第二十六話 魔狼
「あー体楽になってきたわ。しっかしこれからが大変やな。このまま帰っても絶対疑われるやろこれ。ウチは最悪姿晦ますけどセラムはんはそうはいかんやろ?」
「そうですね……」
「おっさんも最後にやっていきおったなあ。これどう見てもウチら殺人犯やん。しかも教会からの派遣員の。セラムはんなんかええ案ある?」
「いえ、正直何も。こうなれば帰って真っ向から教会に反論するしかないかも……」
その時、話の途中でセラム達はまるで氷漬けにされたかのような感覚に陥って動きを止めた。視線だけを嫌な予感がする方へ向ける。深い木々の間、今まで暗がりだった空間が圧倒的な闇に塗り潰されていた。気が付けば辺りは物音一つしない、空気ごと凍ったような静けさだった。
「ほう、久方振りに出でてみれば聖職者が供されているではないか」
今まで何もなかった空間、光さえ吸い込むような闇から溶け出るようにそれは出てきた。大きな角を生やし鋭い牙を持った漆黒の大狼がそこにいた。
「それに娘が二匹。良い良い、我への供物としてはまあまあだ。地上へ出てきた甲斐があるというもの」
それが出てきた時からまるで闇という怪物の腹の中にいるかのような恐怖に囚われ、眩暈と耳鳴りが止まらなくなっていた。
セラムはこの感覚に覚えがあった。かつてニムンザルグと名乗った存在と話していた時の感覚、それを幾分か弱くしたような感じだった。
「上位魔物……っ」
セラムは固まった口で何とかそれだけを絞り出した。目の前の魔狼が一歩踏み出すと地面から瘴気が立ち上る。セラム達は生きている者が立ち入ってはいけない場所にいるような錯覚に陥った。
「これが魔界の穴っちゅうやつか。見るのは初めてやが、強烈やな」
カゴメの足が小刻みに震えている。感覚が鋭い分セラムよりも死を実感しているのかもしれない。だがカゴメはその足で半身に構え刀を引くように刃先を後ろに滑らせる。その構えから成る剣筋は一つしか無い。真一文字に一閃、カゴメは死を覚悟した一撃必殺を見舞う気だ。
「こんな所で死にとうない。ウチはやらにゃならん事がある。……けどっ!」
「はっ、人間如きがニムンザルグ様の僕たる我に挑むか。正しく暴虎馮河というもの。どれ、食う前の運動くらいにはなるか」
その言葉を聞いた時、セラムの恐怖が不条理に対する怒りに変わった。頭の中で糸が切れるような音がして、恐怖で冷たく竦んでいた体が燃え盛るように熱くなった。
「死? 食う? 誰が、誰を食うというのだ?」
「セラムはん?」
セラムが踏み出し地面に刺さっていた自分の短剣を屈んで抜き取る。一人と一匹に不審な目で見られながら、セラムは幽鬼のように立ち上がりその短剣を魔狼に突き付けてみせた。
「たかだか神もどきの番犬如きがこの僕を殺すというのか犬っころがァ!」
セラムが吠えた。魔狼の一撫でで命ごと吹き飛んでしまうような存在が恐れもなく大見得を切ってみせた。これにはカゴメだけでなく、魔狼すらも意表を突かれ怒りよりも呆けが先立った。
「ニムンザルグに比べればお前の畏れなんぞ大した事は無い! いつかグリムワールをも殴ってやるから大人しくしてろお前らはァ!」
それは頭に血が上った結果無意識に出た言葉なのだろう。ニムンザルグの僕と言われたから、かつてニムンザルグと話した時にかの神が反応した言葉を出しただけの話だ。ただ、その言葉は存外効果的だった。
「今何と言った小娘。グリムワールを殴る? それに我が主にも会ったような口振りだが……。いやしかし」
魔狼がふんふんと鼻を近づけセラムの匂いを嗅ぐ。セラムはそれを睥睨しながらも身動きせず嗅がれるままになっている。
「まさかセラムはん、本当に魔族やったん……?」
「ん……? 微かにニムンザルグ様の気配を感じるが干渉されている様子は無い。しかしこの違和感……。小娘よ、貴様面白い運命を背負っているようだな」
魔狼は納得した顔でセラムから離れる。再び向き直ると最初の威圧感はそのままに、しかし戦意の無い声で続けた。
「小娘よ。その脆弱な肉体のまま創造主に逆らおうというのか?」
「必要とあらば。いや、必要が無くってもこの理不尽な目に会わせたお礼はさせていただきたいところですけどね」
「ふぅむ、それは我が主の目的にも合致する。だからこそ主は貴様をそのままに解き放ったのかもしれんな」
「目的? さっきからあんたら何を言うてんのや……?」
カゴメが付いてゆけず口を挟む。その問いに魔狼は厳かに答えた。
「かつてこの世界は創造主によって創られ、その代理者として権限を与えられた二柱の神によって統治されていた。その枠組みの中で数多の命が生まれ育まれた。降り注ぐ禍に、僅かばかりの幸福に、皆与えられた生に満足していた。だが我が主は気付いた。所詮この世は創造主の遊興、気分次第で創られ壊される玩具に過ぎないと。幾ら生を謳歌しようと創造主に操られ与えられた南柯之夢に過ぎないと。この世界の創造主に弄ばされる数多の命に心を痛め反旗を翻したのが我が主よ」
その言葉をセラムは冷静に聞いていた。何となく予想はついていたのだ。その創造主に記憶を弄られ、過酷なる運命に翻弄されたのは他ならぬ自分であるからだ。
「我が主は世界のもう一柱、ユーセティアに相談を持ち掛けた。この世界の在り方に疑問は無いか、この世界に生くる者達を思えばこそ悔しくはないのかと。しかし奴めはそれで良いと言いおった。例えそうだとしても幸せに生き、その生に喜びを見いだすのならば良いではないかと」
魔狼は口から紅蓮のような瘴気を吐き出して吠えた。カゴメの体が再び硬直する。
「冗談ではない! 我々は使い捨ての玩具ではない。自由意志のある一己の生命であるべきなのだ。例え汚泥に塗れた生であろうとも、自分の意志あればこそ誇りある生であると言えるもの。その事すら否定する腐りきった根性に我が主は見切りをつけられた。ユーセティアに、そして創造主に戦争を仕掛けたのだ。その志を同じくしたのが我らよ」
そこまで言って魔狼はその気炎を引っ込め項垂れた。
「しかし創られた我らではユーセティアは兎も角創造主には成す術が無かった。いや、反旗を翻す事すら創造主の筋書き通りだったのかもしれん。結局この間の大戦ではユーセティアを封印するまでいったものの、我らの殆どは別世界に追いやられてしまった。特に我のような上位の存在はほぼこちらに来る事が出来ん。今のように条件が揃わなければな。正しく天網恢恢疎にして漏らさずよ。その網目が大きい為か下位の魔物は割と行き来しているようだが」
セラムはそこまで聞いて短剣を下した。
「合点がいったような気がします。どうやら僕達の目標は共通点があるようだ。ここは一つ見逃しては貰えませんか?」
「我に指図するつもりか? 小娘」
「指図ではありません。命令でもありませんし、ましてや懇願でもありません。これは交渉です」
「はっ、この我に取引を持ち掛けると言うか」
魔狼はさも可笑しそうに体を揺すらせる。
「言っておくが貴様らを殺す事など大した労力ではない。それを態々見逃す理由が無い。何故そのような取引に応じなければならん?」
「ここで僕達を殺す事があなた方の損になるからですよ」
「何故に? 損どころか貴様らは実に美味そうで食欲をそそるが」
「あなたが先程言ったでしょう? 僕の目的はあなた方のそれと合致すると」
魔狼の尻尾が風を巻き込んで揺れた。
「あなた方はグリムワールに一矢報いたい。だが奴の創造物故にその全てが奴の思い通りだ。しかしニムンザルグもどうやら何かを感じて僕を見逃したらしい。もしかしたら僕の方が何とか出来る可能性があるんじゃないかと思われた、と睨んでいるのですがね」
実際のところ神に会う方法など全く思いつかない。神や上位の魔物や竜族のように長い寿命がある訳でもない。それどころか明日にでも死にそうだ。しかし零パーセントと那由他分の一パーセントでは雲泥の差がある。もしかしたらだが、その可能性の差にこそニムンザルグがセラムを見逃した理由があるのかとも思う。
ただ、そんな不確かで蜘蛛の糸よりもか細い推測でも頼りにしなければ今を生きる事は出来ない。どんな些細な理由でもそれっぽくでっち上げはったりを利かせて交渉の材料にするしかないのだ。
「確かに我が主と会って干渉を受けていないというのは不可思議だ。実際に期待を向けているかは兎も角貴様の弁、一理ある。ならば小娘、貴様だけは見逃そう」
そして魔狼はぐるりと首を回転させた。その眼光がカゴメを捉える。カゴメは全身から汗を噴き出しつつもぎゅっと刀を握りなおす。
「そちらの娘は食うがな!」
「待ってください」
セラムは尚も落ち着き払って片腕を広げてカゴメを庇う。
「何故邪魔をする? 貴様は見逃すと言った筈だ」
「彼女は僕の目的に必要な人物です。見ての通り僕一人では下位の魔物にすら敵わない弱い存在です。僕を押し上げるのは彼女のような人が必要なのですよ。あなたにとっては木っ端のような存在かもしれませんが」
魔狼はあからさまに不機嫌な唸り声を漏らし濃密な瘴気を巻き散らす。常人ならば恐怖の感情だけで死んでしまいそうな状況下の中、セラムは馬上の風に当たるかのような涼しげな表情のままその腕を下さない。
一人と一匹の睨み合いがどれだけ続いただろうか。幾分? 幾秒? もしかしたら日付が変わる位かもしれない。少なくともカゴメには永遠のように思えた。
その均衡を崩したのは魔狼の方からだった。睨み合いに飽いたようにわざとらしく欠伸をしそっぽを向く。
「分かった分かった。その娘は諦めよう」
その言葉が終るかどうか、瞬きの間に魔狼はバルナバの遺体を咥えていた。
「こいつだけで我慢するとしよう。最大限の譲歩だ」
カゴメが何かを言いかけた。しかし感情とは裏腹にその体も口も動く事はなかった。魔狼に睨まれ石像のように固まる他なかった。
「ではな。もう会う事も無いだろう」
そう言って魔狼は再び闇の中に消えた。その姿が溶け入った後に残ったのはいつもの森の静寂さと僅かばかりに感じる日の光、四体のオークの死骸、そしてバルナバの血痕だけだった。バルナバの姿はもうどこにもない。その血痕が無ければ全てが夢かと思う程信じられない出来事だった。
カゴメは震える息を深呼吸で整える。流石に歴戦の剣士だけあって二呼吸で震えを止めた。今尚カゴメを庇うように腕を下さないセラムに話しかける。
「くっそ、おっさんを取られてもうたな。悔しい、がどうにもでけへんかった。……セラムはんはようあんな啖呵きれたなあ」
するとセラムは錆び付いた機械のように振り向いて言った。
「漏らしそうです。今になって脚ガックガクですよ」
「ぷっ」
泣きそうなセラムを見てカゴメが失笑した。笑いながら後ろに倒れ地面に尻を預ける。
「ひゃっひゃっひゃ、……あー、ほんま、よー助かったもんやな」
セラムもまた座り込み後ろ手で体重を預ける。
「本当に」
「……おっさんは残念やったな」
「……本当に」
「これからどないしよか」
セラムは天を見上げる。
「帰りましょうか。なるようにしかなりません」
悟ったような顔でそう言った。




