を驚かせた正体がさして歳の変わらぬ少女だと分かると目をぱちくりとさせていたが、その立派な軍服姿と階級章、そしてその端正な顔立ちを見て声を上ずらせた。
「セ、セラム少将!」
「ん」
似合わない敬礼に対し軽く答礼をし、少年の腕を下させる。
「どうだい、仕事には慣れてきたかい? 上手くいかない事や不満は無いかい? こうすれば良いのにと思う事があれば遠慮なく言ってくれ」
「い、いえそんな滅相も無い。僕、いえ自分はセラム少将の下で働けるだけで幸せであります!」
緊張で震えながらもきらきらとした目で少年が言う。現代風に言うならば、セラムは少年にとってのアイドルなのだ。
実際、セラムはヴァイス王国にとってアイドル的な人気と存在感がある。元々の器量と身分に加え、幾人もの戦傷人を治す為に尽力し、その態度は身分の貴賤に拘らず分け隔てない。長きに渡り国を支えた亡き将軍の娘で、ついこの前にはあらぬ魔族容疑を掛けられた(という事で収まった)という悲劇のヒロインだ。入軍の志望者の二割がセラム目当てという数字も出ている。
「そんなに固くならなくてもいい。本当に何も無いかい? 僕は実務ではお飾りみたいなもんだが、だからこそこうやって暇を持て余しては皆の意見を聞いているのさ。これでも階級は高いからね、君達の役には立てると思うよ?」
セラムは自虐気味に笑いを誘い、自らも整えられた顔を笑みで崩す。実務能力では部下にセラムよりも有能な人材が多くいるのは嘘ではないが、暇を持て余しているというのは嘘である。現場の実務などやっていられない程に忙しい。それこそ、成長期の貴重な睡眠時間を限界まで削り、目の下の隈と顔色を化粧で誤魔化す程には忙しい。それでもこうやって現場の、特に下級の兵士達を労い、その意見を汲む事はやめようとはしない。こういった地道な積み重ねが自分の為に死んでくれる強靭な隊を作り、全体の生存率を上げる事を知っているからだ。
「本当に何も、最近は大分慣れてきましたし。……ああでもなんか怖い人達が僕達を睨んできた事がありましたね。着ている鎧がうちと違いましたし、あれがゼイウン公国軍なんでしょうか」
「睨んで……? そうか、ありがとう。引き続き職務に励んでくれ」
どうやらヴァイス王国軍は随分とゼイウン公国軍に恨まれているらしい。セラムが引き起こした惨状からすれば当然かもしれないが、このままでは連合軍としてはまずいかもしれない。
「少将! ここにおられましたか」
聞き慣れた青年の声がセラムの耳に届く。振り返ればカルロが駆け足で近寄ってくるところだった。
「カルロ、君もここに来たか。今着いたところか?」
「ええ。しかし少将、出陣されるならせめて隊を連れて行かれれば。工兵ばかりで来て万が一があればと心配でなりません」
「今に限って言えば戦闘などまず起こらんさ。それに兵士を食わすのにどれだけの物資が必要だと思っている。これからの事を思えば無駄飯を食わすような余裕は無いのだぞ」
「守備の為の待機は立派な任務だと思うのですが」
カルロは尚も食い下がるが、セラムが自分の意志を曲げない事は彼自身がよく分かっていた。我儘な性格ではないが、この小さな上司は一度決めた事を必ずやる。しかも決めるまでは熟考するが、不言実行で即断即決。それ故にいつの間にか引き絞られた弓から突如放たれる矢のように唐突に突っ走るきらいがあるのだ。副官であるカルロは心労が絶えない。無駄と分かっていても小言が出てくるというものだ。
「それ程までに余裕はありませんか」
「綱渡りさ。何せ準備期間に優位が無い。よーいドンで戦争が始まる五分の条件の戦闘だ。我々は一刻も早く陣地を構築せねばならん。しかもこっちは碌に連携が取れちゃいない。幸い、この一年間で工兵という陣地構築の専門職を作った。分析能力は我が国が上回っているという自負もある。戦争の準備という点では一日の長があると思っているよ。それを最大限に生かす為にも無駄は極力省かないとな」
「だからといってご自分を危険に晒すのは感心しません。まったく貴女という人は……」
「おーい、あんた方。セラム少将がどこにいるか教えてくれんかね」
野太い男の声がカルロの説教を遮った。ゼイウン公国軍の鎧を着た集団が横柄に歩いてくる。見るからに立派な鎧を着ている中央の男がその集団の頭なのだろう。
セラムは失礼にならないように、しかし遜らないように返答する。
「僕がセラムですが、ゼイウン公国の将とお見受けします。失礼ですがお名前と階級を伺っても?」
「あんたがセラム少将だったか。いや、ははっ噂に違わぬ出で立ちだ。俺はザシャってモンだ。一軍を束ねている」
噂というものがどういったものかは知らないが、あまり愉快なものではなさそうだ。どうやら相手には礼を尽くすとか遜る気は全く無いようだった。
「しっかしなんだあ? あんた方、一番に陣を張ったと思ったら、戦う格好の奴が一人もいねえじゃねえか。どこ見ても穴掘るか木材運んでばかりで槍持ってる奴すらいねえ。本当に戦う気あんのかあ?」
失礼の極まった物言いにカルロは喉まで出かかった反論をぐっと堪えた。互いの国で階級制度が違う為一概には言えないが、一軍を束ねる将という事でセラムと同格、その上で国としての格と連合軍盟主の軍という理由で自分の方が偉いと勘違いしている輩なのだろう。だが少なくともカルロがとやかく言える相手ではない。
この態度の根本にはメルベルク砦での一件による溝がある。その負い目はあれど、ここで舐められては今後に支障が出るだろう、そう判断したセラムは苛立ちを隠さぬままに言葉に棘を含ませる。
「貴方がたこそ何をしに来たのですか? 見れば槍を地面におっ立ててぼーっとしている者ばかり。今は一刻も早く堅牢な陣地を作る時でしょう。お暇ならば手伝って頂きたいものですな。リーンハルト公に要請を出すべきでしょうか」
「ぐっ……」
まさかこんな小娘から達者な弁が出るとは思わなかったのだろう、ザシャは悔しさを顔に滲ませつつもここで無暗に両軍に亀裂を作るような真似はまずいと悟り言葉を飲み込む。
「ふん、戦闘になった時に精々足手纏いにならんようにな」
そう捨て台詞を吐いてザシャが立ち去る。セラムは溜息を一つ吐いて愚痴る。
「はあ、メルベルク砦を見た時にはよくこんな自然の要害を上手く利用した見事な砦を作られたものだと感心したものだが、あのような者を見るとメルベルク砦の作り手と同じ民族だとは思えないな。やるべき事すら理解せずに喧嘩を吹っ掛けてくるとは」
「こんな事を言ってはいけませんが、胸がすっとしました」
カルロも笑ってみせる。やるべき事を最大限に努力している部下達を馬鹿にされるのは余程腹が立ったのだろう。
「だが自然を利用する彼らの建築術は手本とすべきところでもある。我々もな」
「それは、まあ。しかしこのような開けた場所で利用するものも……」
にやりと笑うセラムにカルロは考え、悩む。ここは山はおろか木すらぽつぽつとしか生えていない平野なのだ。
「地面があるじゃあないか。一面似たような景色の地面が」
セラムは指で下を指し示し歯を剥き出した。こういう時、以前のセラムは小悪魔の微笑といったいたずらな笑みを浮かべていたが、最近のセラムは悪魔の凶笑と言った方がしっくりくる。カルロは寒気を感じたが、それが恐怖の感情からくる怖気なのか心服の感情からくる恍惚なのか判断が付かなかった。




