第二十二話 対オーク戦その2
「期待通りやな。臭いに気付いてうちらを探しとるんやろう」
二人の顔が引き締まる。カゴメはその方向にある木の幹に縄を結ぶとセラムを促す。
「ええか、くれぐれも近寄り過ぎんな。多分そこまでせんでも奴は気付いて捕まえようとしてくる。気付かれたら一目散や」
セラムは静かに頷き奥へと歩みを進める。自然と忍び足になりながら示された方向へ向かう。果たしてその異形は確かにそこにあった。
緑色の肌、肥満体型ではあるが相撲取りのように筋肉が付いた体。豚のような頭。物語の化け物がそこに居た。
(武装してる……っ)
人間のように剣を持ち革鎧を着こんでいる。鎧の方はサイズが合っていないらしく前後を分離させて垂れ下げているだけのようだが、話に聞く通り武具を使う事もあるようだ。
セラムは慎重に距離を調整する。音を立てるまでもなく、オークはその嗅覚で目論見通り此方に気付くと体を揺らし声を発した。
「オ、オォン……」
涎を垂らし鼻をひくつかせる。
「オンナァァ!」
意志のある咆哮と共にオークが駆け出しセラムを捕らえようと腕を伸ばしてきた。
(言葉も喋るのか!?)
セラムはその本能に塗れた醜悪な気配に怖気を感じつつ来た道を脱兎の如く駈け出した。
魔物としては下位の部類で、一対一で勝てない事も無いとされるオークだが、目の前にしてみればとてもそうは思えない。力強そうなその体躯に半端な知性は、怒らせたゴリラを相手にするようなものだとセラムは思った。
追いつかれまいと必死に走るその先に光が見える。あの木の間を抜ければ罠のある広場。セラムは一気に駆け抜けると落とし穴を迂回し振り向く。
オークが近づいてくる様子をカゴメは木の上で見ていた。手には縄が掴まれている。縄の先は下に伸び、二本の木を回り込み幹に結んである。
(三……二……一……)
カゴメはここぞという間を見計らって縄を引っ張る。木と木の間に張り巡らされた縄が持ち上がり転倒罠と化す。
しかしオークは咄嗟に跳び上がりその縄を避けてしまう。罠は不発、そう思える状況をカゴメは冷静に見ていた。
(オークは半端に頭がええ。こんなもんは簡単に跳び越えてまうし、元々あの体重で突っ込まれたらこんな手で引っ張った程度の縄じゃ支えきれん。せやからこいつは敢えて跳ばせる為の罠や)
そして跳び越えた先には事前に掘っておいた落とし穴。オークが着地する筈の地面が異様に頼りない事に気付いたのは、全てが手遅れになった後だった。
セラムという獲物の目の前であらぬ方向に脚を曲げながら崩れるオーク目掛けて、カゴメが木の上から跳んだ。
「ォオォアアー!」
悲鳴と共にオークの右腕が両断された。カゴメは足が地面に着くまでの刹那にオークの体を蹴り、勢いを殺して不安定な地面を物ともせず着地する。
オークは持っていた右腕ごと剣を失い苦し紛れに左腕を振り回す。が、その試みも空しくカゴメの刀が左手首を深々と斬った。
断続的に響く悲鳴。暴れる度にその身を刀で刻まれ、ついにはオークの抵抗が無くなる。まるで拷問吏のような非情。屠殺でもするかのように感情を殺し作業的に動きを封じるカゴメ。
これが戦場の専門家故のものか、それともこの世界の人間として魔物と相対する時のあるべき姿なのか、セラムには判断が付きかねた。自然と弱者に向ける憐憫をオークに対して持ちかけているのを自覚し、セラムは自戒する。これからやるべき行動にその感情は邪魔なものだ。
「さ、準備が整ったでセラムはん」
まるで料理の下拵えが終わった程度の軽さでカゴメが言う。セラムは自分もそうあるべきだ、とバルナバの視線を背後に感じつつ気を引き締める。短剣を持ちゆっくりと近づくセラムに、オークは顔を向け許しを訴えていた。
(泣いている……)
セラムは自分がこれから為す事の意味に実感を持ち、血の気が引いた。
人は何かを殺さずに生きてはいけない。存在するだけで日々生物を殺しつつ生きている。そこに意味を持たせてはいけない。価値を量ってはいけない。気付いてしまえば人は罪悪感で生きてはいけないだろう。
だが。
対象の感情が分かる、それだけでこれ程までに覚悟がいるものか。
「あんま時間は無いで。即死は避けたとはいえ致命傷や。そいつはじきに死ぬ」
じきに死ぬから何だ。なら殺しても良いとでも言うのか。そんな見当違いな感情がセラムの頭を締め付ける。そんな場合ではないというのに。
ここで殺さなければセラムは魔族として認定される。それはセラム一人の命で贖える罪科ではない。三族は皆殺し、親しい者や庇った者も嫌疑をかけられ、罰を受ける。家の者はただ路頭に迷うだけでは済まないだろう。
それだけではない。国の重臣から魔族が出たとなれば国家の信用に係わる。同盟関係は崩れ軍の体裁は崩壊し戦争に負けるだろう。セラムの短剣に国の運命が懸かっている。
オークに右腕は無く左手からは血が噴出し、脚は落とし穴に嵌まったままあり得ない方向に曲がりうつ伏せになっている。まるで斬首台に首を乗せられた囚人のようだ。
セラムはその足側に回り込み背面から馬乗りになり短剣を構える。オークは唯一自由に動く首を弱々しく振り涙と嗚咽を垂れ流している。
セラムは手が震えるのを自覚した。
守る為に殺す、そこに矛盾は無い。それは論理では分かっている。
だが。
初めて人を殺した時の感触が思い出される。感情が拒絶する。手が震える、足が震える、吐き気がする、頭痛がする、腹痛が酷くなる。
(血が……っ血が……っ!)
「分かっとるかもしれんけど」
前後不覚になりかけたその時、カゴメの声が耳に届いた。
「そいつらが持ってた武具、人間のもんやで」
セラムの意識が急激に覚める。
「旅人か山族か冒険者か討伐隊か、探せばそこらに食い残しがある筈や」
短剣を握りしめた手に力が籠もる。それでも必死でこちらに縋り付くように首を横に向け咽び泣く生き物の姿を見ると腕が動かない。
「狙うなら首を一撃、頸椎を両断すれば長く苦しむ事無く一発で動かんくなる」
それはまるで天使の福音に思えた。或いは悪魔の囁きか。
どちらでもいい、楽にしてやる事が今の自分に出来る最良の事なのだ。
殺害許可を得たセラムは渾身の力を籠めオークの首にその短剣を突き立てた。それ以上の苦悶は無かった。数度身体が痙攣した後は文字通り動かなくなった。
セラムは呆然と周りを見渡す。バルナバは事の成り行きを冷静に見届け、カゴメはさも当たり前の事をし終わったというような真面目で冷静な顔をセラムに近付けた。
「殺しは初めてか?」
カゴメの声は特別何の感情も乗っていない。敢えて何事も無かったかのように振る舞う事がカゴメの優しさなのだと気付く。
「い、いえ。前に一度……」
「成る程な、じゃあ前のが相当残ってるんやな。人としてはいい事かもしれんが、今後を考えたら割り切ってまった方が楽やで」
「はい……」
今尚震えが止まらない。セラムは自分の手足の惨状を見て「生まれたての小鹿か」と自嘲する。
「一番楽なタガの外し方は怒りや。その理由が見つからん場合は『他人に言われたから』ゆうのが楽や。理由を他人に求める、あんたら軍隊がよくやる手や。命令、ってな。薬を使う所もあるけどお薦めはせん。慣れればなんも考えんで済む」
カゴメの手がセラムの手を柔らかく包み、オークの首から短剣を抜くよう促す。その温かみがセラムの体の末端に体温を取り戻してくれる。
「さ、女の子がいつまでもそんなのに跨ってるもんやないで。大体セラムはん今ズボン履いとらんやろ。丈が長いとはいえ見えるで」
スカートとは何と頼りない布なのかと思う。カゴメに見られるのは兎も角、欲望に塗れた視線が刺さると思ったより嫌なものだとセラムも今では理解できる。自然バルナバの方に注意がいったが、バルナバはというと全く違う方向を見ていた。
それに気付いたのと同時位だったろうか、カゴメもそちらに体ごと向き直り警戒を露にする。
「来るで!」




