第二十四話 バルナバ
ヴァイス王国の国内で最も崇高で神聖な区画、大聖堂の一室に呼び出されたタルキ司教は珍しく緊張した面持ちで扉の前に立っていた。扉の向こうにいるのはオリンド大司教、タルキにとってこの国で唯一自分より偉いと言える存在だ。タルキは常々他の存在など悉く衆愚と心中で蔑んでいるが、それでも尊敬すべき人物はいるものだ。権威には弱いのである。
「司教タルキ参上致しました」
「よく来たね。まあ掛けなさい」
着座を促されタルキは椅子に腰掛け居住まいを正す。
「大司教が私をお呼びとは珍しいですな。何かお困り事でもありましたかな?」
「ふぅむ、そう見えるかね?」
オリンドはいつも柔らかい笑顔を湛えた老人であり、その表情の真意は読み取り辛い。ただ、タルキは他人の機微を読み聡明に世を渡ってここまでの地位を手に入れた人間だ。状況と僅かな皺の寄り方の違いでアタリを付けて気を利かすくらい造作も無い。
「大司教の前の小石を除くのが私の趣味でして。よろしければお話しください」
「実はな、この前話しておったろう、あのセラ……セラ……」
「セラム・ジオーネの事で御座いますか」
「そうそう、それじゃ。歳を取ると忘れっぽくなっていかん」
タルキは真剣に聞く表情と姿勢を取る。こういった誘いに迂闊に返事や相槌をしようものなら左遷されかねない。言葉一つで不興を買っては人生を壊される、そんな同僚は腐る程見てきた。権威主義に凝り固まった毒蛇の巣でのし上がった男にとって、ここが正に戦場なのだ。
「そのセラムなんちゃらっちゅう娘の事じゃが、どうしておるかと思ってな」
「その事なら以前大司教が嘆かわしい事だと仰ったので手を打っておきました」
魔族容疑が広まった時の事である。その報告は当然教会にも届けられ、オリンドは「大貴族が、嘆かわしい」と呟いたのだ。タルキは当然の様にその行間を読み、先んじて行動した。
「はて、何をしたのかな?」
「はい。神明裁判として魔物退治をさせました。見届け人はバルナバに」
その言葉を聞いた瞬間、オリンドの人の好さを形作っていた皺が激しく逆立った。その形相を見るやタルキは椅子から転げ落ちる。
「この愚か者が! 誰がそんな事をせよと言った!」
「も、申し訳ありませんっ。ですがバルナバは魔族容疑者を何人も葬ってきた実績があります。魔族討伐にも二回参加してそれを殺した実力者。魔族相手ならばバルナバは確実に任務を遂行するで……」
「だからまずいのだ!」
「ひぃぃっ」
畏れるタルキが更に一歩後ずさった。
「まずい、まずいぞ……。よりによってあのバルナバ!」
国王ですら敬意を示さねばならない存在である大司教たる者が目に見えて焦っている。魔族が出現した時ですら穏やかな笑みを絶やさないオリンドがだ。まるでこの世の終わりが訪れる原因と責任を一身に負わされるかのような焦りようだ。
「すぐに呼び戻せ!」
「はいぃ。ですが理由は……。理由が無いと戻せません」
「そんなものは適当に考えろ! これは教皇の勅令なのだ。……セラム・ジオーネを放置せよ、と」
放置、という微妙な文言が更にタルキを混乱させる。容疑が晴れたのならばそのような物言いにはなるまい。しかし魔族であれば正しく一大事であり、容疑者のまま無罪放免はあり得ない。教皇、延いては勅令を伝える枢機卿はセラム・ジオーネについて何かを掴んでいるのかもしれない。国すら滅ぼしかねない魔族の脅威すら霞むような何かを。
「兎に角任務を中止させろ! 最悪の場合は、教会が関与していない事にするしかない。それすらも生温いかもしれんが……」
「直ちに!」
タルキが去った後、オリンドは組んだ指に頭を乗せて思考に耽る。教皇の勅令で一個人を指名し「放置」などという言葉を用いる事に違和感を感じざるを得ない。
「魔族討伐はユーセティア神がお許しになっている我ら教会の使命。それを中断させるような異常事態、もしかしたら教皇は何か計り知れぬものを隠しているのかもしれませんね。私はおろか、神の声を聴く神凪様すらご存じないような何かを」
ユーセティア神の意思をも超える何か、と考え、ついと組んでいた指を固く握りしめ机を叩く。オリンドは考えてしまったのだ。誰もが御伽噺、概念上の存在だと考えている創造神の実在を。
「まさか……な」
オリンドはそれ以上何も言わなかった。口に出せば何か恐ろしい事が起こるような気がして何も言えなかった。
一方タルキは方々に手を尽くしていた。セラムとバルナバが魔物討伐に向かって既に三日。最早手遅れだと薄々思いながらもやれる事をやるしかなかった。バルナバの任務を即座に中止させると共に、もし間に合わなかった時に備える。即ち教会関係者にバルナバなどという者は存在せず、この件に関して一切教会の関与は無い。セラム・ジオーネの魔族容疑を教会は認知していないと通す準備を。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
バルナバの矢はカゴメに向かって放たれていた。もしセラムを狙っていたのなら、カゴメはぎりぎりのところでその矢を切り払ってのけたかもしれない。何せカゴメはずっとバルナバの動向を警戒していた。彼がセラムに対して何度か殺気を向けていた事に気付いていたからだ。本当に実行に移す気があったかは兎も角、その殺気を感知する度にカゴメも気を張っていた。水面下では何度も戦いが行われていたのだ。
そんなカゴメであるからして、オーク共と戦っている時もセラムとの位置は常に気に掛けていた。バルナバとセラムの間に自分かオークが入るように動き、視界外にいる時もバルナバの動きは感じ取っていた。だからこそカゴメは今もバルナバとセラムの間に自分の体を置いていた。だがそれ故に、と言っていいだろう。完全に虚を突かれてしまった。
この旅でバルナバがカゴメに対して殺気を放った事は無い。そして今も殺気は感じなかった。バルナバは気を消して動ける手練れであるという事だ。その上強敵との連戦を終えた瞬間という、一番油断が入り込む隙を狙われた。そこへ今まで執拗にと言ってよい程にセラムに執着していたバルナバの初撃がカゴメに向かったのだ。
それでもカゴメの意識は間に合っていた。普段のカゴメならばその矢を刀で弾いてみせただろう。しかし限界を超えた動きを要求される秘剣ラプラス二の型によって最速の剣は錆び付いていた。
(間に、合わん……!)
一寸の差で矢は無情にも刀の脇をすり抜けカゴメの腹部へと潜り込む。
鼓膜を弾くような軽い金属音がした。矢は不自然に軌道が逸れ、あらぬ方へと飛び去る。
「ほう、間一髪で刀で防いだか。しかし、掠ったな?」
確かにカゴメの服は裂かれ、血が滲んでいた。
「あの間合いで防ぐとは驚愕するほかない。しかしあの矢には神経性の毒が塗ってある。刺されば全身が麻痺し即死する対魔族用の猛毒だ。掠っただけでも痺れていき動けなくなるだろう」
カゴメは確かに腹部に痺れを感じた。だがバルナバが言う程の効果は感じない。
(ちゃう……。あの時ウチの刀は間に合わへんかった。あの矢が防げたんは……)
カゴメがいつ如何なる時も懐に入れておいた父の形見の守り刀、それが矢の直撃を防いだのだ。父の遺志が自分の身を守ってくれたように思え、カゴメの目頭が熱くなる。
(けど掠った所が痺れてるのも事実。すぐに動けなくなる事は無いにしろ危うい。奴が思てるよりも動けるっちゅうのを隠して一撃に賭けるしかあらへんっ)
動かないカゴメの横にセラムが歩み出る。自分が狙われるのならば仕方がない、そんな風に思っていたセラムも、自分の為にカゴメが狙われ命を落とすかもしれないとあっては穏やかではいられない。
「何故ですバルナバさん!」
「何故だと? これが任務だからだ」
バルナバの鉄面皮がいつもより冷たく見えた。
「我が名はバルナバ。ヴァイス王国方面魔族討伐隊副長バルナバ。魔族を滅する事こそ我が使命。故に貴様にはここで死んでもらう」




